『電波メディアの神話』(4-7)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第四章 権力を守護する象牙造りの
「学説公害」神殿 7

神話のカラクリがはてしなくつづくカラクリの秘密

 神話のカラクリの構造そのもののは、すでにのべたように意外に簡単で、数学でいえばXYZが出てくる代数の程度である。むしろ、官学の教授などの専門の学者先生が、なぜこんなに簡単なカラクリをみぬかないのか、またはみぬいているのに率直に口にださないのかという象牙の塔のカラクリの説明の方がむずかしい。いや、それもこの際、私自身がうらみを一身にひきうける覚悟をきめて、誤解をおそれずに、もっとも簡単な方法で解決してしまおう。

 というのは私は、先に標的にした東京大学の(旧)新聞研究所と(現)社会情報研究所の教授たちの何人かと面識がある。そのうちのだれということになると迷惑だろうから名前はふせるが、何人かからつぎのような趣旨のうちあけ話をされたことがあるのだ。

「私たちは、当局や企業から情報をえる立場にあります。だから、特定の立場での発言はひかえることにしています」

 たしかに、そういう立場だ。無理をしてはならない。カール・マルクスはベルリン大学教授の座まで提供するという権力の誘惑をけったが、皆がそのまねをする必要はない。

 だが、そうであってみれば当然、こういう立場の、国家公務員で官学の教授またはそれを目指す研究者は、真向から当局と対立するような見解を発表するわけにはいかない。もちろん実際には、研究所の教授、助教授、講師、助手、それぞれが個人的にことなる意見をいだいている。丸暗記のロボットばかりではない。しかし、それらの個人的ないしは独自の意見は、非常に屈折した表現でしか発表されえない。私は相当数の論文を読みくらべた経験があるから、それはわかっている。ただ残念なことに、研究所のお歴々がそういう立場にあるということを、白分の論文でことわり書きしたりすることもありえない。そこがこまるのだ。その処世術がいいかわるいかは別として、客観的にみれば、神話のカラクリがいつまでもつづくカラクリになってしまっているのである。

 そこで、本書の趣旨にそって情報の流れという側面から、この事態を考えなおしてみよう。

 まずは教授、助教授、云々の肩書きが発する眩惑の後光を、思いきってさえぎってみる。すると、以上のような状況であってみれば、こういう立場の研究者の意見発表の仕方は、取材と発表との関係に着目するかぎり、近頃ますます評判の悪い大手メディア政治部の「番記者」のそれとえらぶところがないことが判明する。つまり基本的には、体制側との癒着による情報の独占であり、情報公開をさまたげる反市民的な立場の「産・官・学」協同以外のなにものでもない。本来、そんな場から市民の立場にたった研究がうまれると期待する方が無理なのだ。おまけに、ある程度は市民的な立場を意識する研究者にさえ「“アンガージュマン”の欠如」という決定的な弱点がある。これはやはり要注意ではないだろうか。

 象牙の塔の内部の住人も、大手メディアの中の企業ジャーナリストも、似たような立場にある。労働組合に所属したり、市民運動に参加する自由もあるにはあるのだが、それにも限界がある。ともかく、まるごと信頼せよと胸をはることができる状態では決してないのだから、それを自覚して必要以上に権威をふりまわさないように自制すべきだ。同時にかえす刀できりつけると、つねに権威に判断をあおぎ、大学教授という肩書きに眩惑されっぱなしのがわの方も、この際、大いに反省すべきである。


第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業