『電波メディアの神話』(4-5)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第四章 権力を守護する象牙造りの
「学説公害」神殿 5

「象牙の塔」研究所が守護する伝統的公式見解

 たとえば研究所の浜田純一教授は椿舌禍事件に関連して、「放送における『公平性の構造転換』」(フジテレビ編成局調査部発行、『アウラ』93・12・17)と題する論文を発表している。浜田は、そこでの立論の前提として、「放送メディア」にたいする「法律」的な「規制の根拠」を、「周波数帯の希少性」にもとめている。つまり、一応は「法律」の世界の論理として説明するのだが、別にその「法律」がはたしている役割を批判するわけでもない。だから結局、「法律」ですべてをとりしきり、「希少性神話」の奉戴をつづけていることになる。

 この種の見解はもとより浜田個人の発明ではない。新聞研究所時代からの伝統的な公式見解である。

 私は『テレビ腐蝕検証』(第三部「日本版“ザ・ネットワーク”戦略」を担当)のなかで、当時の新聞研究所の内川芳美教授の文章を引用し、それを批判した。内川は『講座・現代のコミュニケーション』の三巻で、電波の「特性」として「希少性」をあげて、こう説明していた。

「放送は、放送という表現媒体による言論の自由を保障するために、ある程度の公的規制を避けることができないという特性を持っている」

 私は『テレビ腐蝕検証』の「電波メディアの現代神話」の章でつぎのように指摘した。

「電波の有限性は、たしかに一定の範囲では科学的事実である。しかし、たとえば四つのチャンネルが物理的に使用できる状況の下で、その四つをすべて配分するなら、まだしもの理屈が立つが、そのうちの一本しか配分しない、使用させないという政策のときに『有限性』を持ち出すのは、しかも、あとからいいそえるのは、明らかにスリカエである」

 私はなにも、内川個人が直接的に「スリカエ」をしたと主張したわけではない。犯人として指名手配したのは、むかしなら逓信省通信局、いまなら郵政省電波監理局という監督官庁である。もっとも、それをいえばなおさらに、最高学府の名をほしいままにする東京大学の専門的な研究所ともあろうものが、役所のスリカエ口実をそのまま採用しているという非難にもなる。結局は、学者先生の立場なら、天動説をくつがえす地動説のような、「破門」に直面する異説を立てたわけである。だが、「それでも地球は動いている」のだ。

 なお、内川はその後、研究所所長、新聞学会長をへて、今年(九四年)の一月二十一日、椿舌禍事件の発火点となった日本民間放送連盟放送番組調査会の外部委員に就任した。私には、この大先輩を「敵に追いやる」意図などはまったくない。学問的な議論にも個人的感情がくわわるのはやむをえないが、古来「雨降って地固まる」という。学界の習慣からみれば私の表現は失礼のきわみだろうが、その趣旨は冒頭にもしるしたとおりである。あたらしい立場での「学説」再検討をのぞんでやまない。

 再検討をうながすために、「学説公害」に脳ミソを汚染された最近の若い大学教員の実例をしめしておこう。そのものズバリ『放送論』と題する博士論文に毛のはえたような本が数年前にでた。私は、めくってみて一頁目でアッとおどろいてしまった。「放送は制度として存在する」というのが冒頭の文句であって、その「制度」への疑問はおろか、まともな歴史の説明などはなにもない。これでは「朕思うに……」の時代とまったくかわらないではないか。「学説公害」は、こうした偏差値エリートの若い大学教員によっていまもなお、まきちらされてつづけているのである。


(6)電波の「政治的」特性を理解することの重要性