『電波メディアの神話』(3-6)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第三章 内務・警察高級官僚があやつった
日本放送史 6

「武器」として建設された日本のテレヴィ放送網

 正力は戦後の一九四五(昭二十)年十二月十二日、A級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに収容された。二年後に釈放されたが、以後も四年間は公職追放の身であった。公職追放が解除されるとすぐにテレヴィ構想を発表してうごき、一九五二(昭二十七)年には初の民間テレヴィ放送免許の獲得に成功した。

 正力を中心とする日本テレビ放送網(株)の設立は、NHKと並立する唯一の民間テレヴィ放送の出発だった。その際、注目すべきことには、読売の正力が中心であるにもかかわらず、朝日・毎日・読売の三大新聞の日本テレビ放送網(株)への出資比率はおなじであった。このパターンは、ラディオの独占的発足のくりかえしである。大手新聞各社は、この日本テレビ放送網(株)の出発の際には協力して、テレヴィ業界進出の足場をきずいた。以後、複雑な経過をへて、逐次、それぞれの大手新聞系列によるテレヴィ・キー局と全国ネットワークの体制が確立される。当局と結託した大手新聞による放送支配は、さらに大規模に全国展開されたのである。

 さらには、正力のテレヴィ構想がアメリカの意向をうけたものであったことは、誰一人として否定しえない歴史的事実である。巣鴨プリズンからの釈放と公職追放解除の裏には、かなり早くからの密約関係があったと考えられる。アメリカの古文書館にはかなりの証 拠資料がねむっているのではないだろうか。私は強度のホコリ・アレルギー症だから、その仕事だけは志願しない。その内にだれかがやってくれるのではと期待している。

 正力とアメリカをつなぐ使者の役割をはたした元日本定刻陸軍特務少尉、柴田秀利は、私が日本テレビ放送網(株)に入社した当時には専務だった。柴田は正力の死後、日本テレビ放送網(株)の社史などの正力伝説に異議をとなえ、正力がかれに「自分の追放解除まで頼み込んだ」(『戦後マスコミ回遊記』)などとしるしている。その日本テレビ放送網(株)の社史『大衆とともに25年』にも、アメリカの上院で一九五一年に、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)の推進者としてしられるムント議員が行った演説の、つぎのような主要部分が翻訳紹介されている。

「共産主義は飢餓と恐怖と無知の三大武器を持っている。共産主義から直接に脅威されているアジアと西欧諸国では、テレビジョンの広い領域がある。共産主義者に対する戦いにおいて、アメリカが持っているテレビが最大の武器である。われわれは、『VOA』と並んで『アメリカのビジョン』を海外に建設する必要がある。最初、試験的にやってみる最も適当な場所はドイツと日本である」

 ムント議員の計画は、本来、アメリカ国務省の仕事として、占領地である日本の全土にマイクロ・ウェーヴ網を建設し、テレヴィ放送網と軍事通信網をかねさせようとするものだった。正力は社名を日本テレビ放送網(株)とした。当局が独占集中排除の原則によりネットワーク経営を禁止したのに、なおも「網」に固執したのは、独自のマイクロ・ウェーヴ網によるネットワーク構想をいだいていたからである。一九五三年一二月七日には、衆議院電気通信委員会に参考人として出席し、つぎのような発言をしている。

「太平洋戦争に負けた最大の原因は、いわゆる通信網の不完全からであります。(中略)この際、通信網を完備しなければならぬ。(中略)アメリカの国防省も、われわれの計画を見て、これならば日米安全保障の意味からでも、日本にこれがあった方がよかろうということで、これまた推薦してくれたわけであります」

 結果としてマイクロ・ウェーヴ網は、電電公社(現NTT)と防衛庁がそれぞれ建設することになった。また結果として、テレヴィの全国ネットワークは実際におこなわれている。

 以上みてきたように電波メディアは、その出発点から日本またはアメリカの権力の意図の下に特別あつかいされてきた。まずは当局と結託した先兵としての新聞通信社によって占領され、情報操作の道具にしたてられてきた。放送というメディアの新大陸に新聞通信社が上陸する際には、戦前の「公共性」神話が最初の橋頭堡となった。戦後は「公平原則」または「希少性神話」がそれにかわり、終始一貫、権力による独占支配の隠れ蓑の役割をはたしてきたのである。


(7)「テレビカメラはどこかね。そっち?」と首相言い