第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱
電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6
第三章 内務・警察高級官僚があやつった
日本放送史 5
新聞社側と実業家側が競合中に正力が読売乗りこみ
本人の晩年の自慢話をそのまま文章にした『創意の人』にはこうある。
「ラジオをつくろうとしたのはいったい誰か、実はこれが何と正力松太郎だったのだ」
「彼は有力者の集まる工業クラブに出かけていき郷誠之助や藤原銀次郎など当時の財界有力者に話をもちかけ、日本で最初の民間放送局を創るべく努力した。そしてとうとう、これ等の人々を口説きおとしたのである。『その時、後藤さんが驚いちゃってね……』」
といった具合なのだが、「ラジオをつくろうとした」とまでいえば丸でウソであり、そのほかも半分はハッタリの誇張である。
私は『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』で、この真相の究明のためだけに二四頁もついやした。内務省、特に警察局関係の前々からの新聞対策やら、複雑な人脈のうごきが錯綜しており、要約は非常にむつかしい。だが、数十件あった放送免許出願と調整作業の裏で、正力が読売新聞社長としてうごいたこと自体は、まちがいのない事実である。
警視庁で民衆運動弾圧の専門家だった正力が、なぜ読売新聞の社長になったのかという疑問に正確にこたえるためには、これまた虚実ないまぜの資料の数々を紹介しつくさなければならない。『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』では、この経過の説明にも三八頁をついやした。ここでは結論だけにとどめるが、当時、特高警察を強化しつつあった内務省関係者と財界あげての支援によって、ややもすれば「反政府的傾向」をしめす新聞業界の一角に、自他ともにみとめる「蛮勇」男がおくりこまれたのである。先進国には例をみない乱暴なメディア対策である。
しかし、さらに経過をくわしくたどると、財界筋が正力の新聞経営者としての能力をおおいに疑っていたことが判明する。そこで前後関係を洗いなおしてみると、当面の目的として、当時最大の政治的焦点となっていたラディオの発足がにおってくる。正力は、放送を一本化し、統制しやすくするための捨て石として新聞界におくりこまれた可能性があるのだ。
正力が読売新聞にのりこむ直前、ラディオの免許獲得をめぐって「新聞社側と実業家側の競合」(一九六五年版『日本放送史』)が激化していた。一九二二年には東京朝日新聞と東京日日新聞(のち現毎日新聞に合併)が、翌一九二三年には報知新聞(のち現読売新聞に合併)が、それぞれ公開実験放送をおこない、東京朝日、報知、日本電報通信社(現電通)、帝国通信社などが放送免許を申請していた。途中をはぶいて結果だけをみると、「実業家側」、つまり財界が新聞社を仲間にとりこむ形で、社団法人への統合が実現したのである。この複雑な過程で暗躍した正力は、みずから「後藤新平を口説い」たとほこっている。「後藤の総裁推戴は、新聞社側小壮者の画策によるもの」(一九五一年版『日本放送史』)という関係者の微妙な証言ものこされているから、「画策」は事実だったと判断していいだろう。