『電波メディアの神話』(03-11)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス 11

歴史をしらべずに当局見解をなぞるエセ「理論」

 放送の歴史も、ジャーナリズム全体の歴史と同様で、誤解と神話にみちている。

 本書の巻末に一応の資料リストをそえるが、日本の放送史に関して批判的な研究として評価できるのは、放送欄担当新聞記者の経験をもつ松田浩による『戦後放送史』のみである。戦前、とくにその出発点に関しては、「歴史」とよべるほどの実証的な調査も、「理論」の名にあたいするような分析も皆無である。拙著の断片的な記述をのぞけば、NHKがときおり作成する年史のたぐいを、一般向け、あるいは学生向けに、よみやすく、みじかく、かきなおしたものだけである。つまりとくに、日本の放送の出発点に尻の蒙古斑のように刻印された電波メディアの政治的性格に関しては、当局発表に対する批判的かつ理論的な研究が皆無なのだ。これを日本の歴史と比較すれば、『古事記』『日本書紀』を書きなおした『大日本史』程度にしかあたらない。いまどき、戦前の歴史の総括が不十分なものが、なぜ学問の名を自称できるのかが不思議になるくらいである。

 このような状況は、単に放送の歴史研究だけにとどまらない。新聞や出版などの自称活字メディア」でも、実際には漫画や写真が戦争をあおるイエロー・ジャーナリズムの効 果をたかめていた。活字だけの文章もイエロー・ジャーナリズムにおかされていた。どのメディアに関しても歴史研究の程度は五十歩百歩であり、ドングリの背較べ、目くそが鼻くそをわらうたぐいの低水準である。

 なぜ、こういう事態が放置されてきたのか。

 近代的な学問の発展の前提としては、「天動説」に代表されるような封建的秩序を維持する思想の破壊が必須条件であった。ところが、学問を自然科学と社会科学におおきくわけると、自然科学の方は「産業上の必要にせまられて」つぎつぎに新発見をみとめる傾向にある。ところが社会科学または人文科学の方では「政治上の必要にせまられて」、既存の権威、すなわちアカデミズムが新発見を無視する傾向にある。なぜかというと社会科学上の新発見は、自然科学上のそれよりもさらにはげしく既存の社会の政治的支配構造をゆるがすからだ。つまり、近代になったとはいえ、社会科学の分野にはまだまだ封建的秩序を維持する力がはたらいている。日本の場合の象徴的事実は「象徴天皇」の存在だ。このような封建的秩序維持のための学問の歪曲、または旧態依然たるありさまを「学説公害」とよぶのである。

 以上の状態に対する批判が、どちらかといえば本書の理論的目的であるが、さらに重要なのは、目の前の具体的な事実経過の中にひそむ現実の危機的な状況をあきらかにする作業である。


(03-12)体制側の分裂によってはじめて表面化した矛盾