電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第八章 《時限爆弾》管理法 8
翌日の朝七時、智樹は訪問客用のチャイムで起こされた。
パジャマのまま玄関に出て、のぞき窓からうかがうと、小山田警視であった。なにごとかと直ちにドアを開ける。
「これはまた」
「いやいや、朝っぱらから済みません。九時からは抜けられない会議なので、……」
「まあ、どうぞ、どうぞ」
応接セットのソファに座るやいなや、小山田は用件を切りだした。
「影森さん。急なことで申し訳ないんですが、例の道場寺満州男の問題なんです。実は昨晩あれから上司に呼ばれました。道場寺が時限爆弾をチラつかせているってんですよ」
「時限爆弾?」
「ええ。興亜協和塾の政治献金や、特にヤバイのは株の操作によるヤミ献金のリストなんですがね。道場寺が従来から管理していて、彼になにか起きれば公開される仕掛けになっているとか。ああいう連中がよくやる手です。身の安全の保障ですね。それを条件にして要求を突きつけてきました。道場寺に対する警察の監視態勢を解くこと、興亜協和塾の事務局長への昇格を確約すること、それから、影森さんの身辺警護を止めること……」
「私の警護ですって」と智樹は驚いて問い返した。
「はい」と小山田は苦しげにうなずく。「私の独断で申し訳ありませんが、あの襲撃以来配置してあります。華枝さんの方にも付けました。道場寺が今その解除を要求しているということは、とりもなおさず、彼の手下が影森さんへの襲撃のチャンスを狙い続けていたという何よりの証拠です。こちらの警護を誰かがさらに見張っているわけです」
「そうでしたか」と智樹は深い息を吐いて、頭を下げた。「ありがとうございます」
「いや、なんの、なんの。これが私の商売ですから」と小山田は静かに微笑む。「で、問題はその限界です。影森さん。これから私がいうことに、いちいち腹を立てないで下さいよ。私の上司、……誰かということは勘弁していただきますが、……ある上司のいうことには、影森さんの調査のやり方を問題にする向きもあるとか。今度のXデイ《すばる》事件では独断専行が過ぎたという意見もあるとか。失礼!」
小山田は顔を赤らめ、両手で首をゴシゴシこすった。
「どうぞ、どうぞ。遠慮なく事実通りに話して下さい」と智樹はうながした。
「済みませんね。影森さんに尻ぬぐいを押付けるようで」と小山田はなおも遠慮しいしい続けた。「結論から申しましょう。私が必死になって考えた妥協策です。影森さんにはしばらく、わらじを履いてもらいたいんです」
「わらじ、ですか」と智樹は苦笑する。
「はい。ながのわらじ、とやらですね。ただし、できるだけ短くなるように、私らが頑張ります。近い内に必ず、道場寺の時限爆弾の信管を外しますよ。これも実は上から一緒に頼まれているんです。そうしないと、おちおち眠れない関係者が多いもんですからね。
今のところはまだ、あの久能老人が生きているので一寸手が出せません。道場寺満州男に興亜協和塾の事務局長のポストを継がせるというのが老人の意思です。脳卒中の後遺症でしゃべることはできませんが、文字盤を使って意思疎通が可能なんだそうです。老人には、下手なことを口外されては困るという力関係が残っています。
しかし、それも長くはないでしょう。道場寺は所詮、下っ端です。私の見る所では時限爆弾の脅しも、本音はポスト確保でしかありませんね。影森さんの警護を止めろなんてのは、格好を付けているだけですよ。こういう最後の手段をすぐにチラつかすようでは、先が知れています。結局、自分で墓穴を掘っているんですよ」
〈そうか。道場寺満州男もいずれは誰かに消される運命か〉
智樹は重苦しかった。
すでに角村は死んだ。角村には、クーデターの行き掛けの駄賃として、智樹への復讐を企んだという気配が濃厚だった。だが、そう気付くとなおさらに、智樹の心は晴れなかった。一つの区切りには違いないが、忌わしい泥沼の記憶は残るし、決して消え去ることはないのだ。
道場寺満州男にはまた、満州のソ連兵に関する共通の過去があるらしい。だが、……
〈危険で許せない男には違いない。しかしなぜか、困りもののぐれた弟のような気がしてならない〉
小山田が辛抱強く返事を待っていた。智樹は小山田の目を見上げて、二度、三度と深く首を縦に振った。
「分りました。いつ姿を消せばいいんですか」
「《いずも》の緊急臨時会議終了後ただちに、ということでどうでしょうか。あと四日後ですが」
「結構です」
「それまでは警護をばっちり付けます」
「お願いします。華枝の方にも」
「もちろんです」
小山田は安心したように頭を下げたが、すぐに普段のとぼけた顔に戻り、ギョロリと智樹の目を見据えた。
「影森さん。あなたも念のために、自分の時限爆弾をつくって置いたらどうですか」
「えっ」と智樹は虚を突かれた。
「ハハハハハッ……。私も連中を少しは脅かしてやりたいんですよ。影森さんだけでなく、私ら《お庭番》チームを消したらこわいぞってね。ハハハハッ……。冗談、冗談」
鼓の音色がまだ頭の中に響き続けていた。
夕暮れの堀端の空にはカラスの群れが我がもの顔に舞っていた。間違いなしに数百年前と同じく、カー、カーと不吉な鳴き声を立て続ける真黒い鳥の群れは、苔に覆われた城壁のたたずまいに最も似合っていた。
能と狂言がはね、国立劇場の隣の和風レストランに落着いてもなお、智樹は、異次元世界に迷い込んだような気分を抜け切れなかった。室町時代の能の世界の中には紀元前の前漢の世界が潜んでいた。一週間前に頼まれた調査は、すでに半世紀前になろうかとする敗戦以前の出来事の続きであった。そして今、目の前には弓畠広江が、まだまだ深そうな謎を秘めて座っている。一週間の間に四つの時代をタイムマシーンで往き来し、クーデター騒ぎまでかいくぐった後、智樹は、さらに新たな秘密の扉の前に立つ思いであった。
「お忙しい所を妙な場所に付き合っていただきまして」
広江は座ったまま、ゆるやかに背をかがめた。
「丁度、娘が日本に戻って来ておりましたので、付き合わせようと思って予約したのですが、どこぞの大使館のパーティーとかで、あっさり振られてしまったのです。余りものの切符を押し付けたりして申し訳ありません」
「いえいえ。お陰様で、少しは教養を広げることが出来ました。有難うございます」
「ここへ来ていただいたのは、他でもございません」
案に相違して広江は能の話をする気はないようだった。智樹はひとまずホッとした。
「お気付きのように、私は、あの公邸に盗聴マイクが仕掛けられているのではないかと疑っています。その理由は後でお話しします。ここなら安全だと思いますので、勝手に場所を指定させていただきました。誰かが尾行していても、能の話をしているとしか思わないしょう」
「盗聴の恐れがあるとすれば、先日のお話も、聞かれては具合が悪かったのではありませんか」
「いえ。あれはあくまでも個人的な問題です」と広江は大胆に目を上げた。
「盗聴したい人の目当ての秘密ではありませんから、構いません。かえって目くらましになればと思いました」
「目くらまし、ですか」と智樹はいささか鼻白み、唖然とした。
「いえ。そういってしまっては失礼なのですが、私が影森さんをお呼びするのには格好の話ですし、もちろん、本当にこのことも知りたかったものですから」
「分りました」
と智樹はいったん話を切って、用意した資料コピーを取り出した。
「それではまず、先日からの調査結果をご報告します。結論から申し上げますと、お尋ねの矢野島菊治郎さんはご存命です。奉公義勇隊から脱走後、現地の独立闘争に加わり、現在はフィリピン新人民軍の技術顧問としてジャングル地帯に潜伏中です。フィリピン国防軍が最近捕えた捕虜からの情報で矢野島さんの存在が確認されています。ただし、この情報は一般には公開されていません。フィリピン国防軍と日本の防衛庁の情報交換による部内情報ですから、情報源は絶対に口外はしないで下さい」
「有難うございました」
広江は資料コピーを大事に捧げ持ち、深々と頭を下げた。やはり感慨無量の面持ちであった。智樹の胸にもジーンと響くものがあった。
今度の事件のような家族の悲劇を経てみれば尚更のことである。
若く輝いていた日々の想い出は今後の生きるよすがとして貴重この上もないものになるであろう。広江が息子の唯彦に事実を打明け、唯彦がフィリピンのジャングル地帯に分け入ることになるのかな、などとも思った。想像のシーンも瞼の裏にちらついていた。だが、広江はこの件についても、能の演目についてと同様、何も語ろうとせず、話を直ぐに公邸の盗聴の問題に戻した。
「ゆっくり読ませていただきます。……では、先程の話に戻りますが、これが影森さんへのお礼にもなろうかと考えているのです。実は私、主人が残した大事な品物を発見したのでございます。その品物を何としてでも手に入れようとしている人達がいるようなのですが、私は、影森さんに差上げたいのです。そして、正しく役立てて欲しいのです」
「その品物を欲しがっている誰かが、盗聴器を仕掛けたということですか」
「はい。それだけでなくて、実際に探しに来たのだと思います。何故かと申しますと、主人の告別式が行われた翌日、私は、誰かが忍び込んだような形跡を発見したのです。
私の想像通りだとすれば、忍び込んだのは告別式で留守にしていた間だと思います。泥棒ではありません。その証拠に、別に何も盗まれてはいませんでした。乱れた感じもなく、家具も何もかも、全て元の位置から動いてはいませんでした。ただ、主人の部屋や応接間の本棚とか書類箱とかの周囲が、微妙に違っていると感じました。本の並び方などが何時も見慣れていたよりも揃い過ぎているのです。良く見ると、ほこりの付き方もおかしいのです。しばらく整理も掃除もしたことがない部分なのに、ほこりが綺麗に拭かれていたり、逆に、いつも掃除をしている絨毯の上にほこりが積り過ぎていたりしました。
それだけなら、まだ、私の勘違いだと思い直していたかもしれません。ところが、その日、つまり告別式の翌日でございますよ、急に最高裁の事務総長が弔問に見えまして、その後で、いい難そうに切り出されました。
〈ご主人が最高裁の書類や書物を持ち返っていると思われるので、職員を寄越すから探させてほしい〉、とおっしゃるのです。お言葉は遠慮がちでしたが、どうしても、という強い感じがありました。こちらはまだ、そんなことにまで頭が回りません。
〈いずれ公邸を引き払わなくてはならないことは分っていますから、引越しの準備の時に一緒に整理させていただけませんか〉と申したのですが、それでは納得なさいません。そんなに急ぐのなら、事件名とか書物の題名とか、急いで探したいだけの特別な事情をおっしゃるのが自然だと思いますが、それもございません。
その時ひと、私、思い出したのでございます」
背中がゾクリとした。〈なにが出て来ても驚くなよ〉と智樹は心の中でつぶやいていた。
「あの公邸に移った直後に、主人が応接間の暖炉の壁をいじっていて、隠し扉を発見したのでございます。面白がって私にも見せてくれました。寄木作りの一部が箱根細工のようになっていました。板を一枚ずらすと掛金が外れて、暖炉が動きます。暖炉の裏側は廊下です。裏側に入ってから、ずらした板を元に戻して取手を引くと暖炉は元通りに閉まって、掛金が再び掛かります。中には照明がありませんから、懐中電灯が必要です。狭い廊下の先に階段があって、地下に降りると四畳半の部屋がありました」
「戦争中の防空壕にしては手が込んでいますね」
「そうです。もっと古いもののようだと主人は申しておりました。あの屋敷は財閥の別宅だったとかで、右翼がしきりに財閥を襲ったりした頃、まさかの時の避難用に作ったものではないかというのです。地下の四畳半からの出口の扉もありました。扉を開けるとトンネルがあるので、主人が懐中電灯で照らしながら入って行きましたが、途中でふさがっていたそうです。裏には今、マンションが建っていますが、昔は竹薮だったらしいので、外へ出られる逃げ道があったのではないでしょうか」
「何だか、お化け屋敷みたいな話ですね」
「オホホホホッ……。まだお若いのに、古臭いことをおっしゃいますね」
広江が智樹の前で初めて笑った。目が悪戯っぽく輝いている。これはまたまた、新たなる変身の模様だった。
「せめてスリラーとおっしゃって下さいな。私などもこれで、戦前からの推理小説ファンなのでございますよ。江戸川乱歩、野村胡堂、岡本綺堂、最近ではアガサ・クリスティー……。007シリーズも読んでますので、影森さん達のお仕事にも大変興味を持っておりますわ」
「アハハハッ……。これは失礼致しました。全てお見透しですか」
「いえいえ。とんでもございません。見透しなどできるわけがありません。ただ、主人の過去には何かまだ重大な秘密がありそうだと感じておりましたので、ふと、閃いたのでございます。どなたか存じませんが、忍び込んだ方や最高裁の事務総長さんなどが欲しがっているのは、あれではないかと。そして、主人がどこかに重要な品物を隠していたとすれば、きっと、あそこではないかと。そこで、あの暖炉の壁を探りましたら、まあ、どこを押しても全然動きません。おかしいなと思って、よく見ると、接着剤がはみ出した部分がありました。多分、主人が細工したのでしょう。でも、少し揺するとすぐに外れて動くようになりましたので、思い切って隠し部屋に降りてみました」
「隠し部屋に、その品物があったのですか」
「はい。中身は多分書類だと思いますが、見覚えのある軍用行李が一つしまってあったのです。私どもは何度か引越しをしましたが、あの荷物は、その度に主人が黙って書斎に運びこんでいたものです。きっと結婚前に中国から持ち返ったものでしょう。主人は結婚式の後にまた中国に戻りましたが、その時にも、あれは書斎に置いてありました」
「中身はなんでしょうか」
「はい。書類です。タイプやらガリ版やら、手書きやら、軍の極秘資料という感じでした。私が見たのは表紙だけです。やはり気味が悪かったので、直ぐに隠し部屋を出ました。その時に、またふと気になったのが盗聴マイクのことなのです。あれだけ巧妙に忍び込んで探すくらいなら、きっと盗聴マイクでも仕掛けて様子をうかがっているのではないかと。それで、影森さんに来ていただいて、その一味の裏をかこうと考えたのです。矢野島さんの尋ね人のお願いだけですと、一寸個人的過ぎて気が引けたのですが、これだと大変にスリルもございますし、私、この計画に夢中になってしまいまして、……」
広江の目は生き生きと輝いていた。とても長年連添った夫に死なれたばかりの未亡人の表情ではない。むしろ、復讐の機会がめぐってきたのを知って、狂喜するといっても良い風情であった。智樹はすっかり食われてしまった。
やはり智樹の最初の勘は当っていた。弓畠広江はむしろ妖怪変化の類いに近かった。死んだ夫の過去を暴くことにつなががる書類の処理について、〈気味が悪い〉とはいいながらも、自分なりの決断を下している。
〈さすがファースト・レディ。大したものだ〉と妙に感心してしまった。
「分りました。その軍用行李の中身の処理を私に任せる、とおっしゃるのですね」
「はい。他の方には一切事情を漏らしません。すべてお任せします」
「場合によっては亡くなった御主人の名誉に係わる問題になるかもしれませんが、よろしいのでしょうか」
「はい。覚悟は出来ております。主人の罪状を永久に隠しおおせるものではないでしょう。お陰様で息子には本当の父親を教えてやれそうですし、娘は結婚して他家の姓を名乗っております。もちろん、私も、世間から爪弾きされるのを好むわけではありません。個人名が出ない方が助かりますが、そのために大事な事実が埋もれてしまうのは申し訳ないことです。その辺りの扱いも含めて、全て影森さんの判断にお任せします」
「お気持ち、良く分りました。では、大任ですが、お引受け致します。品物は、どうやって受取りましょうか」
「明日ではいかがでしょうか」
「結構です」
「貴方の車で来ていただけませんか。車庫に入れて下されば、荷物を積む時に外から見られずに済みます。応接間では、矢野島さんについての調査結果だけをお話し下さい。今日と同じことを少し詳しく繰返して下されば結構です。あとは黙って隠し部屋に案内しますから、物音を立てないようにして軍用行李だけお持ち返り下さい。お願いします」
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