『煉獄のパスワード』(8-1)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第八章 《時限爆弾》管理法 1

 智樹は翌日早朝、電話で約束をしてから最高裁長官公邸を訪れた。

「ご無理をお願いしまして、申し訳ございません」

 未亡人、弓畠広江は丁重に智樹を迎え、応接間に案内してくれた。智樹を先にソファに座らせて置いて、いったん姿を消した。少し離れた所で微かな物音がし、家政婦に茶菓子の用意を命じている声が聞こえた。

 智樹がこの公邸を訪れたのは長官が失踪した直後だけである。葬儀の場以外で長官の一家に会うこともなく、公邸に足を向ける必要もなかった。

 前回の訪問は夜分であり、《お庭番》チームの皆と一緒だった。今度は昼の陽射しの中で、一人だけの訪問である。自然と庭や建物のたたずまいに目を配る。建物の全体は和風だが、応接間の内側の作りは洋式だった。いわゆる和洋折衷式である。

 前回の訪問の際には見過ごしていたが、洋式の暖炉の横が和式の床の間風になっており、そこには、弓畠耕一の葬儀の時に掲げられていた遺影と骨壺入りの桐箱が安置され、菊の花が飾ってあった。よく見れば蝋燭も立てられ、線香立ても鈴(りん)もある。

 智樹は自分の世間知らずなうかつさに気付いてハッとした。もともと智樹は冠婚葬祭の儀式が苦手である。事件の騒ぎに取り紛れてもいたし、もっぱら弓畠耕一の過去を暴く立場にいたということもある。ついつい、死者の葬らいの儀式が続く家への訪問だということを失念していたのだった。慌てて立上がり、鈴を鳴らし、線香を上げ、両手を合せて瞑目した。何とか未亡人が戻ってくるのに間に合ったので、ほっとした。

「お弔問有難うございます」

 弓畠広江は初対面の時と同様に、ピシリと和服を着込み、礼儀作法の模範のようなお辞儀をした。智樹は最初の訪問の時と同じように、再び背筋がゾクリとするのを覚えた。

 家政婦が茶と菓子を持ってきた。

「どうぞ、ご遠慮なく」

 と広江は手振りで茶を勧めた。

「はい。では、遠慮なく頂戴します」

 と智樹は応じた。二人の間の空気はピーンと張り詰めていた。智樹は戦後育ちの礼儀作法知らず。というよりも日本古来の礼儀作法を否定し、無視してきた世代である。相手の広江は戦前の育ちで、茶の湯はもとより、すべてのお稽古ごとに通じているに違いない。智樹は常になく緊張を覚えていた。あたかも尋問を待ち受ける立場にいるような気分だった。

 広江は、この日をかねてから覚悟していたように冷静であった。月並な挨拶に手間取ることなく、ズバリと切りこんできた。

「影森さんには、お忙しい所を無理なお願いを致しまして、……。この公邸住まいも四十九日の法要で納骨を済ますまででございます。……わざわざお越しを願ったのは、他でもありません。一応、責任者の秩父さんを通させていただきましたが、私、本当のことを全て知りたいのでございます。特に、中国で何があったのか、息子からある程度のことは聞いておりますが、一番お詳しそうな影森さんから直接いかがいたいと存じまして」

「………」

 智樹は思わず床の間の弓畠耕一の遺影を見てしまった。それに気付いた広江は、すでに心構えしていたのであろう、すかさず畳みかけてくる。

「たとえ主人が聞いていても構いません。事実をはっきりさせたいのです」

 広江の頬にサッと赤みがさした。目には急速に感情が溢れてきた。〈主人〉という言葉には、同情も遠慮もこもっていなかった。智樹は、その変化の激しさに胸を衝かれた。

〈そうだったか。憤りなのだ。一生涯を裏切られ続けてきた女の憤りなのだ〉

 だとすれば、決して場違いな話ではないのである。むしろそこには、弓畠耕一本人の遺影を避けるどころか、逆に本人を引き出しての公開裁判の趣が漂っていた。広江はさらに迫ってきた。

「私もこの年です。今更何があっても驚きません。どうか、遠慮なさらずに全てをおっしゃって下さい」

 

 智樹はすべてを詳細に物語った。

 相手は最初から《お庭番》チームの役割を承知していた広江のことである。しかも当の家族の秘密の話だ。どこかに漏れて困るという心配はしなかった。智樹が話し終えた時、広江の目は赤らみ、涙で潤んでいた。

〈誰に対する涙なのだろうか。何が特に悲しいのだろうか〉

 悲哀の感情は智樹の胸にも浸みわたっていた。弓畠耕一の血を受けた西谷禄朗こと劉玉貴をはじめ、大日本新聞の長崎初雄記者、浅沼新吾刑事、北園和久、亜登美と、事件発生以来でも弓畠耕一自身以外に五人の死が続いていた。三年ほど遡れば海老根判事の死があり、さらに四十年遡れば、北園留吉法務中尉の処刑死があった。

 しばしの沈黙の後、広江は静かに顔を上げ、ヒタと智樹を見据えた。

「影森さん。有難うございました。……ところで、勝手なお願いをしたのは、影森さんが主人の任地だった張家口にいらしたことがあるから、というだけではございませんでした。実は、息子の唯彦のことでございますが、ご存知のように唯彦も今度の事件に早くから関係しておりました。唯彦は父親の問題で悩みを抱えてしまいまして、仕事上でもしくじったりしております。私は唯彦が不憫でなりません。やはり自分の腹を痛めた最初の子供でございます。お坊っちゃん育ちで我が儘なところもあろうかと存じますが、親の欲目でしょうか、本来は正義感の強い素直な性格だと信じております。今度の事件の始まりも、元はと言えば唯彦が北京駐在の時に千歳さんとお会いしたのがきっかけのようです。その頃、唯彦は、日本が中国で犯した残虐行為の報道に自分の使命を見出だしたなどと手紙に書いて寄越しておりました。ところが、その問題で大変な矛盾を抱え込んでしまったわけです。私は唯彦が何とか今度の事件を乗り越えて、これからの人生を貫けるようにと願っているのです。そこで、影森さん」

 広江は言葉を切った。カタン。先程から時折聞こえていた庭の鹿威しの音が、ピリリと空気を震わせた。智樹は何か切端詰まった気合いを感じた。のっぴきならない立場に追込まれていくような気分だった。広江は容赦なく間合いを詰めてきた。

「私も考えに考え抜きました。まだどうするか結論は出し切れませんが、ともかく事実だけは確めて置きたいと思うようになりました。私は、唯彦の正義感の強い性格を大事にしたいのです。それは、あの子が本当の父親の血筋を引いている証拠だからなのです」

「えっ。本当の父親とおっしゃると……」

「はい。唯彦は主人の……弓畠耕一の子ではありません。それを知っているのは私だけです。もしかすると主人も何か気付いていたかもしれませんが、最後まで何も言われたことはありません。……私は先ず、唯彦の本当の父親の消息を確めたいのです。その上で、本人に真実を知らせるかどうか決めたいのです。それで、影森さんにお願いしたら調べていただけるのではないかと思いつきまして、……」

「とおっしゃると、軍人ですか」

「いえ。奉公義勇隊と聞いておりますが、フィリピンの鉱山に連れて行かれました。敗戦直前の手紙で、そこから脱走したという話があったまま、その後の消息が分らないのです。名前は矢野島菊治郎。私の兄の友人で、早稲田大学理工学部の学生でした。奉公義勇隊

というのは志願の形を取っていますが、司法省行政局の思想犯保護観察所が半ば強制的に思想犯だけを集めたものです。矢野島さんは、技術者なら徴兵されないと言って技術系を選んだのですが、学生運動に加わるようになりました。治安維持法違反で投獄されたりして、当時は思想犯として保護観察処分中でした。特高や憲兵が追回すし、自宅ばかりか親戚縁者の家まで上り込んで、しつこくいやがらせを繰返すという毎日だったようです。私の兄も呼び出しを受けたことがあります。……

 私の結婚は、両親が私をそういう兄達の影響から引き離そうと考えて、強引に進めたものです」

 広江の目は涙で潤んでいた。この先を詳しく言わねばならないものかと迷い、ためらっている気配だった。

 智樹は気を利かすべきだろうと感じた。その矢野島菊治郎のフィリピンへの出発は、広江・弓畠耕一の結婚式の日取りを間近に控えてのことだったのであろう。だが、その数十日間に展開されたに違いないドラマについて、智樹は敢えて知る必要はない。個人的な秘めごとに立入るべきではないのだ。智樹は即座に調査を引受けた。

「分りました。確か四、五年前にも、ボルネオの思想犯島流しについての新聞報道がありました。他の地域の例に関しても、司法省の名簿などが残っているはずです。直ぐ調べましょう。ただ、差支えなければ、脱走したという話の手紙の内容をお聞かせ願えませんか。なにかの手掛りになるかもしれませんから」

「それは、兄宛てに偽名の手紙が届いたのです。誰かは分りませんが、帰国する人に託して日本で投函して貰ったもののようでした。兄が実家に私を呼んで、主人には内緒にするようにといって見せてくれたのです。筆跡は間違いありませんでした。文面はぼかしてありました」

 広江は目を閉じた。記憶している文面を正確に思い出そうとしているようだった。

「〈最初に契約した仕事は条件が悪いので破約にし、奥地に移住した。絶対に無駄死にはしない。現地の仲間と一緒に自分の本来の使命に邁進する〉と書かれていました。実際には脱走だったのです。敗戦直後に兄が復員局まで行って確めてきました。」

「お兄さんはご存命ですか」

「いえ。その後間もなく亡くなりました。二十五歳の若さでした。戦争中から結核に掛かっていて、それで徴兵も学徒動員も免れたのですが、病には勝てませんでした。まだペニシリンなどは手に入らなくて、……」

「それはお気の毒でした。……もう一つ、矢野島さんはあなたが結婚するということを知っておられましたか」

「はい。それで私宛てには便りを寄越さないのだと思っているのですが、……」

「それでは、これから直ぐに調べ始めます。二、三日で調べ終えて、ご連絡します」

 智樹がそういって引き受けた時、広江は軽く頭を下げたが、同時に、右手の人差し指を縦に唇に当てた。黙っていろという合図である。次には、懐から絵模様入りで和紙作りの細長い封筒を取出し、中から入場券を半分抜出した。そして、入場券を指差しながら言った。

「ここへ来ていただけますか」

 静かな口調だが、〈ここ〉に少し力が入っている。動作を考えれば、〈ここ〉は入場券に記された場所と日時のことであろう。しかし、言葉だけを聞けば、〈ここ〉は今二人がいる応接間であり、最高裁長官公邸の意味としか受け取れない。智樹は一瞬驚いたが、直ぐに理解した。

〈誰かの立ち聞きを恐れているのか。それとも誰かが盗聴器が取り付けたという疑いがあるのか〉

 智樹の口に出せない疑問は、思わず周囲を見回す視線と宙に泳がせる手振りに出てしまった。広江はしっかりとうなずいて見せ、無言のまま入場券を封筒に納めて智樹に手渡した。立上がると、

「それでは、どうも有難うございました」

 と智樹に頭を下げる。これ以上の問答は無用という素振りであった。智樹も無言のまま辞去した。

 

 広江から渡された入場券は、五日後の国立劇場の夜の部のものだった。

 演目の中心らしい能の曲名は〈班女〉。

 聞いたこともなく、言葉そのものの意味も分らない曲名である。

〈苦手な場所に呼ばれたものだな〉と思う。

 よく考えてみれば、映画やテレビの場面として何度か目にしてはいるものの、能の舞台を直接鑑賞した経験は中学校時代の古典芸能集団鑑賞だけである。智樹は、自分が駆足で過ごしてきた人生の武骨さを思い起し、一人赤面せずにはいられなかった。

 だが、入場券を渡され、そこに来いと言われた以上、一緒に座って鑑賞しなければなるまい。その後に、どこかで調査報告をすることになろうが、いきなり用件に入るのも不作法だろう。招待のお礼も言い、多少の感想も述べなくてはなるまい。智樹は、せめて付け焼刃でも予備知識を仕込まねばと思った。最高裁長官公邸を辞して防衛庁のある六本木に向かう途中、駅前の本屋に寄って探したら、丁度手頃な『能楽百選』という単行本があった。帯には「開演五分前に役立つ能楽鑑賞の手引き」とある。奥付けを見ると十二版も重ねている。〈俺みたいな水準の客も結構多いということかな〉と思って、少しは安心もし、早速買い求めて電車の中で読むことにした。

 目次の曲目を見ると、〈葵上〉とか〈敦盛〉、〈俊寛〉、〈道成寺〉、〈羽衣〉など、少なくとも文字面の意味が分る曲名も多少はあった。本文をめくると、見開き二ページで〈あらすじ〉、〈みどころ〉、〈備考〉、〈作者〉、〈登場人物〉などが一応全て分るようになっていた。〈班女〉は〈備考〉によると、〈前漢の武帝の寵を受けた女の略称〉であり、寵を失った後の我が身を〈秋になれば捨てられる扇〉にたとえて嘆きの詩を作ったという。能の〈班女〉の主人公(前シテ・後シテ)は遊女花子で、副主人公(ワキ)の吉田小将との契り、別れ、再会のドラマに、愛の形見の扇が象徴的な小道具として配されている。恋募に狂う女を描く狂女物、能の分類では四番目物に属する男女の物狂物の一つとされている。

〈ファースト・レディの最高裁長官夫人と遊女花子か。かなり奇抜な組合わせだな〉

 最高裁判所庁舎の隣にある国立劇場を瞼の裏に思い浮べながら、智樹は苦笑した。

 たまたま選んだ日の演目がこれだったのか、それとも、好みの演目の日に合せて智樹に仕事を頼んだのか。どちらにしても智樹の頭の中では、弓畠広江と遊女花子が、そして広江から調査を頼まれたばかりの尋ね人、矢野島菊治郎と吉田小将が二重写しにならざるを得なかった。冷静そのもののように見えていた日本式貴婦人の典型が、その裏に遊女の物狂いへのあこがれを秘めていたとすれば、……。

 しかも、あそこまで個人的な秘密を打明けながら、なおも盗聴を警戒するのは何故だろうか。まだ何か重要な謎が隠されているのだろうか。

 そこに思い至って智樹は、またしても背筋をゾクリと襲う寒気を覚えた。あの高齢のファースト・レディ・弓畠広江には、なにやら妖怪変化物語の女主人公だとか、異次元世界の住人めいた趣きがあるのだった。


(8-2) 第八章 《時限爆弾》管理法 2