『煉獄のパスワード』(8-3)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第八章 《時限爆弾》管理法 3

《お庭番》チームはそれぞれのルートでの努力を誓い合って別れた。

 

 智樹は自宅に戻った。まだ午後一時である。達哉が三時に来る約束になっていた。

 それまでに二時間ある。〈泳ごう〉と思い立った。いつも一式用意してあるスポーツバッグを自転車の籠に放り込み、城西スイミングクラブを目指した。

 午後の住宅街の道は空いている。走り梅雨のような曇り空。風が少しあって涼しかった。

 左手でウインド・ブレーカーのジッパーを首まで上げる。それほど急ぐ理由もないが、自転車の変速ギアを一段上げてペダルを踏む足に力を加える。

 途中、右手に製パン工場、左手に弱電メーカーの配達中継所があり、百米程の間、両側がコンクリート塀になっている。道幅は狭い。一方通行で歩道はない。ガードレールもなく、片側に白線で申し訳程度の歩行者スペースが示されているだけの簡易舗装道路だ。

 そこに入った途端、後ろを走っていた灰色の乗用車が急にスピードを上げて迫ってきた。

 ブーン、ブン、ブン、……と加速の音が響く。見えない殺気が背筋を襲った。一瞬の迷いの後、智樹はギアをトップに切り換え、力一杯ペダルを漕ぎ始めた。

〈畜生!奴等だな!〉と直感した。智樹は思わず歯ぎしりに似た怒りのうなり声を発していた。風圧が突然強まる。智樹の躰と自転車は空気の壁を切り裂いて走る。耳元で風がヒュー、ヒュー、……と鳴る。しかし、ウインド・ブレーカーのジッパーを締めたままだから、首から下は物凄く暑い。躰中がすでに汗まみれだ。

〈くそったれ!貴様らごときに消されてたまるか!〉。ダッシュ、ダッシュ、……。すぐに肺が破裂しそうになってきた。自転車競争をしたことはない。だが、水泳で鍛えた肺活量には自信がある。短距離のラストスパートの気持ちで全力を出し切る。足が重くなり、次第に硬直してくる。水泳のラストと同じで、充分に経験済みの現象だ。

〈乳酸が溜っただけだ。これで死ぬことはない。エエイッ、……〉。必死でリズムを保ち、ペダルを踏み続ける。目が眩む。〈この先は〉と考える。いつも見慣れた道端の風景がパッ、パッ、と瞼に浮かぶ。

〈あそこだ〉と閃く。

 左手の塀が切れた先に山茶花を低く仕立てた生垣が続いている。庭木の栽培をしている園芸農場だ。

 智樹は速度を落とさないまま、自転車もろとも跳躍し、生垣の上に身を投げた。直ぐ横をブワアーと襲撃車が走り抜けた。ガシャン、と自転車が撥ね飛される軽い音がした。

 バサ、バサ、バサ、……。智樹のウインド・ブレーカーと生垣の枝がこすれた。首筋と掌も擦れて痛かった。だが、負傷の程度を見る余裕はない。もう一度、道路側に身を投げた。襲撃車のバックナンバーを確めたかったのだ。しかし、すでに車の後ろ姿は見えなかった。横に曲ったのであろう。

〈畜生!逃げやがったか〉。両手の掌を開いて眺める。痛みの割に大したことはない。みみず腫れが走っているだけで、血は出ていない。その掌で首をこすってみる。かすかに血が付いた。だが、やはりかすり傷だけだ。自転車を起こす。故障はなかった。サドルをバン、と力一杯叩いた。〈畜生!〉。いまいましいが、今直ぐには仕返しのしようがない。

〈どうしてくれようか。ならずもの奴!〉。

 だがとりあえず、そんな奴らの邪魔でプールの予定を諦めるのは、ますます不愉快だった。ウインド・ブレーカーのジッパーを思い切って下まで外し、汗を手でぬぐった。全身に風を入れてから、もう一度自転車にまたがった。

 

「うちの側で待伏せていたんだろうね。あの場所を選んで迫ってきたんだから、俺の習慣を事前に調べている。これは、かなり前からの計画だ」

 智樹は達哉が来るなり、襲撃の話をした。プールではいつもの練習をやって、少しはストレスを解消した。だが、まだまだ先程の怒りと興奮は残っていた。

「脅しじゃないんだね」

「うん。本当に殺す気だったと思う。俺が必死で自転車を漕いで、残り三メートルぐらいに迫られたんだから、あれは本気だよ。あれだけの殺気を感じたのは生れて初めてだね」

「ダッシュ、ダッシュ、……か。俺なら間違いなしに殺られていたな。俺の自転車はオンボロだし。変速ギアもないし……」

「まあね、……お前も気を付けた方が良いだろうけど、奴らが狙うのは、この俺だけだよ。あの新聞記者や刑事のように、いきなり敵の本拠地に乗込んだり、何か偶発的な事情があれば別だが、わざわざ殺しに来るのは俺だけだ。おそらくXデイ《すばる》発動計画の最初から、機会をうかがっていたのだろう」

「いやに確信ありげだね」

「うん。俺があの車をうちの近くで見掛けたのは、今度の最高裁長官失踪事件で動き出す前だった。それに、こういう命令を出すのは角村以外には考えられないからね」

「でも、……万里江の店での密談では、角村が逆に止めていたじゃないか」

「あれがかえって怪しいんだ。角村は表面で言っていることと腹の中がまるで違う。心底腹黒い男なんだ。第一、あの連中に俺たち《お庭番》チームの仕事振りを報告していたのは角村だろ。実際には、連中をけしかけているんだよ」

 智樹は達哉に、北京から持ち帰ったビデオ・テープを渡したことで、いわば安全弁が外れた状況になっていることや、道場寺満州男や白虎会などの存在、それらと角村との関係などを説明した。

「うん。そういわれてみれば、ハイ・レベルの連中とクーデターの陰謀グループをつなぐ情報源は角村とその男だけのようだったな。しかし、連中はまだ、俺たちがクーデター計画に気付いたとは考えていないはずだろ。なんでそんなに急に殺気立つんだ」

「いや。あの連中は、新聞記者と刑事を殺して置いて、そのままで済むと考える程の甘ちゃんじゃない。その上、もともと俺が邪魔だと思っている。先制攻撃に踏み切ったのだろう。大体、角村と道場寺は昔から……」

 と智樹はいいよどんだ。目付きが暗かった。達哉は、そういう智樹の態度の裏に、何か個人的な悩みが隠されているのだと悟った。今まで達哉がわざと聞かずに過ごしてきた秘密の事情なのかもしれない。達哉は一瞬迷ったが、智樹が何かを打明けたいのであれば、自分は積極的な聞き手になるべきだろうと思い、黙って話の続きを待った。

 その時、ヒミコがブー、ブー、ブー……と軽いノイズを発した。

「なんだろう。《お庭番》チームのネット通信かな」

 智樹は椅子の向きを変えて、ヒミコの画面スイッチを入れた。

 

 ヒミコの画面は乱れていた。

《お庭番》チームのスクランブルには同調していないということだ。

 智樹は迷うことなく、華枝専用のスクランブル回路のボタンをたたいた。

 画面にザッザッザッと、文字の列が一斉に並んで現れた。

〈トモキへ。こちらハナエ。助けて。今日十五時、静岡、興亜協和塾に拉致。持物から名刺、書類、ノートを取られる。手足は縛られず、会議室に監禁。廊下に見張り。ハンドバッグは無事。声は出せないから文字だけ送る。先日、新聞記者と刑事がきた。火災報知器をライターで作動させて逃げようとし、余計な所をのぞいたので殺した。同じ目に会いたいかという。廊下で、暗くなるまで待てという声がした。怖い。返事待つ。どうぞ〉

 智樹はフウッ……と大きな音が部屋中に響く程、荒々しく息を吸った。ガタン、と音をさせて、椅子をヒミコに引き寄せる。キーを手早く叩く。

〈ハナエへ。こちらトモキ。受信した。場所も分る。直ぐ車で行く。安心して待て〉

 電話セットで華枝の短縮番号を押し、これだけの文章を送信する。

 また拡声・短縮のボタンを叩く。

「ツー、ツー、……ガチャ、……警視庁です」

「特捜一課の小山田警視をお願いします」

 待つ間に智樹は達哉に向かっていった。

「それに」とヒミコの画面を指差す。「スクランブルを掛けてから送ってくれ。番号はここにある」と電話セットの番号表を引き出す。達哉は黙って指示に従った。達哉の呼吸も荒くなっていた。智樹は電話に向かう。自分では気付かずに大声で怒鳴っている。

「小山田さんですか。影森です。この電話にスクランブルを掛けますよ」

 といいながら智樹はスイッチを切り換えた。

「いいですね。……今、ヒミコにもスクランブルを掛けて送ります。私の助手の原口華枝が、奴らに捕まっているんです。ハンドバッグに無線電話と電子手帳を組込んであるので、連絡は取れます。しかし、暗くなると危ない。前の二人と同じ手口で殺されるかもしれない。今直ぐ車で現地に向かいます。協力して下さい。後は車から無線で連絡します」

 智樹は両手でバシッと両腿を叩き、ヌックと立ち上がった。手帳をめくって、興亜協和塾の住所が書いてあるのを確めた。

「俺も一緒に行くぞ」と達哉が強い口調でいう。「この前話の時とは状況が違う。華枝さんが危険に陥っているってのに、男の俺が隠れているわけにはいかないよ」

「ありがとう。……風見。一緒にきてくれ」

 それ以上の会話は必要なかった。

 智樹の準備は早かった。電話とヒミコを自分の車のセットに切り換えた。玄関脇の廊下のドアをあけると車庫である。特別誂えの戦闘服、戦闘帽、防弾チョッキ、ジャングル・シューズ。次々に身に付ける。厚手の作業手袋とヘルメットを手に持つ。

「さすがはプロだね。支度が早いな」

 達哉が気分をほぐすために、わざと呆れた声を出す。

「まあね。これでも何年かは部隊で毎日のように、〈非常呼集!〉と号令を掛けていたんだ。いつでも飛び出せる準備をして置かないと落着かない。すべてを出船につなぐのが癖になっている」

 車は最近あまり使わなくなっている。だが、まさかの時に備えて整備は怠っていない。年式は古いが車体の頑丈なメルセデスベンツ。薄紫色。ダッシュボードの中には緊急時に必要な七つ道具が揃えてある。普通ならカーラジオがある位置が広くなっていて、カー無線とヒミコが組み込まれている。智樹は華枝専用のスクランブル番号をセットした。

 壁のスイッチを押すと、出口の蛇腹の扉が巻き上がる。

 エンジンは一発で掛かった。ブン、ブン、ブン、……と空ぶかしをしてから、道路に出た。達哉は腕時計に目をやった。三時三十分になろうとしていた。

「今、三時半だ」

 パソコンがツーと鳴って、画面に文字が並んだ。

〈こちらハナエ。今、見張りがのぞいた。ハンドバッグの鏡で化粧している振りをした。危ないから、そちらからの通信は短くして。どうぞ〉

「風見、やってくれ。〈分った。安心しろ。車に乗った。今、出発〉だけで良い」

「分った」といって達哉は、その通りに送信した。

〈大丈夫。以上〉と返事が戻ってきた。

「華枝はこの車に乗ったことがあるんだ」

 と智樹はつぶやいたが、その声はくぐもっていた。エンジンの音に消されて良く聞こえない。達哉はわざと大声で問い返した。

「なんだって。もう少し大きな声で話してくれよ」

「そうだったな。車の中だった」

「しっかりしろよ」

「大丈夫だよ」

 と智樹は声のボリュームを上げた。その方が気が晴れるようだった。

「華枝はねえ、この車に乗って、このヒミコをいじったことがあるんだよ。旅行しながらデータベースで旅先の情報を呼び出すんだ。そうやって面白がっていた。だから、こちらの様子が想像できるだろうな。俺が独りで車を運転しながらヒミコのキーをたたいている。そう思っているかもしれないよ」

「なるほど。俺が一緒にいるのは分らないんだな。ハハハッ……。そうか。パソコン通信だと、相手が本人かどうかを確認しにくいね」

「合言葉でも決めて置かないとな」

「おいっ。まさか、……華枝さんの通信がにせもので、ワナだってことはないだろうな」

「ありうるだろう。しかし、ちゃんとスクランブルが掛かっている。もちろん、疑えば限りはない。スクランブル番号を白状すれば同じことだ。しかし、おいッ。一体、どういう状況だというんだ。華枝が捕まっているだけじゃなくて、奴らが、俺をおびき寄せるために細工をしているというのか」

「どうする。確める方法はないか。一応確めた方が良いよ。何か工夫したらどうだ。何気ない感じで、君ら二人にしか知らないことを聞くんだ」

 智樹は一瞬、華枝と交わした〈煉獄のデートの合言葉〉の冗談を想い出した。しかし、《いずも》のコードナンバーとパスワードは、今の相手には知られている可能性がある。「ようし。こう送ってくれ。〈到着までにあと一時間はある。気晴らしに少し通信しよう。どうぞ〉」

 達哉は智樹の通信文を聞いて送り、華枝の通信文を読み上げた。

「〈良いわよ。誰かきたらストップするけど。どうぞ〉」

「〈事件が片付いたら太陽神殿に行こう。どうぞ〉」

「〈楽しみだわ。どうぞ〉」

「〈こちらヴァルナ。どうぞ〉。ヴァはローマ字だとVAだよ。」

「何だって。ヴァルナって何だ」

「インドの神様の名前だよ。そのまま送れば良いんだ」

「分った。……〈こちらヴァルナ。どうぞ〉」

「〈こちらミトゥナ。私かどうか試したのね。どうぞ〉」

「〈そうだ。通信終わり。安心しろ。どうぞ〉」

「〈ではまた。大丈夫。以上〉」

「ハハハハッ、……。間違いない。華枝だ。笑っている場合じゃないけど、華枝に間違いないよ」

「なんだい。俺は一寸からかわれているみたいな気分になったぞ。インドの神様の名前なんて知らないからな」

「ハハハハハッ……。俺も最近覚えたばかりだ。だから、それを選んだんだよ。お前が知らないくらいだから、奴らなんかに分るわけはない。合言葉としては最高だ」

「怪しいな、どうも。もしかしたら、インドの牽牛・織女みたいな話じゃないのか。昔の神様には、そんなのが多いからね。俺の鼻先で暗号のラヴ・コールを交わされたんじゃ、とても付合い切れないよ」

「ドンマイ、ドンマイ。さてと、……風見。お前に華枝との通信を頼むよ。華枝に、これまでの事情をメモって置いて、順次送るように言ってくれないか。その間、俺はこちらの無線で小山田警視と連絡を取りたいんだ」

「分った」

 智樹は無線に《お庭番》チームのスクランブルを掛け、小山田を呼びだした。受話器を持たずに通話できるように、〈拡声〉のままにした。

「小山田さん。こちら影森です。現在、東名高速を静岡に向っています。そちらの状況は、いかがでしょうか。どうぞ」

「パトカーで同じ方向に向っています。捜査一課の田浦刑事が一緒です。どうぞ」

「ご苦労さまです」と智樹はいって、その後の状況を報告した。「華枝に間違いありませんから、一緒に踏み込んで下さい。どうぞ」

「分ります」と小山田の返事は慎重であった。「現地には覆面パトカーの石神、野火止両刑事がいて見張りを続けています。しかし、踏み込むとなると、神奈川県警の協力をえなければ人手が足りませんから、一応、上の了解を取る必要があります。目下返事待ちです。絹川検事が官房長官をつついていますが、返事はまだです。秩父審議官を通じて連絡を保っています。状況が変り次第、連絡を入れます。どうぞ」

「小山田さん。両方のルートが間に合わないと、この前に話した作戦の最後の手段になりますよ。私が単身乗込む。傷害現行犯の線です。それで良いんですか。どうぞ」

「その危険も含めて、上に状況を報告してあります。私も腹は決めています。どうぞ」

 小山田は〈危険〉をわざと大声で〈キ・ケ・ン〉と発音した。

「了解。以上」

 智樹はいったん小山田との通信スイッチを切ったが、またスイッチを入れた。小山田の方からの緊急連絡が入るのを無線を受信状態にしたままで待つことにしたのだ。ところが小山田たちの方は発信スイッチを入れっ放しで、それに気が付かないらしい。二人だけの積りの雑談が入ってきた。

「宮仕えは辛いよな」と小山田がぼやいていた。「警察部内の重苦しさは外で説明しても分って貰えるものじゃないし、……」

「そういえば、小山田さん。例の奥多摩の絞殺死体の方ですが、発見者の井口さんから、その後も何度か電話がありましてね。あの人、かなり推理小説マニアの気配があるんですが、妙に気にしているんですよ」

「あれは何も分らないという他はないんだ。それで突っ放してくれよ」

「ええ。そうやっているんですが、鑑識結果を何故発表しないのか、といわれて困っているんです。特に、爪の汚れを調べたのか、というのがしつこいんです。随分黒く汚れていたけれど、首を絞められる時に犯人と争っていて、どこか引っ掻いたんではないか。爪に血や皮膚の切れっ端が残ってはいなかったか、なんていうんですね。返事に困っちゃうんですよ」

「俺にも分らん。ともかく突っ放してくれ」

 小山田の口調は明確に、この話題を拒否する感じであった。田浦刑事は諦めたのか、とうとう黙りこんだ。

 智樹は、そっと無線のスイッチを切った。達哉と顔を見合わせると、互いにニヤリとしてしまった。


(8-4) 第八章 《時限爆弾》管理法 4