電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第八章 《時限爆弾》管理法 7
興亜協和塾の現場捜査は大成功だった。
一階のスタジオの入口の表示盤には〈本番〉の赤い文字が点灯していた。防音扉がついたスタジオの中には外の騒ぎが伝わらず、ビデオの撮影が続行中だったのだ。重い防音扉は本番中には外から開けられないようになっている。スタジオの捜査は重要だから小山田警視が指揮に当たった。同行した田浦警部補は〈本番〉の表示を見て一瞬ひるんだが、扉の取手を引っ張る。開かないと分ると、ドカン、ドカン、と力一杯に扉をたたいた。
〈本番〉の明りが消え、扉が開いた。
「なんだい、なんだい。人を急がしときながら、本番中に扉をドカドカたたいたりして、……仕事になりゃあしないよ」
白髪まじりの長髪を振り乱した六十前後のすさんだ顔の男がぐちるところへ、田浦が警察手帳を示す。
「あなたが監督さんですか」
「えっ、警察……」
男は腰を抜かして、その場にへたりこんだ。映画監督の柄沢恒彦と名乗ったその男は素直に捜査に協力した。道具、照明、メーク、カメラ、演出助手兼スクリプターなど最少限の人数のスタッフだけが柄沢のかき集めたプロで、出演者は全て興亜協和塾の塾生でまかなっていたという。そこまで事情を聞いた小山田は、
「分りました。皆さんは事件に関係ないと判断します。それで柄沢さん。この仕事は中止になると思いますが、ギャラの未払い分がありますか。あったら出して下さい。今すぐに精算させますから」
「ええ」と柄沢監督はもじもじしながら大体の金額をいう。小山田は塾の事務員に命じて、それに若干の上乗せをした金額を払わせた。そして、
「ご苦労さん。これで一杯やって下さい」という一言で塾から追出した。
「あれで大丈夫なんですか」と田浦が心配顔。「口止めしなくても良かったんですか」
「いやいや。どうせ、あの監督は最初からなにか感付いている。下手に口止めすると逆効果だよ。損がなければ騒ぎはしない。それが人情ってもんさ。どこかの飲み屋でブツブツいうぐらいのことは仕方ないよ」
そういいながら小山田は、目の前の田浦警部補にも事件の真相を隠したままであること思い当っていた。
〈警察官ってのは悲しい商売だよな〉とつくづく思うのだった。
捜査は大成功だった。ビデオの実物、衣装から小道具まで、全て揃って押収できた。スタジオ内に組みこまれたていた装置の現場写真もタップリ撮った。
塾長室の奥の金庫には、クーデター計画書として充分に認定できるワープロの文書コピーと、その元になるフロッピが納められていた。
ただ一つ気掛りなのは、道場寺満州男の行方であった。小山田は智樹が知らせたナンバーの灰色の乗用車を緊急手配し、全国的な監視態勢を敷いた。
「影森参謀総長の身を挺しての作戦成功を祝しまして、先ず乾杯をしましょう」
翌日の《お庭番》チーム打合わせの冒頭、冴子が嬉しそうにシャンパンを注ぐ。
「Xデイ《すばる》発動計画阻止作戦成功の件につきましては、ただちに官房長官にご報告し、五日後に《いずも》の緊急臨時会議を招集することに決まりました」
絹川特捜検事が含みのある笑い顔を見せている。
「この件が唯一の正式な議題ですから、それまでに拙者、検事らしい準備の仕事をして置きますよ」
「そうです。今時の検事さんらしくですね」
と冴子が〈イ・マ・ド・キ〉を強調して、いささか自虐的な皮肉を飛ばす。
「ベテラン検事の簡にして要を得た冒頭陳述の成功を期待致します」
「それでは皆さん。僣越ながら」
と小山田特捜警視が重々しく割込む。
「Xデイ・幻のクーデター計画事件の消滅、ご苦労さま。本事件の今時風解決を前もって祝すと同時に、影森参謀総長兼神風特攻隊長の無事帰還を祝って、乾杯!」
〈今時風解決〉の中身は、すでに打合わせ済みの線に沿っていた。
事件の概要は、塾の不正経理をめぐる内輪もめとして処理する。
浅沼巡査部長と長崎記者は、この不正問題を調査中に殺害されたこととし、それぞれ殉職扱いとする。
主犯の久能松次郎老人は脳卒中で入院中なので、そのまま様子を見る。興亜協和塾の幹部数名を銃器不法所持などで送検。すでに〈防衛庁の悪徳七人組〉として世間に名を知られたメンバーは別途の名目で引責退職させる。
老人に射たれて死んだのは角村丙助だけとし、もめごと中の衝動的殺人として扱う。
清倉誠吾は天心堂病院に預け、一週間後に別途、心臓発作で死と発表する。
クーデター計画の報告は《いずも》段階に止め、対外発表しない。
「昨日から今朝にかけて、陣谷先生がシャカリキで連絡を取られたようですわ」
冴子がシャンパンをおいしそうに飲み干してから、涼しい声を響かせた。
「マスコミ関係は大日本新聞の正田竹造さんが押える。警察関係は下浜安司さん。政財界は江口克巳さん。皆さん、自分の名前が出ては大変ですから、それはそれは積極的に引受けられたそうです」
「問題は今後の興亜協和塾の運営ですよ」と絹川がニヤリ。「藤森官房長官がことのほかのご心配で、私に相談したいと……」
「下心あれば、いえ、魚心あれば水心、でしたか」
智樹は内心、角村との十年越しの確執の意外な結末に重苦しいものを覚えつつも一言追加する。
「今までの関係者は肝を冷やしている最中でしょうから、表面立っては動けない。対岸の火事を見ながら、やきもきするだけ。この際とばかり、利権に割込みを図る向きも多いでしょう。山城証券の瀬高常務がしっかり状況判断すると思いますが、あれだけの資金源だけに、理事の後継志願者をさばくのは大変でしょうね。ハハハハハッ……。絹川さんも下手に近寄ると火傷をしますよ」
「アハハハハッ……。どうせ私自身は金には縁がありません。私が動かせるのは人様のための情報だけですよ」
「ハハハハッ……」
「オホホホッ……」
しかし、一同の笑顔はそこで一寸ストップを掛けられた。
「残る問題は道場寺満州男です」
小山田警視がギョロリと目をむいたのである。
「例の車のナンバーを当たると盗難車でした。東京に向かうところをすぐに発見しまして、それだけでも逮捕できたのですが、事情が事情ですので、監視を続けました。ところが、道場寺が逃げこんだ先が大変なんです」一同の顔を見回してから、おもむろに、「なんと、元首相の下浜安司の事務所なんです。しかし、これは私にお任せ下さい」
「お願いしますわ」と冴子。「でも、……一体なにを考えているのかしら。もう動けないんでしょ」
そして立ち上がり、一同に向き直ると、
「さてさて皆様」と優雅に両手を広げる。「語り残したことも多々あろうかと女性らしく思案致しまして、手料理とは参りませんが、お席を用意しました。ご苦労さん会です。万障お繰合わせの上、ご参加下さい」
「そういえば、丁度時刻となりましたね」
と小山田が受けた。窓越しに見れば、日比谷公園の空に夕焼け雲が棚引いている。
冴子が用意した会場はエンパイア・ホテルのスカイ・ラウンジ。日比谷公園を隔てて霞ヶ関の官庁街が一望出来る窓際の特別ルームだった。
「これは最高の席だ」
絹川は窓を左に見る位置の椅子を選んで座るなり、ご機嫌な声を上げた。
「遠くには最高裁も見えるし、なんと、真正面は江戸城趾ではありませんか」
「オホホホッ……。また絹川さんの、おヘソ曲りなおっしゃり方」と冴子。
「いえいえ。このチームは皆さんヘソ曲りだから、安心して素直な表現をしているだけですよ」
絹川はますます上機嫌で澄まし顔。
「いやなにね。私はこれでも本当に神田の生れ。神田上水で産湯を使った生粋の江戸っ子なんですよ。学校で教えられたもんだから、あそこをずっと宮城とか皇居とか呼んできたものの、五十を過ぎてからふっと先祖返り。おや、あれはほとんど昔の江戸城のままじゃないかって、当り前の事実に目が開けたんです」
「ハハハハッ……。絹川さん」と智樹も嬉しそう。
「ご存知の風見も同じようなことをいってますよ。彼はもっと理屈をこねますがね。明治維新以後の天皇制は借物の城住まい。奈良や京都に新しい首都を築いた古代天皇制に較べると、文化的にも寄生的で根が浅いとか。武家支配の時代でも鎌倉幕府や江戸幕府は、新しい中央集権の中心地を築いた。安土・桃山の織田・豊臣政権は短命だったが独自の城を築き、文化的にも一時代を画した。江戸城を破壊した東京政権時代は日本文化の大混乱期だ。西洋の物真似だけでなんらの新しい都市も建築様式も生み出さなかったとかね」
「風見さんは関西の出ですか」と絹川は興味深かげである。
「いえ。もっと西です。彼の曽祖父までは小倉の小笠原藩士で、明治維新では幕府側だったんですね。いわば明治維新の傍観者一族ですよ。彼の一族からは自由民権運動で活躍した代議士で新聞社の社長だった人物も出ていますが、本音は反中央主義ではないでしょうかね。今でも親戚が集まると、東京の政権は薩・長閥政権に過ぎんという明治以来の語り伝えが出るそうです。まだまだ江戸時代は続いているのかもしれませんね」
「おやおや。お話が大きくなり過ぎたようで」と冴子。
「それじゃ、乾杯の音頭は、江戸っ子の大先輩の絹川さんにお願いしましょうか」
「では。ええ、一連の事件は無事終了の運びとなりました。まだ《いずも》の臨時会議もありますが、先ずは前祝いとしましょう。皆様の健康を祝して、乾杯!」
「乾杯!」と一同。
雑談の中で、智樹は何気ない風を装って小山田に質問した。
「小山田さん。弓畠耕一の額の傷ですがね、引っ掻いた方の劉玉貴の爪先にはなにも残っていなかったんでしょうか」
小山田はギョロリと目をむき、ニヤリと笑った。
「影森さんも人が悪い。とぼけても駄目ですよ。無線を盗聴してたんでしょ、静岡に向かって走っている時に」
「ハハハハッ……。気付かれましたか。しかし、盗聴とは人聞きが悪い。そちらがスイッチを切り忘れていたんじゃありませんか。自然に耳に入っただけですよ」
「アハハハッ……。ご存知の通り、警察には捜査上の秘密という決まりがありましてね、上司が特に黙っていろというものは皆さんにもしゃべれないんですよ。でも、すでにこれはビデオ・テープで御覧の通りですから、事実を隠しても意味がないでしょう。お考え通りです。劉玉貴の爪先に残っていた皮膚の切れ端と血は、弓畠耕一のものと完全に一致していました。死体の第一発見者、井口さんの素人推理は当たっていたんですよ。しかし私としても、あのビデオを見るまでは、殺害そのものとの因果関係が決定的とは断言出来ませんでした。彼等二人がしばらく一緒にいたことは明らかですから、それ以前に争った時のものかもしれません」
「何故秘密にしろという話になったかという理由は、これも当然秘密なんでしょうね」
「秘密もなにも、私はそういわれて従っただけです。理由なんて聞きませんでした」
小山田は顎をなでて、しばし沈黙の後、再びニヤリ。
「影森さん。ついでにもう一つ、爪の物語をお教えしましょう。弓畠耕一と劉玉貴の場合は、爪先の汚れだけでは決定的と言えませんでした。ところが、弓畠耕一ともう一人の被害者の場合には、かなり決定的だったんですよ」
「もう一人というと、……」
智樹はその名を口にしかけて喉元で押えた。
「はい。海老根判事の場合ですよ。あれは、監察医がよくいう〈死体は物語る〉の典型なんですがね。
海老根判事は、最高裁の正面ホールのフロアに落下し、頭部の右側がコンクリートの床面と衝突した。ところが、反対の左側にも打撲擦過傷と内出血があったんです。左側だけでは致命傷とはいい難いが、気絶するには充分な打撃が加えられたと考えられる。つまり、殴られて気絶した後に突き落とされたというのが、最も自然な説明になる。だから他殺の線で捜査しようという意見も出たのですが、上から潰されて自殺の処理になった。検死と行政解剖のデータには未だ解明出来ない部分もあったが、そのまま書類は倉庫で眠ってしまった。私も細かいことは忘れていました」
別の話をしていた絹川と冴子も口をつぐんで、小山田の次の言葉を待っていた。
「ところが、弓畠耕一の死体を見た時、左手の手首に白い線が見えたんです。割と新しい傷跡のようでした。監察医に聞いたんですが、新しいとはいえても何時頃かと特定するのは難しいと言う。その時、ふと気になって、海老根判事のデータを引っ張り出して見たんです。そしたら、やっぱりあったんです」
「爪の先にですか」と絹川がテーブル越しに身を乗り出さんばかり。
「そうなんです。爪も結構馬鹿にはなりませんよ。皆さんもダイイング・メッセージを残したかったら、深爪はしないことですね。海老根判事の爪に残っていた断片の鑑識記録は弓畠耕一の血液型とぴったりでした。ABO、Rh、HLA、すべての型を調べてあったんです」
「それじゃ」と冴子も興奮ぎみ。「海老根判事の死亡推定時刻に最高裁庁舎にいたもの全てを被疑者として調べれば、弓畠耕一長官が最も疑わしいとなったわけですね。その時なら、傷は出来たばかりだったでしょうからね」
「はい」と小山田は厳粛な顔。「もう一つ、頭部の左側の打撲の凶器については、表面が硬いものではなくて、厚めの辞書のようなものが考えられる、という鑑定意見が添えられていました。辞書、六法全書、判例集、表紙が軟らかい本ですね」
「法律書も凶器になりうるか」と絹川がうなる。
「しかも最高裁で長官が殺人、となれば、これはもう大変な国際的スキャンダルでしたね」
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