『煉獄のパスワード』(7-1)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第七章 Xデイ《すばる》発動計画 1

「ネグリジェ姿のままじゃ失礼だし、……」

 冴子はいかにもわざとらしい口実を設けて、即答を避けていた。

「どうしても、こんな夜中に、もう一度テレヴィ会議を召集しなきゃいけないかしら」

「着替えが終わるで目をつむってますよ」

 と智樹も冗談で調子を合せたが、本当は気が気ではない。事態の重要性はすでに充分説明した積りであった。だが、冴子の渋り方には本腰が入っていた。

「影森さんとしたことが、日頃の健康第一のスローガンをどこへお忘れなのかしら。そんなに一日や二日、慌てても仕方無いでしょ。Xデイが目当てだというのなら、まだまだ先のことよ。天皇は今の所、ピンピンしてるんでしょ。普段から完全看護付きの老人が、前兆も無しに突然死ぬってことは考えられないわ。会議は明日の午前中で充分でしょ」

「そういわれれば一言も無い。一本取られました。そうしましょう」

「では。明朝十時。ひと泳ぎしてからお出掛け下さいな。オホホホッ……」

 

「向うの声も良く聞こえたかな」智樹は憮然として達哉の顔を見た。

「うん。聞こえたよ。なかなか歯切れが良いな。イケシャーシャー女史の本領発揮といった所かな」

「参った、参った。いざとなると女の方が腹が座るのかもしれないな。高藤万里江に秩父冴子。今夜はすっかり女に食われちゃったよ」

「よし。それでは、ご忠告通りに健康的に行こう。俺も今夜は戻って寝る。明日の午前中はひと泳ぎするよ。打合わせは午後にしよう。そちらの会議が終わってからでなければ、細かい調査方針は決めにくいよ」

「そうだな。そうしよう。ただし、これまでに何か……」

「何か気付かなかったか、というんだろ。無いことは無い。ただ、あれがはっきりしないな。〈シノノメの最新版は入手した〉というシノノメは、東の雲か」

「そうだ。平仮名で《しののめ研究》。非常事態対策のマニュアルだ」

「やっぱりそうか。《三矢作戦》の最新版だな」

「そうだ。《三矢作戦》は正式名称が昭和三八年度統合防衛図上研究で、自衛隊内部の暗号名が《三矢研究》だった。《研究》よりも《作戦》といった方がドギツイから、外部では《三矢作戦》と呼ばれるようになったんだ。五ヶ月間の図上演習だから規模は大きいけれど、まだ自衛隊の制服組だけによる部内研究だった。これが外部に漏れて問題になったわけだ。その後に、政府レベルの公認で日米共同の大作戦計画が完成されていて、日本版は単に統合防衛研究と呼ばれている。マニュアルは適宜改定されているが、全体の暗号名が《しののめ》、国内の治安行動部分の暗号名が《すばる》だ」

「だとすると、だよ。その部分はすでに出来合いの行動計画書になっていて、いざ鎌倉という時に必要な部署には全部配られているわけだ。だから、クーデター計画の台本には、単に《しののめ》か《すばる》として置けば良い。いや、なにも書かなくても良いんだ。台本が必要なのは、複数の人間を同時に予定通り動かすためだろ。ここから後は防衛庁なり警察庁なり国なりが既定方針通りにやってくれるとなれば、その部分については、陰謀グループ独自の台本は必要なくなる。陰謀グループの独自部隊が表面に現われて行う予定の仕事は、《すばる》発動の状況をつくることだ。あとは既成組織に配置されたメンバーの仕事になってしまうから、これは、組織の陰に隠れた公務として遂行される。その後の新しい政策といっても、すでに憲政党の立法研究が沢山あるだろ。憲法改正、国防基本法、有事立法、スパイ防止法、小選挙区制、靖国神社国営化法案、日の丸、君が代、……」

 

「つまり、クーデター計画の陰謀全体については、証拠となる台本がないという可能性が考えられる。そういいたいんだな」

「そうだ。そうなると、〈塾での作業〉という言葉に大きな意味が出て来るね。そこで陰謀の証拠を押えられるかどうかだ。一体全体、彼らは、あそこでなにをやっているんだろうか」

「分った。そこがポイントかもしれないな。あそこが何か重要な作業の現場だったとすれば、長崎記者と浅沼刑事がいきなり殺された理由も、一層はっきりしてくる。なにか具合の悪いところを見られたのかもしれないな」

「あとの問題は陰謀グループの結束の度合いだね。なにが、どの程度に彼等を結び付けているか、だ。〈Patriotism is the last refuge of a scoundrel〉……〈愛国心はならずものの最後の隠れ家である〉と訳されているけど。知っているだろ、この警句は」

「うん。よく引用されているね。俺達の商売には一番突き刺さるよ。この前に見た雑誌の引用では、例の『悪魔の辞典』のA・ビアスの言葉になっていたけど、あれはおかしいと思うな。確か、もっと古いものだろ。俺が最初に読んだのは大学受験の頃だよ。俺もあれが、どういう文脈で語られたものかが気になって、いつかは調べたいと思っているんだけどね。お前が今いいだしたところをみると、なにか知っているんだな」

「ハハハッ……。俺も受験英語だよ、最初は。多分、同じテキストじゃないか。誰かへそ曲りな教師か編集者がいたんだろうね、きっと。俺もそれ以来、ずっと気になっていたんだ。俺達はなにしろ戦争の真最中に軍国教育を受けたんだからな。その次には民主主義教育で、〈正しい愛国心とは何か〉だろ。だから、この警句は凄いショックだったよ。俺はなぜかずっと、カーライルの言葉だと思いこんでいた。多分、カーライルの文章の中に引用してあったんだろう。ところが最近、人前でしゃべってしまってから、心配になって調べたんだ。そうしたら、同じイギリス人でもカーライルよりは一世紀前、十八世紀のイギリスの文豪サミュエル・ジョンソンの言葉だったんだ。ただし、本人が書いた文章ではなくて、座談の発言だ。『ジョンソンの生涯』という、友人の弁護士で文人、ジェイムズ・ボズウェルが書いた伝記の中に出てくるんだ」

「へえ。それで、お前はその伝記を読んだのか」

「うん。ただし、原書のその部分だけだ」と達哉はニヤリ。

「オックスフォード版とかケンブリッジ版とかの『引用句事典』という便利なものがあるんだよ。英語版しかないし、コンピュータのデータベースにはまだ入っていない。お前のお得意のヒミコに聞いても分らないよ。ハハハッ……お陰様で、俺が足で稼ぐ分野はまだまだ残っているんだ。その事典には引用句の原典のページ数まで書いてある。俺は国会図書館で『ジョンソンの生涯』の原書を見付けて、そのページの前後だけコピーしてきた。この警句をサミュエル・ジョンソンが口にした日付まで分ったよ。伝記が日記風になっているんでね」

「どういう文脈だ」と智樹は目を光らす。

「いいかね。サミュエル・ジョンソンは本屋の息子として生れ、〈文壇の大御所〉と呼ばれた作家、辞書編簒者、シェークスピア著作集の編集者兼出版者、などなど。大変な大物で、友人達と語らって〈文学クラブ〉を創立した。そのクラブの対談の模様が逐一詳しく伝記に描かれているんだ。……

 一七七五年四月七日、金曜日。ボズウェル他多数の〈文学クラブ〉会員は彼、つまりサミュエル・ジョンソンとタバーン、いうなればイギリス風小料理屋で会食した。いつものごとく、槍玉に上げられる著名人多数。やがて、愛国心が話題に上る。ジョンソンは誰しもが驚くこの警句を決然とした口調で発した。ボズウェルは、この〈愛国心〉という言葉を自分の国に対する本物の高潔な愛を意味するのではなく、すべての時代にすべての国で私利私欲の口実に使われてきたうわべだけの愛国心の意味だと解釈し、〈すべての愛国者がならずものというわけではないだろう〉と主張した。そういう例外は誰かという議論の末、ボズウェルは彼等がこぞって敬服、アドマイアしている著名な人物の名を挙げた。

 ところがジョンソンはさらにいった。〈私は、彼が不正直だとはいわない。しかし、彼の政治的行動だけから彼が正直者だと結論付けてよいという理屈はない〉……

 このあとに内閣だとか政党だとかという言葉が出てくるから、多分、総理大臣クラスの人物の評価なんだよ。だから、自分が立てた政策を通すために国会で愛国心に訴える演説をする、なんて行為を問題にしていたんだな。当然、逃げ隠れする相手じゃないんで、隠れ家〉とか〈逃げ場〉という訳は当っていないと思うね。意訳すると〈愛国心は悪党の最後の奥の手〉といったところだね」

「ずいぶんと手厳しい評価だね。ならずものというから、そこらのヤクザのことかと思っていたら、そうじゃなかったんだな」

「うん。……しかし、まあ、警句は独り歩きするものだから、とりあえず言葉通りに受取って使っても良いんだろうな。しかし今時、たとえ何百人かのならずものを集め切れたとしてもだよ、果して使いものになるのかね。クーデターだよ、無血ではなくて血が流れる方だよ。……天皇を再び元首に返り咲せたいとか、その種の時代錯誤なスローガンだけで、今の日本の若者がどれだけの危険を冒す気になるだろうか。身の危険を冒す実行部隊とトップの権力者集団との関係はどうなっているのか。その辺を点検する必要を感じるね。先ずは〈敵を知り……〉だろ」


(7-2) 第七章 Xデイ《すばる》発動計画 2