電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第七章 Xデイ《すばる》発動計画 3
一同の躰が緊張でピリピリ震えているようだった。
智樹が配布した《すばる》のコピーに注ぐ目も険しさを加える。
《お庭番》チームのメンバーにまで情報源を秘匿することは、お互いの信頼関係の上で抵抗があった。だが、智樹はその心理的抵抗を押し切った。
「万一の場合、一般市民に危害が及ぶことは絶対に避けたいと思いますので、悪しからず。しかし、この情報源は確かなものです。私の名誉に掛けて保障します」
「影森さんがそうまでいわれることですから、それは信じますわ」と秩父冴子審議官。その前提で私達の仕事を考えましょうよ」
そうはいうものの、冴子の表情はまだ半信半疑という感じを残していた。
「それで結構ですが、……。よろしいかな」と絹川特捜検事がいつもに増して慎重な声で質問する。「陰謀の荒筋は伺ったわけですが、自衛隊関係者の悲願は、なんといっても憲法第九条の改正でしょうね」
「ええ。皆が二度や三度は、憲法違反の存在だの税金泥棒だのと罵られて、骨身にこたえていますからね」
「それでは、クーデターで憲法を改正する場合にですね、憲法第九六条、衆参両院で総議員の三分の二以上の賛成による発議、国民投票の過半数による承認という条項はどうなりますか」
「今度の情報には入っていませんが」といいながら智樹は持参したファイルの一つを取り出した。
「これは明らかにクーデター計画の最大の焦点です。今の日本では、いきなり現行憲法の停止という手段は取りにくいでしょう。だから、出来るだけ合法的に憲法改正を図ることになります。ところが、私も防衛庁関係の研究会で議論に参加したことがあるのですが、現行憲法には法律的な整備が不十分な箇所がいくつかありましてね、これもその一つなんです。クーデターを計画しているグループは、この研究を知っているはずです」
「憲法にも穴場情報あり、ですね。これは聞き逃せませんよ」
冗談の種を見逃さない小山田警視が、さも嬉しそうに身を乗り出す。
「アッハハハッ……。ただし、ですね、憲法学者ならだれでも知っていることらしいんで、情報価値は低いんですよ。これまで一般にあまり議論にならなかったのは、法学的にも次元が低いからでしょう。問題は〈総議員〉という用語の解釈なんです。本来なら、憲法が定められた直後に、不明確な用語の解釈は法律で定めて置くべきなのです。ところが、この〈総議員〉はそのままで、どこにも解釈がないんです」
「議員の定数とは違うんですか」と冴子。
「それは公職選挙法第四条ですね。この〈定数〉を〈総議員〉の数だとするのが、一番有力な学説です。国民の負託を受けている議員の数ですからね。ところがこの公職選挙法自体が、憲法第四三条の〈議員の定数は、法律でこれを定める〉という規定に基づいている。つまり、憲法にはすでに〈定数〉という用語がある。
すると、憲法で〈定数〉と〈総議員〉という別の用語を用いている以上、別の定義をすべきだという理屈が出てきます。しかも実際には、死亡や辞任で定数を満していることの方が珍しいんです。そこで、生存議員数説とか、議員資格があるものの現在数説とか、色々な学説が入り乱れてくるわけです」
「すると、一番安全圏の数字を考えると、定数の三分の二以上を確保した場合ですね」と絹川。
「この場合は誰も異議を唱えないでしょう。ところが、クーデターで憲法を改正しようとするぐらいだから、いまの憲政党のように過半数ギリギリ、または過半数割れの状況が前提になる。つまり、どうやったら合法的に〈総議員〉の数を〈定数〉以下の現実的な数字にまで減らして解釈することができるか。これが、クーデター計画の秘中の秘。マル秘の離れ技になってきますね」
「そうですね。《三矢研究》が国会で問題になった時に、野党側は、治安行動と称して野党の国会議員を逮捕したり投獄したりするのではないか、と主張していましたね。それは当然あるでしょう。ただし、意見を変える議員がいれば、これはプラスマイナス二人分の得ですからね。
孫子の兵法に曰く、〈故に上兵は謀を伐つ、……その下は城を攻む〉
手段は脅しか金か。金については〈一度に二百億円以上動かすように努力中〉という情報です。クーデターを背景に可能な限り、野党議員の寝返りを策す。これで定数の三分の二が確保出来れば最上です。戦前の翼賛議会の成立も似たような経過ですからね。戦前には、社会主義を掲げていた野党でさえ雪崩を打って鞍替えしました」
「恐ろしいお話ね」と冴子。「でも、戦前とは政治状況がかなり違うでしょ」?「もちろんです。今は可能性の話をしているだけです。ええ、……謀りごとで定数の三分の二を確保するのが難しい場合には、平行して頑固なグループを口実を設けて逮捕、投獄する。最初の襲撃事件の指導責任というのが一番強力な罪状ですね。先ずは議会で出席議員の三分の二の賛成を確保して、逮捕された議員の議席を奪う。
今の日本では反対派をバサバサ殺すのは無理ですから、〈生存議員数〉説も現実的ではありません。議員資格を奪うことで反対派を減らします。憲法第五五条が〈議員資格争訟の裁判〉ですが、ここでは〈議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする〉となっています。これで〈現在数〉が減らした後、〈現在数〉が〈総議員〉の数だという法律なり決議を通す。〈現在数〉の三分の二の賛成で憲法を改正の発議をする。
国民投票の手続きも実は決まっていないんですが、この法律作りは簡単でしょう」
「解釈に異議があれば最高裁判所の決定に待つ、という順序ですか」と絹川。
「そうですね。最高裁も一役買うことになりますね」と智樹。
「国家権力を握る上で、司法機関の果たす役割は意外に大きいものですよ。ナチス・ドイツでも戦前の日本でも、一応は法治国家の形式を踏みましたからね。日本は満州国にも日本の法体系を持込んでいます。日本の法律家は、現地では〈法匪〉と呼ばれたそうですよ」
「ホーヒ?」と冴子。
「ハハハハッ……。法律の法に匪賊の匪ですよ」と絹川。
「法律を作り変えては、それを盾に取って土地や財産をタダ同然で奪ったわけですからね。奪われた方から見れば匪賊と変りません。法律は大変強力な武器なんですよ。……しかし、ハハハハハッ……、法律家にとって〈法匪〉呼ばわりは一番手厳しい悪口ですね。さすがに中国は文字の国ですよ。日本ではせいぜい三百代言か悪徳何々ぐらいで、匪賊扱いまではされていませんからね」
「オホホホホホッ……。また話が飛び過ぎましたね」と冴子。
「私達までが悪徳検事呼ばわりされる前に話を元に戻しましょうよ。影森さんが先程、実質的な戒厳令布告〉と言われましたが、これも研究済みですか」
「はい。それも」と智樹は別のファイルを取り出した。
「治安行動で予測される事態への対策は、ほとんどの細目に至るまで実質的に完成しています。
一番のポイントは、国内の治安行動に関する限り自衛隊が警察の要請で出動すれば、それでこと足りるという点です。戦前でも、関東大震災の戒厳令布告は、警視庁が軍の出動を要請するという形を取っています。自衛隊では《三矢研究》に先立って、『関東大震災における軍、官、民の行動とこれが観察』という資料を作りました。ここから関係諸法規の研究・整備が始まりました。
基本になるのは警察法第七一条〈内閣総理大臣は、大規模な災害又は騒乱その他の緊急事態に際して、治安の維持のため特に必要があると認めるときは、国家公安委員会の勧告に基き、全国又は一部の地域について緊急事態の布告を発することができる〉
これが自衛隊法につながります。自衛隊法第七八条〈内閣総理大臣は、間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもってしては、治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる〉
この他の項目もありますが、これが中心です。行動の細目は、地震対策などの諸法規ですでに整備済みです。自衛隊の行動上支障があれば新しい法律を作りますが、それらの諸法規を援用する形で議会の審議が省略できます。ほとんど表紙を取り代える作業だけ、ということです」
「順序としては、一番最初に〈国家公安委員会の勧告〉があるわけですね」と冴子。
「そうすると、警察関係にも協力者が必要になりますね」
「はい」と智樹。
「この関係の緊密さは《いずも》でご存知の通りです。自衛隊が警察予備隊として発足した経過もありますし、シビリアン・コントロールの原則で警察出身者が継続して防衛庁に送り込まれています。警察官は文官なんですよ、小山田さん」
「これが文官、ねえ」
小山田は自分のごつい胸板を両手の拳でドドドドッとたたく。時々ふざけてやる仕草で、ゴリラの雄のドラミングの真似である。
「そんなに文化的な仕事じゃないんですけどね。シビアなしごとには違いありませんが、シビリアンって程でもないし、……」
「オホホホホホッ……」と冴子は笑ったが、その目は鋭く皆の表情を読んでいた。
「《いずも》の名前も出ましたが、本当にこの計画が実行されるとすれば、大変にシビアな状況ですわ。皆さんのそれぞれの身近かに強力なクーデターの荷担者がいるわけですからね。下手をすると、仲間に引き込まれるんじゃないかしら。私も、お話しをうかがっているだけで、自分達がクーデターを計画しているような錯覚を覚えますけど……」
「そうですね。背中が冷や冷やしてきますよ」と絹川。
「いわば敵味方入り乱れての混戦といった有様でしょうね。しかし、二・二六事件でも最初は反乱側に味方していたような将軍連中が、状況が不利になるとサッサと手を引きましたね。トップに近い程、そういう洞ヶ峠組が多いものですよ。こういう時には、実務派の我々が腹をくくることが肝腎じゃないですか。そうでしょ、影森さん。影森参謀総長なら、どんな作戦計画をお立てでしょうか」
「アハハハッ……」と智樹。
「まだ細部の状況が良くつかめないんですが、ともかく、このクーデター計画の作戦展開上の最大のポイントは、最初の過激派を装った集団の襲撃にあると思います。ここの成功に全てが掛っています。ここがいかにも〈大規模な騒乱〉とか〈間接侵略〉らしく演出できなければ、〈緊急事態の布告〉には至らないでしょうね。
戦後の実際の経験では、六十年安保のピークに岸首相が再三再四、自衛隊の出動を要請しました。しかし、この時は自衛隊の方が、一政権の延命のために国民の反発を買うべきではない、という考えで出動を拒否しています。出動の態勢は取ったんですよ。しかし、決して動く気はなかったというんです。
ある自衛隊幹部が新聞記者に自衛隊が出動するぞという贋のリークをしたら、それが国会包囲のデモ隊に伝わって、すぐに流れ解散したという裏話もありました。私は当時、三等陸尉に任官したばかりで表面上の出来事しか知り得ませんでしたが、もっとドギツイ裏話があったと想像して思います。……
国会突入を図った過激派の学生達に、転向右翼の中田なにがしが資金を出していたという暴露ニュースがありましたね。もしですよ、あの過激派の学生達が警察官を何人か殺したり、国会に火を放ったりしていたら、事態は変わったかもしれませんね。そういう雰囲気はあったんです。ところが逆に、死んだのは女子学生でした。これで自衛隊の出動は決定的に不可能になりましたね。……
もしも、出動のきっかけをつかもうという下心があったとしての話ですよ」
「そうでしたね」と絹川。
「あの頃は、こちらも仕事が手に付きませんでしたよ。事態がどう転がるか、誰も予測は出来なかった」
「私はまだ小学生でした」と冴子。
「秩父審議官は最近しきりに年齢的な若さを強調しますね」と小山田。
「気になるお年頃ってことでしょうか」
「まあッ!意地悪!」と冴子は小山田をにらむ。
「ええと、……影森さんのお話しは、まだ途中ですね。作戦計画は、という絹川さんのご質問でしたから」
「はい、どうも。話を広げ過ぎて済みません」と智樹。
「ただし、もう一つ、自衛隊をめぐる政治的状況も頭に入れて置いて欲しいんです。
今は、六十年安保から既に三十年経ちますから、事情はかなり違っています。自衛隊出身の国会議員も増えていますが、それには自衛隊創設以来四十年の蓄積があります。選挙で動く自衛隊OBの組織〈防衛を支える会〉の計算では、自衛隊員と家族が約四十万人。自衛隊の隊友会と家族で約三十万人。自衛隊父兄会と家族で約三十万人。これで合計約百万人。これに自衛隊の退職者による郷友会の会員などを合せて約四百万人というのが、彼等の集票力だそうです。
この四百万人というのは意外に大きな数字なんですよ。戦前と比較しますと、陸軍大将の田中義一が政友会の総裁になり総理大臣になったのが、日本のファッショ政治の一つの曲り角だとされていますが、その時に田中義一をバックアップした在郷軍人会は約三百万人の組織です。それが明治維新以来約半世紀の蓄積だったんです」
「ううむ、戦後の半世紀の蓄積が四百万人の自衛隊関係者ですか。しかし、中身は昔と違うでしょ」と絹川。
「もちろん、そうでしょう。ですが、陰謀グループはまず、その四百万を結束させることを考えがなくてはなりません。四百万人が怒って立ち上がるような状況ですね。要するに私の考えでは、最初の暴動の規模と内容が最大のポイントです。この暴動の準備状況を調べて、ウイーク・ポイントを探す。これが第一でしょう。最初の暴動を失敗させれば、それでクーデター計画は雲散霧消しますよ。〈塾での作業〉という言葉がありましたが、あそこでなにか準備をしているようです。当面、あそこに注意を集中してみてはどうかと思います」
「その間、他の調査はしないんですか」と冴子。
「そこです、問題は。陰謀グループは我々との関係については揺れています。まだ敵に回したくないと考えている。この状態は維持して置いた方が良いでしょう。しかし、我々が上部に報告すると、どこで漏れるか分りません。なにしろ、陣谷弁護士が関係していることが確かなんですから、我々は完全な監視下に置かれていると考えるべきでしょう。当分は例のヴィデオ・テープと関係者の捜査だけを続けていることにする。クーデターの方の調査は我々と極少数の信頼できるメンバーだけで密かに続ける。そんな感じではないでしょうか」
「よろしいですか」と小山田が真剣な顔でぶっきらぼうに口を開いた。
「私もそんな勘が働きましたので、興亜協和塾の周辺の聞き込みは極秘も極秘、私の一存でやらせています。上には報告していません。担当の二人の刑事も、自分の目の前でまんまと偽装殺人をやってのけられた形ですから、今度は念入りな変装をして裏捜査に当たっています」
「そこが一番危険な部署ですわね」と冴子。「気を付けていただかないと、……」
「はい。それで昨晩、現地から連絡が入りました」
と小山田は深呼吸をして一同を見渡した。一同も息を詰めて小山田に注目する。
「影森さんが言われた〈興亜協和塾での作業〉に関係がありそうな聞き込み情報が二つありました」
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