電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第七章 Xデイ《すばる》発動計画 5
「新しいルート?」と冴子が首を傾げた。
「検察庁の関係ということですか」と絹川が肩をすくめ、おどけて目玉をグリグリ動かした。
「そうとは限りませんが……」と智樹はさらに一同を見回して続ける。
「もちろん、《いずも》の正規のルートが一番良いわけです。官房長官か内閣調査室長あたりが踏切ってくれるようでしたらね。それなら小山田さんも動き易くなる。他にもたとえば、麻薬が隠されていれば公安調査官か厚生省の麻薬Gメン。経理に不正があれば大蔵省のマルサ。自衛隊の調査部も本来なら責任を問われる所ですが、あそこは手が回っている可能性が強い。……どうしようもなければ一民間人の私が身を挺して潜入し、現行犯事件を起こして小山田さんの出動を促す」
「物騒なことをいわないで下さいよ」と冴子。
「アハハハハッ……。しかし、意外にも、この最後の一手が一番早くて確実かもしれませんね。先ずは、お役所仕事の手間が省けるし、……」
智樹は悪戯っぽく笑った。だがこの時にはまだ、まさかそれが本当になるとは夢にも思ってはいなかった。ふと思い付いた冗談に過ぎなかったのだ。
「検察庁の線は警察よりもガードが固いんじゃありませんか」と小山田が深刻な顔。「OBの清倉、陣谷、あの二人が現役の人事権をガッチリ握っているそうだし、……」
「一寸待って下さいよ」と絹川が右手で顎を撫でながらつぶやく。「確かに清倉や陣谷の支配は強い。しかし、検察は後始末が仕事です。事件が表面化してから揉み消しの圧力が加わるわけで、事前に手が回わることはないんです。だから今度のことでは意外に盲点かもしれません。仕事も警察と違って、検察官個人の独立性があります。……私が官房長官に直接会って了解を取りましょうか」
「あらっ。絹川さん、藤森官房長官となにかつながりをお持ちですか」と冴子も乗りだす。
「いや、なにね」と絹川が意味あり気な顔をして首をこする。「昔、ある事件で藤森先生の取調べに当たったことがありましてね。お定まり、政治資金の疑惑事件なんですが。それがまた今も藤森先生、例のルクリュテ疑惑で名前が挙がり掛けてるんです。憲政党にはそういう代議士が大勢いますが、どうせこれも一網打尽にするわけじゃない。なんなら取り引き材料に使った方が、世のため人のためになるかなと思ったもので、……」
「でも、……脅かしたりして大丈夫ですか」と冴子が心配顔。
「とんでもない」と絹川が両手で宙を扇いで、否定のしぐさ。
「脅かしどころか、ご注進、ご注進。それこそ揉み手で耳打ち、お庭番参上ですよ。将来ある秩父審議官を巻込むといけませんから、私が単独、独断という触れ込みで参上致します。どうせ我が身は窓際検事、今更このしわ首一つ惜しくもありません。捨身で当りましょう。個人的にルクリュテ疑惑のご注意を申上げた後に、〈実は、別件の捜査に後ろ盾を〉、と持ち掛けます。責任者の官房長官から《いずも》に筋さえ通して置けば、私が検察官として独自の捜査権を行使して、警察の協力を求めることも出来ます。これでどうでしょうか」
「おっしゃる通りですが」と冴子が真剣な顔で口をはさむ。
「確かに、検察官には独自の捜査権があることになっていますけど、実際に上の承認を得ずに動いた実例はないんでしょ」
「危険は承知です」と絹川は薄い胸を張る。
「しかし、あくまでも、これは合法的な職務遂行なんですからね。検察庁法第六条〈検察官は、いかなる犯罪についても捜査をすることができる〉。秩父さんも検事になる時に先輩から講義を受けたでしょ」
「はい」と冴子が意外に素直な態度を見せる。
「たとえば上席の検事が汚職や国家的規模の組織犯罪に手を貸していた場合、誰がそれを暴くのか。検察官が責任を負うのは憲法と主権者である国民、そして自分自身の良心に対してだけである」
「はい。良く覚えていました」と絹川が両手の拳でテーブルをドン、とたたく。
「今度は、あわやクーデターという事態なんですからね。しかも現実に検察OBの政界実力者が陰謀に関与している。今こそまさに、法の本来の精神が生かされなくてはなりません。私も一世一代の覚悟を決めて、ギリギリの勝負を挑んでみましょう。法の建前から言えば、官房長官の了解を取る必要すらないんですからね。官房長官の顔を立てるのは、あくまで《いずも》のトップだからこそ。《お庭番》チームの皆さんを動き易くするためです。そこまで手を打って置けば、誰にも遠慮は要りませんよ」
「いやいや、これは凄い」と小山田が両手をひろげる。
「いようッ。待ってましたッ。音羽屋ッ……。いつまで日陰の身かと思えたお庭番、突然身を翻し、黒装束を脱ぎ捨てての早変り。片肌脱いでは大見得を切る。いやさッ、この桜吹雪に見覚えはないか、といった風情」
「ハハハハッ……。それほど格好は良くありませんが」と絹川が顔を赤らめる。
「これでも若い頃は随分と司法改革の議論を闘わしたもんですよ。
アメリカのように裁判官や検事が選挙で選ばれる制度ですとね、もっと独立性が強いんですが、日本は逆になっている。私らの東京地検特捜部でも、部長が就任挨拶で〈特定の検事が目立つのは良くない。捜査は組織で勝負する〉なんてことを平気でブッている。マスコミもそれを不思議と思わずに持上げ報道する。実際には東京地検特捜部が発足の趣旨とは裏腹に、政治汚職捜査の押え込み機関になっているんです。政界実力者を本気で斬るような気配があったら、とうてい出世しない世界ですからね。個人の良心に基づく捜査が行われない仕組みになっているんですよ。
本来なら、東京地検特捜部所属の検事だけでなく、全ての検事に政治汚職を追及する職務責任と権限があるんですがね。今大騒ぎのルクリュテ疑惑にしたところで、川崎の住民運動が突上げなけりゃ、マスコミも取り上げず、検察も動かなかったでしょう。あれだけ大規模な政治資金が動いていたのに、中央紙の政治部や経済部が気付かないはずはないんです。検察は常日頃から政治資金の流れに目を見張っているべきなんです。それが公表されていた資料にさえ目を通していなかったか、それとも見過ごしていたかというのが実態なんです。これじゃ、検察官の途中退職が激増するのも当り前ですよ」
「絹川さん」小山田が横目で絹川を見て、含み笑いをした。「あまり刺激しないで下さいよ。悩みは同じなんですから。私の仕事なんか組織で勝負どころか、普段はたった一人で勝負の押え込み、もみ消しばかりなんですよ」
「それじゃ」と冴子がクールな声で割り込み、話題を元に戻す。
「それぞれが努力することにして、絹川さんの朗報を待つことにしましょうか」
それぞれのルートで平行して詰める。絹川は官房長官の了解を取り、小山田や現地の静岡県警の協力を得て興亜協和塾を強制捜査に持ち込む。智樹が詰めるとすれば防衛庁の線であるが、この際、危険は避けようということになった。協力を求めるのは、現在《いずも》のメンバーになっている防衛局調査課の後輩、徳島二等陸佐だけに止どめ、それも、現在手持ちの情報を分析して貰うだけに限定した。こちらが少しでも動きを見せると誰かが通報する体制になっているのではないか、という判断である。
そういう方針になったので、智樹の躰は当分空くことになった。そこで智樹は、冴子に懸案の中国行きの手配を頼んだ。北京で千歳弥輔と会うのだ。そうしないと、弓畠耕一の失踪怪死事件の方のけりが付かない。翌日にも出発する積りだった。
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