『煉獄のパスワード』(2-1)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第二章 花崗岩の砦 1

「こんにちわ……」

「お名前をどうぞ」と器械音の声が応ずる。

「影森智樹です」

「……(ピッピッピッ)……声紋チェック終了。……(カチャッ)……どうぞ、お入り下さい。ドアは手で開けられます」

 山城総研の研究員は全員、個室の作業室を持っていた。原口華枝の作業室のインターホーンを通しての会話は、いつも通りの、おふざけの手続きだった。華枝はこういう罪のないジョークが好きなのである。確かに、入口のドアには、オートロックで遠隔操作器付きのカギが付いていた。重要情報を扱うこともあるからだ。華枝は女性でもあるし、必ずカギを掛けて仕事をする習慣だった。しかし、〈声紋チェック〉の設備まではなかった。SF好きの華枝は、コンピュータにいたづらして器械音を入れたり、新しい趣向を凝らしては、智樹の訪問を新鮮で楽しいものにしてくれるのであった。

 智樹がドアを開けて入ると、華枝は椅子に座ったまま身体をねじって、顔の正面を見せた。

 ただ美くしいというだけの顔ではない。いつも通りの、観世音菩薩を総天然色にしたような、和やかで華やかな笑顔である。その和やかさは真に、得もいわれぬもので、智樹の胸から全身に暖かい波紋を広げてくれるのだった。ふたまわりも年下の、娘であってもおかしくない年頃の女性から、こういう精神的な抱擁を感じるのは不思議であった。智樹は一瞬、身が軽くなる思いを味わう。だがそれでも、ふんわりと前進しながら、その感覚に逆らって挑む。ジョークのお返しに、思い切りの低音で、脅しの台詞を耳元でささやいた。

「声紋なんか、簡単に盗めるのだぞ」

 そういいながら智樹は背後にまわって、華枝の両腕の付根をやや強くつかんだ。ふっくらと柔らかかった。智樹がその感触を確かめてから力をゆるめると、華枝は右手に握っていたドアの遠隔操作器のボタンを押した。カシャッと軽いロックの音がした。

「ドアはもう開きません。貴方は永久に監禁されました」

「アハハハッ……。これは新しい仕掛けかな。その内、床がパックリ開いて、下の穴倉に落されるんじゃないの」

「そうですよ。油断は禁物ですよ」

 智樹は両腕を放すと華枝の椅子の背を握って、グルリと回し、もう一度、お互いに笑顔を見せ合った。

 ドアにカギを掛けたからといって、二人はすぐに抱き合ったりはしない。二人とも、そういう性格ではなかった。智樹は、華枝のさっぱりした余裕のある性格に、安らぎを覚えていた。いくら親しくなっても一定の距離を保つ、といったらよいのだろうか。他人ではなくなってからも、お互いに礼儀は守る。むしろ、ジョーク混じりの演技も含めて、交際の手続きはかえって丁寧になっていた。

 また、決して紋切型ではないのだが、華枝には、仕事は仕事、仕事場は仕事場というプロ感覚を大事にしているところがあった。智樹もそれを心得ていて、挨拶が終われば気楽に仕事の話に入った。

「最高裁の調査、有難う。それでね、資料リストの方で相談したくて……」

「はい。何でしょう」

「いつものことで、読むのは大変でしょ。中身は入力されていないだろうけど、なんとかして、弓畠耕一長官に関する部分だけを探し出したいんだ」

「そして、極秘……なんでしょ」

「はい」

「つまり、……手っ取早くいえば、わたしに読め、ということですね」

「はい。察しがよくて助かります」

「ウフフッ、……予想通りでした」

「申し訳ない。それで、……公式資料よりも、雑誌記事なんかの方が参考になるかもしれないんだ。新聞記事は僕がもう呼出してみた。すこし範囲を広げて、裁判関係の批判的な記事なんかを当たって貰えないだろうか」

「はい。できるだけやってみます」

 華枝の声はいつも通りの明るさだった。だが、上目づかいで智樹をじっと見詰める様子には、いささかこだわりが感じられた。智樹は言葉に詰まった。

「……。何かご意見がおありのようですね」

「ウフフフッ……。ご意見ってほどじゃないの。ご気分ぐらいなの。私も、風見さんみたいに足を使って調べたくなったの」

「それは、……」

 と智樹はいいかけて、言葉を濁した。〈危険だから〉という言葉の次には、〈女性だから〉が控え、〈差別だ〉と反論されれば、〈母性〉を持ち出さざるをえない。それらの言葉の触れたくない脈絡がサッと脳裏を走ったのだ。智樹は華枝と男女関係を持ちながら、華枝の〈母性〉についての話題はオブラートに包んだまま、一度もさわらずにきた。華枝も智樹の過去の傷跡をおぼろげながら知っており、智樹を追い詰める台詞は避けてきた。

「ごめんなさい、勝手なこと言って。でも、私、風見さんが羨ましいわ。コンピュータばかり相手にしていると、時々、息が詰まりそうになるの。ヒミコはまだましだけど、やはり機械に変りはないわ」

 華枝の研究室にも自宅にも、智樹の名義で特別にヒミコが設置されていた。その二台のヒミコはまた、二人だけの暗号スクランブルによる連結システムで、智樹のオフィス、自宅、車のヒミコにつながっていた。もっとも智樹のオフィスは、華枝にいわせると一音違いの〈オルス〉がほとんどの状態ではあったが、……

「分るよ。済まない。……では、お詫びのしるしと、謝礼の内金代わりに夕食をおごらせていただきたいのですが、御都合はいかがでしょうか」

「光栄です。お待ち下さい。秘書にスケジュールを確認させますから。ウフフッ……」

 と含み笑いをして華枝は、白い皮製の四角い大型ハンドバッグを引き寄せた。蓋を開いて智樹に裏側を示す。蓋の裏の鏡を剥がすと電子手帳が出てきた。

「電子手帳と無線電話機を仕込んだの。ここからヒミコにもつながるのよ。散歩しながら思い付いたアイデアでも、その場ですぐヒミコに送り込んでおけるわけ。まだヒミコのリモコン操作まではできないけど、面白いでしょ。トモキの七つ道具にも負けないわ」

「これは参った。降参、降参。なんてったって、こちらは男の弱味。ハンドバッグは持ち歩けないもんね」

「そうでしょ」と華枝はご機嫌で電子手帳のスケジュール表を呼び出す。「OKですわ」

「では、後程」

 

 夕食の場所は華枝が決めた。華枝はいつも、何箇所かの候補地を用意していた。いくつか先の楽しみを予定して置くのが、一種の生き甲斐になっているのだ。食事だけではない。旅行もそうだ。しかも、それだけではない。たとえば、話題の選び方である。

 青山のインド料理店に落着いてワインを注文すると、華枝はあらかじめ選んで置いた話題をするりと持ち出した。

「トモキ、煉獄ってご存じ?」

「言葉は知ってるよ。何度かお目に掛かった。最近だと、ソルジェニチンの『煉獄にて』という小説を読んだ。政治犯の収容所の話だ」

「怖い、怖い……。私のは、そんなんじゃないの。SFによくでてくるのよ。煉獄の火に焼かれて若返るとか、浄化されるとか。浄い火だとか。火で浄めるというのは、東洋にもあるでしょ。ところが、〈煉獄〉をサーチしてみたら、もっと複雑で大変な所だったの」

 華枝の瞳はキラキラと輝いていた。インド風に飾った店の、ステンドグラスが醸し出す異国情緒の中で、華枝の〈煉獄〉のイメージは、途方もなくふくらみそうだった。智樹は、喜んで聞き手を引受けた。

「おやおや、また半可通の無知を再認識させられるようだね」

「そうなのよ。わたしも驚いたの。だって、仏教でもキリスト教でも、あの世は天国と地獄だと思うでしょ。普通はそうなの。わたしも〈煉獄〉ってのは、地獄の一種だぐらいにぼんやり考えていたの。ところが〈煉獄〉は、天国と地獄の中間にあるんですって」

「ふうん、そりゃあ初耳だね。あんまり深く考えたことはなかったよ」

「英語ではパーガトリーだけど、一番の元はラテン語の動詞でプールゴー。洗い浄める、ってことなのね。英語のパージは、戦犯パージとかレッド・パージとか、追放するという意味にもなっているでしょ。つまり、汚れを追い出すのね。〈煉獄〉だと、いかにも煉瓦みたいに地獄で火に焼かれるって感じでしょ。一寸違うのよね。確かに火で浄めるってことになってるんだけど、浄める方が元の意味なんだから、日本の〈みそぎ〉に似た考え方なのよ。罪を浄めて天国に行くってわけ」

「日本の〈みそぎ〉という言葉自体は、最近の政治家に汚されてしまっているけれどね。ハハハッ……。それじゃ、

ともかく〈煉獄〉は天国の入口でもあるわけだ」

「ねえ、トモキはどうかしら、ダンテの『神曲』、読んでないでしょ。当り?」

「ピン、ポン。恥ずかしながら、若い頃に文庫本を買ったまま」

「……でしょ」と華枝はニッコリ。「まず、〈煉獄〉はイエス・キリスト時代の発明ではないのよ。色々な起源はあるけれど、やっと十二世紀後半になってからスコラ派の神学者がカソリックの教義に組み入れたんですって。それをダンテが『神曲』の《煉獄篇》で具体的に描いたわけ。ところが、大変な論争があるのよ。プロテスタントは〈煉獄〉の存在を否定しているのね。信仰のみによる救い、という考え方なんですって。だから、〈煉獄〉はカトリック風でレトロで、だから逆に、ザンゲと同じようにかえって魅力なのね。私のいう感じ、分るかしら。〈煉獄〉は地獄でも極楽でもなくて、極悪人でも聖人君子でもない中位の人間が行く所なのね。ちょっぴり人が悪かったり、ちょっぴり人が良かったりする普通のオジサンやオバサン、つまり、多数派の大衆向きの〈あの世〉の店開きだったのよ、デパートとかスーパーみたいに。そう考えると面白いでしょ」

「いやあ、アハハハッ……それは面白い比喩だ。『神曲』か。読まなきゃいかんな。受験テストで〈ダンテ〉と〈神曲〉を結び付けるのを覚えたまま大人になったんじゃ困るんだね」

「そうよ。でも、あの世のスーパーマーケットまで話を広げた罰当りは、かくいう私ですからね。ウフッフッ……、〈煉獄〉とは、中世キリスト教のマーケット・リサーチの所産なり、なんていったら、怒られるかしら」

「うん、しかしキリスト教では、人間をすべて罪人、原罪の持主と考えるわけだろ。この世の罪についても、日本の仏教や神教よりも厳しいよね。だから、その〈煉獄〉の発明には必然性を感じるね」

「それと、〈煉獄〉のイメージが広がった時期は、司法制度の発達だとか地理上の発見なんかと相呼応するんですって。大病で死に損なった人が見た夢なんてのが、あの世の探検の手掛りになっているのよ。これも面白いでしょ。人間って本当に欲張りなのよね、どこでも探検しちゃうんだから。死後の世界だってね。……でも私、〈煉獄〉が好きになっちゃった。火の川や火の池には橋が掛かっているっていうから、今に数奇屋橋公園みたいな待合わせの名所ができるかもよ、……。ねッ、私、死んだ後でもまたトモキと〈煉獄〉でデートできるかしら」

「アハハッ……、結構ですよ。だけど、姿形がすっかり変わっていたりしたら、探すのに困るね」

「ねッ。その時の合言葉を決めて置きましょうよ。トモキが《いずも》のコードナンバーで聞くと、私がパスワードで答えるっていうのでは、どうかしら」

「ちゃんと覚えていられるかい」

「あら、当然よ。それが商売なんだから」

「ハハハハッ……。煉獄でデートね。しかし、僕もやっぱりスーパー組か」

「……でしょ。そんなに極悪なこともできないし、聖人君子ではないし」

「うん。でも、何だか軽く見られた感じだね」

「そうじゃないのよ。人間の顔をしてるってことなのよ。しかも、そういう人、これからもますます増える一方じゃないのかしら。組織人間、企業戦士、組織悪、企業悪、……でしょ」

 智樹はギクリとした。華枝に無邪気に顔をのぞきこまれてドギマギしてしまった。しかし華枝には別に、〈煉獄〉を引合いに出して智樹をいじめようという意図があるわけではなさそうだった。

 思いっ切り辛いインド料理を、フーフーいって食べながら、話は弾んだ。〈煉獄〉が人間臭いということは、人間回復のルネッサンスの思想につながる、という説もあった。現世でも〈悔い改めよ〉というわけだから、それも一種の〈浄化〉である。そう考えると、現世と現世の苦しみを〈煉獄〉にたとえるのは、まことに自然なことになる。ソルジェニチンの『煉獄にて』の題名の所以である。

「だれでも生きている内に自分の煉獄を持つのよ」

 華枝は、あっさりと結論付けた。

「なるほど」

 と智樹も軽く応じたが、脳裏では自分の〈煉獄〉と同時に〈華枝の煉獄は……〉という思いが閃くのを意識していた。華枝は一時期、〈水子〉信仰に強い関心を示していた。いかにも冷静な話し振りではあったが、妊娠中絶と離婚を経験した華枝にとって、〈煉獄〉は、ただの知的好奇心の的というだけではなかったはずだ。

 華枝は結婚後、バイクの衝突で腰骨を打ち、整形外科でレントゲン写真を撮った。骨に異状はなかったが、レントゲン写真には小さな胎児が写っていた。華枝にはまだ妊娠の自覚がなかったのだった。整形外科医は驚いて、産婦人科でエックス線の影響について相談するように指示した。産婦人科医は常識通りに安全性を考えて中絶を勧めた。華枝は夫とも相談して中絶に踏み切った。だが、心の中では〈子殺し〉の自虐のささやきが収まらず、ノイローゼにおちいり、ついには離婚に至った。華枝の極楽のような笑顔の裏には、やはり傷のある過去が秘められていたのである。

「いやあ、今晩の〈煉獄〉の話は面白かった。講演料を出さなきゃならないね。この次は免罪符の話も頼むよ。これからはプリペイド・カードが発行されたりして、大変な騒ぎになるかもしれないからね」

 話の区切りを付ける積りで智樹がそういうと、華枝は、ワイン残りを二人のグラスに注ぎ分けながら、続けた。

「ウフフッ……わたしも乗り過ぎちゃって。でも、せっかくインド料理にしたのに、肝腎のインドの話をするのを忘れてたわ」

「なんだい。今度はインドの地獄かい」

「いいえ、極楽も極楽。極めつきの極楽の楽しみよ。カーマスートラってご存知?」

 華枝の瞳は、前よりも妖しく輝いていた。ワインのせいばかりではなさそうだった。いたづらっぽく、じらすような輝きであった。

「ううん、知らない」

 智樹は、いささか知ってはいたのだが、わざととぼけた。

「それじゃ、今度は教室を変えましょう」

「先生は同じなんだね」


(2-2) 第二章 花崗岩の砦 2