電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第二章 花崗岩の砦 9
小山田警視は、指定された九時丁度に〈クレセントG〉の事務所のドアを開けた。
唯彦は、すでに身体が空いていたらしく、奥のデスクで新聞を広げていた。
「いや、どうもどうも。二度もご足労をお掛けして」と如才なく立ち上り、新聞を畳んで出てくる。「良い場所を予約して置きました」とドアを押し、小山田を外へ促す。
狭い路地を回って連れて行かれた先は、雑居ビルの八階。小綺麗な和風の店であった。四人用の椅子式テーブルのセット毎に天井まで区切ってあって、個室に近い雰囲気を作り出してある。内密の話がし易い感じだった。
座るとすぐに運ばれてきたセットの中には、弓畠唯彦の名札付きのウイスキー・ボトルがあった。
「執務中、ということでもないでしょ。特別な話ですものね」と唯彦は先回りしていった。「ここは私が持たせて戴きますから、遠慮しないで下さい」
「では、水割りを頂きましょう」
店の女性が手を動かそうとするのを、唯彦は右手を挙げて押えた。
「いい、いい。今日はセルフサービス」
といい、目顔で二人だけにせよと合図する。水割りを作りながら小山田に向かって、
「食事はお済みですか」
「ええ」
「それでは、……何か軽いものを」
と、つまみを頼む。
唯彦の態度はまたしても、まことに滑らかであった。しかし、あまりにも滑らか過ぎるのである。チリッ、チリッ……と小山田のデカ長感覚に訴えるものがあった。しかし小山田は焦らなかった。どこか気になる所がある。だが、唯彦はホンボシではないという第一感だけは、捨てる気にならなかった。
〈何か隠している。それが、演技の感じになって現れているんだ。母親にもそんな感じがあった。もしかすると、この家族には世間に隠した秘密があるのかもしれないぞ。だが、それがあったとして、今回の失踪と直接の関係があるのかどうか……〉
その疑いは脇に置き、小山田はまず唯彦の口をほぐすことにつとめた。
ただし、口ほぐしに関する限り、小山田が無理する必要はなかった。唯彦は話し好きで話し上手だった。聞手に回るのも巧みだった。だが、飲みっ振りは慎重で、かっての酒乱による失敗を自覚していると見えた。その癖、小山田のグラスの中の水割りが半分ぐらいになると、素早く注ぎ足した。小山田の方が、飲み過ぎないように気を付けなければならなかった。
会話の大半は、裁判所をめぐる話題だった。日本の裁判が国際的には異常な程、長期にわたること。一般人が裁判を敬遠していること。誰の目にも罪状が明らかな刑事被告人の政治家が、裁判を長期化させて粘りに粘り、やっと一審も二審も有罪の判決を受けたのに、まだ議席を確保していること、などなど。唯彦はさすがに元報道記者らしく話題が豊富だった。しかし、肝腎の弓畠耕一最高裁長官個人に関しては、一向に具体的な事実が出てこないのである。
時計の針が十時半を示していた。小山田は、そろそろ頃合だと見計らって、ズバリと切りこんだ。
「長官はご家族に裁判のことを話されませんでしたか」
「それが一度もないんです。そう断言できます。というのは、私は北京に行く前に、警視庁から裁判所に回りました。その頃、親爺の仕事のことを思い出してみたんですが、担当している裁判については、異常なくらい一切口にしていなかったんです。原則的には、それが正しいことなんでしょうがね」
「そうだと思います。私らも、事件の捜査状況については、家族にも口外しないことになっています。新聞種になる事件の場合は特に嵌口令は厳しいんです。しかし逆に家族も関心を持ちますから、一般的な話題ということで、やっぱり、差支えないことを話しますね。全く話さない人は珍しいんじゃないですか」
「もっとも、うちの家族は団欒の機会もほとんどなかったし、親爺と一緒に飯を食うのは朝飯だけで、親爺はいつも新聞を広げていましたからね。話をすること自体が少なかったんです」
「なるほど。事件関係者が訪ねて来るということはありませんでしたか」
「いやあ……、記憶にないですね。……」
唯彦の右手の指先がテーブルを軽く叩いた。記憶をまさぐっている感じだった。
「ああ、あれはそうか。……いや、大変古い話になりますよ。確か、和歌山から大阪に引越したばかりで、私が小学校の三年生ぐらいの頃です。アメリカ人だと思いますが、英語を話す白人が混じっていたので、特に記憶があります。日本人が二人と、その白人が一人の三人の客でした。応対に出た母が、〈和歌山の検察庁にいらした……なんとかさん〉という取次ぎをして、父は書斎で会いました。それまでに白人を見たことが何回もなかったし、自宅に上がったのはこの時だけです。英語が聞こえたのは、来た時と帰りの挨拶だけでしたが、和歌山の検察庁のだれかと白人、おそらくアメリカ人という取合わせも不思議でした。もう一人は通訳だったのでしょうね。ともかく、妙に記憶に残っています」
「そのことで、何か聞かれませんでしたか」
「親爺は私達には何もいいませんでしたし、こちらも聞きませんでした。普段から、そういう習慣でしたから。……それに、その時は、……そうですね、親爺はその後、しばらく不機嫌でしたね」
「不機嫌……」
「ええ、何か気掛りなことか、不満があるという感じでした」
「そういうことがあっても、家族や親子で話合うことはなかったと……」
「そうですね。……」
唯彦の顔色は段々と酔いが回って赤くなり、目も潤んできた。態度にも、くだけた感じが出始めていた。しゃべり方も少しくどく、熱っぽくなってきた。
「小山田さん、私は昼にいったんお別れしてから考えたんですが、これはやはり大事件ですね。そうでしょ。私はまだNHKでの仕事の癖が抜けなくて、デスクから大事件だといわれないと、そんな気がしないんですよ。おかしな話ですが、下っ端根性が身に染み付いてしまったんですね。……今日は、一個人として、客観的に事件を位置付け直してみました。大事件で、しかも極秘の捜査段階だと……。だから申し上げるんですが、親爺は、……秘密主義でした。家族の関係も人工的といいますか、他人行儀でしてね、冷たいものでした」
唯彦の警戒心が多少は緩んできたようだった。小山田は唯彦のグラスにウイスキーを足し、氷とミネラルウオーターを加え、水割り棒で混ぜた。
「どうも、済みません。事件がどう展開するか分りませんが、小山田さんとは何度かお会いすることになるでしょうね。ご苦労さんです」
といって唯彦は、グラスを持上げた。小山田も調子を合せて、
「よろしくお願いします」と自分のグラスをカチンとぶっつけた。
「親爺はね、別に珍しい話じゃないけれど、二重人格だと思いますよ。私は自分が酔って暴れたりしたんで、自分にも二重人格の気があると思いました。それで、親爺のことも分ったような気がするんです。ただ、親爺の方が自制力が強いから、表面上は裁判官に相応しい人格者としての世間体を通すのに成功しているだけなんです」
「何か思い当たるようなことでも……」
「いえ……」と唯彦はわずかに言葉を濁した。「ただ……、親子関係からの実感ですね。親爺との関係は他人同士でした。他所の人、という感じでした。不思議なんですが、親爺は家族と一緒にいても、どこか別の所に心を置いてきている、という感じがしました。親爺の目がそう語っていました。いつもどこか遠くを見たままなんです。私もいま、二人の子供を持っていますから、なおさらそう感じます。私と子供の関係は、親爺と私の関係とは全く違うんですね。私は何時の間にか、周囲の親子関係を真似しています。テレビドラマの影響も強いでしょう。家庭サービス時代ですからね。しかし、それだけじゃなくて、私は人並以上に子煩悩だと思います。自分の人生に失敗が多いから、子供に何かを託したくなるのかもしれません。そして時々、ふと気付くんです。親爺は俺とこういう遊びをしなかったな、と。……結局、私は親爺の真似を全然していないんです。というより、親子関係で親爺の真似をするということは、はっきりいって何もしないということなんだな、と思っています。もちろん、経済的なことは別ですよ。わが家は経済的には恵まれていましたからね」
「お孫さんとは遊びませんか」
「そうですね。一度だけ私が子供を連れて正月に、親爺を訪ねたことがあります。ビデオ・カメラを持って行ったんですが、親爺が俺にも撮らせろと言い出しまして、操作方法を教えました。面白がって子供を撮っていましたが、あれはどうも子供よりもビデオ・カメラに興味がある感じでした。親爺は戦前からのカメラ・ファンですからね。だけど、子供は苦手なんですよ。カメラのファインダーを通して覗いている方が気楽なんじゃないかと、その時、私は感じたものです」
「長官がずっとお忙しかったためではないんですか」
「いや、そうじゃありませんね」と唯彦は語気強くいい放った。すでに何度か考えて自分なりの結論を固めているという喋り方だった。「親爺は自分の趣味のゴルフには相当の時間を使っていますよ。時間の問題ではなくて、気の持ち方、もっといえば、人生の位置付け方にあると思います。親爺の人生、世間的な表面に見えている人生は、本物ではなかったんです。親爺は、きっと戦争中の若い頃にどこかで、自分の人生を置き忘れてきたんですよ」
「戦争中に、というと……」
「おや、まだ調べてなかったんですか。親爺は最初に関東軍で見習士官になって、最後は北支那派遣軍の法務大尉だったんですよ」
「えっ、関東軍から北支那派遣軍ですか。いえね、法務大尉までは分っていたんですが、任地は調査中でした。どのデータベースにも入っていないし、軍歴名簿はコンピュータ化されていないようなので……」
「そうですか。それなら早く聞いてくだされば良かったのに。もちろん、それ以上の細かいことは何も知りませんが……。私も親戚の法事の席で耳にしただけで、これもやはり、親爺が家族の前では触れない話です。そうですね……。親爺は中国の話が出ると、目に見えないくらいですが、緊張しましたね。あれはやはり、何か思い出したくないことがあったんですよ」
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