電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第二章 花崗岩の砦 6
〈三百有余年の石垣と堀。つい最近できたコンクリートの道路。その上に溢れる自動車。コンクリートの耐用年数は百年そこそこらしいが、これからこの堀の景色は、どういう変化を辿ることであろうか〉
苔むした石垣の渋い美観と比較されては気の毒なようだが、左手の敷地を庶民の目から隔てるための裏側のコンクリート塀は、かなり汚れており、しみだらけで醜い。所々にある警官の詰め所はさらに不様だ。
〈江戸城の歴史上、今が一番醜い時期ではないだろうか〉
ここに来る度にそう思う。そして、想像力で過去を再現しながら眺めを楽しむのだった。やがて土手が終わり、歩道に降りる。汚れたコンクリート塀が切れると、左手に最高裁の建物が見え始めた。近景は千鳥ヶ渕の最南端の一部が切離された半蔵濠である。だが、遠景には不揃いなビルが立ち並んでいるため、なんとも雑然とした印象になる。
最高裁が〈石の砦〉といわれるのも無理はない。
鉄筋コンクリートを花崗岩で覆っているのだが、わざと表面を磨かずに、自然めかした岩肌を露出している。シルエットはいやに角張っている。窓は引込んでいて、この位置からはガラスが見えない構造になっている。都心では珍しく広い敷地が心持ち高台になっているから、五階建ての割には高く聳えて見える。古代的でもない。中世的でもない。しかし、やはり〈城郭〉という感じがする。威圧感がある。権力の砦である。一種異様で、不気味なデザインである。
〈三年を掛けて一九七四年四月に完成。地上五階、地下二階……〉
智樹のヒミコで呼び出して見たばかりのデータバンクの資料要約が頭に浮かんだ。
日付を明瞭に記憶できるのは、丁度この時分に最高裁と関わりを持っていたためでもある。一九七〇年代のはじめに、最高裁が司法修習生の思想調査をして裁判官への任官を拒否したり、現職裁判官の再任を認めなかったりする事例が続発した。青年法律家協会、略して〈青法協〉への加盟が法の中立を犯すというのが最高裁事務総局の見解であった。達哉は、この件で取材を兼ねて、最高裁への抗議行動にも参加したことがあるのだった。その頃の最高裁は移転前で、霞ヶ関の堀端、警視庁の向かい側にあった。いまは法務省が使っているが、東京駅と似た名建築の赤レンガのビルである。
〈そうだ。図書館があったぞ〉
達哉は学生達と一緒に最高裁の図書館に入ったことを思い出した。
〈今は、どうなっているのかな〉
急に最高裁の内側を見たくなった。
国立劇場の前を過ぎると、すぐ隣に通用門がある。人だかりがしていて、やけに騒々しかった。ゼッケンや腕章を付けた数十名の集団が、早期公正判決要請の署名の束を持ち、門の中に入る人数の制限を巡って最高裁側と折衝しているのだった。門柱の銅板には〈最高裁判所東門〉と書いてある。鉄製の門は閉じられており、若くて逞しいガードマンが立っていた。
「済みません。一寸図書館に行きたいんですが」
「今は、ここから入れません。西門に回って下さい」
ガードマンは右手を大きく振って、敷地の反対側を指差した。正門を右手に見て、ぐるりと右に回る。西門までは、バスで一駅の距離が充分にあった。かっての最高裁とは較べものにならない広さである。
〈確か、一万数千坪だったな。路線価格で坪一千万円としても一千数百億円か。時価二千万円だと三千億円前後か。たいしたもんだ〉
かっての最高裁は入口も一つで、出入りは自由だった。それが今は、屈強のガードマンと鉄門で守られた城砦と化している。アメリカの最高裁には観光バスが乗り付けるし、案内人もなしに気楽に内部の見物ができるというのだが、ここでも日本の最高裁は〈逆コース〉を辿っているのだ。
〈戦後日本の平和の象徴かな、これは〉
達哉は皮肉な観察の眼を配りながら、裏の西門に辿りついた。ここの門は開いていた。職員も出入りする通用門である。
「図書館に行きたいのですが」
とガードマンにいうと、守衛の詰め所を指差された。しかし、守衛の返事はつれなかった。達哉の背広の襟を見ながら、
「弁護士さんか大学の先生でしょうか」
「いえ、もの書きです」
「一般の方は利用できません」
「えっ、前に利用したことがありますが」
「前のことは知りませんが、いまはできません」
「そんな勝手な……」
達哉の持前の意地っ張りが、ムクムクと頭を持ち上げてきた。
「ともかく理由を聞きたい。入らせて貰えますか」
「はい。それでは一応、図書館の受付で聞いてみて下さい」
守衛は達哉に、面会の申込書に記入するよう求めた。
「ここに面会の相手のサインと判を貰ってきて下さい」
日本中どこでも同じ、お役所仕事である。面会の申込みをする本人については、別に証明書を求めるわけでもない。デタラメを書いても同じなのだ。何か犯行を企む手合いだったら、嘘を書くに決まっている。肝腎の犯罪防止には全く無効で無用な時間潰しが、ここ、最高裁でも行われているのが、おかしくもあった。
洞窟の中のような長い廊下を抜けて行くと、建物のほぼ反対側に図書館があった。
〈最初の東門からの方が近かったな〉
と苦笑いをしながら、受付の塑像のような係員に会釈をした。細身で、貴族の執事を思わせる白髪混じりの無表情な中年男であった。最初と同じ頼みを繰返す。
「図書館を利用したいのですが」
「資格をお持ちですか」
その声はいかにも冷たく、不心得者をたしなめるかのように機械的に響いた。達哉は、その声のくぐもり具合で、改めて最高裁の巨大な洞窟の構造を実感した。吹き抜けの天井がやたらと高い。空気も心なしかひんやりと澱んでいた。
〈あの世の入口みたいだな。そうだ。ここは閻魔の庁の入口だったんだな〉と思った。
「いえ、もの書きです。日本の裁判制度について勉強しているんですが」
「利用できる方は、司法資格をお持ちか、大学の教授ということになっています」
「前に利用したことがあるんですがね。その時は、そんな制限はありませんでしたよ。なにか新しく規則でも作ったんですか」
「一応、図書館利用に関する事務要領、というのがあります」
「それはなんですか。最高裁の規則制定権に基づく規則ですか」
「いいえ、そんな大袈裟なものではないと思いますが」
「見せて貰えませんか」
「外部の方にお見せすることはできません」
「そうですか。いや、よくあることで。最高裁までが、法律に基づかずに国民の権利を勝手に制限するというわけですね」
「はあッ……」
達哉の胸の中をスウッと冷たい隙間風が吹き抜けた。〈こん畜生奴!〉。ふと、いたずら心が起きた。深田からも聞いたばかりの判事の自殺事件のことだ。この事件については、すでに智樹の自宅で、原口華枝が送ってくれたデータからも若干の予備知識を得ていたのだった。
「残念でした。あなたと論争しても仕方ない。来たついでに伺いますが、何年か前に東京高裁の判事がここの正面ホールで飛び下り自殺をしたでしょ。あれは、どのあたりになりますか」
達哉は高い天井を見上げながら、持上げた右手の人差し指をぐるりと泳がせた。すると、塑像のような受付の係員の上半身が、急にぐらりと揺れた。手がわなわなと震えている。青鬼のように土気色だった顔に、サッと赤みがさした。係員は声を荒らげた。
「あなたは何をおっしゃりたいのですか。何の目的で来たのですか。出てって下さい。すぐに出てって下さい」
達哉は、係員の突然の態度の変化に驚いた。そして、自分でも意識せずに声を張り上げて、こう尋ねていた。
「あの判事さんは、あの時、この図書館に来ていたんですか」
「関係ありません。あの事件と図書館とは何の関係もありません」
係員の声は、悲鳴に近かった。
その声は巨大な空洞に何度もこだました。なにごとかと驚いたガードマンが、革靴の足音をカッカッと響かせて飛んできた。
困ったことになるかと心配したが、今度は、受付の係員の方がオドオドしている。
「なんでもありません。なんでもありません」
と繰り返して、ガードマンを引き取らせた。
達哉はもう一度、静かに尋ねた。
「正面ホールを見たいんですが、どう行けば良いんですか」
係員は無言で、たった今飛んできたガードマンが立っている方角を指差した。
「あそこで聞いて下さい」
ガードマンに尋ねると、今度は、面会の申込書を見せろという。見せると、目的が違っているから、もう一度外へ出て入り直さないと駄目だという。再び受付で広報課に取材を申し込む。すると、広報課員が出てきて、パンフレットを寄越した。
パンフレットでは、正面ホールではなく、ただ、大ホールとなっていた。
「もっとも、ホールというのは、ここしかありませんから」
と広報課員は迷惑そうな顔をして、一緒に付いてきた。
大ホールの広さは八九〇平方メートル、約二百七十坪である。
採光用のレンズ型の窓が教会のステンド・グラスを思わせる。右手には小さな青銅の像が立っていた。ギリシャ神話に由来し、ヨーロッパではどこの裁判所にもあるという正義の女神像である。持っている秤が正義の象徴だというのだ。
「日本の庶民感覚だと、桜吹雪の入れ墨なんでしょうがね」
ヘソが曲がったままの達哉は、余計なことと知りつつ、広報課員を困らせた。
「ハハハハッ……。そうもいかないでしょうが、これじゃあ、まるで、どこかのヨーロッパの植民地の裁判所みたいですよ」
広報課員は苦笑していた。そこへ達哉が聞く。
「それで、……海老根判事が墜落したのは、どのあたりですか」
「………」広報課員は突然、石のようになった。「知りません」
達哉を外へ送り出すまで、固い沈黙が続いた。
(2018.12.26追記:以下第2章7の内容を重複掲載していたので、削除しました。)
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