『煉獄のパスワード』(2-8)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第二章 花崗岩の砦 8

 音楽プロダクション〈クレセントG〉の事務所は、新宿コマ劇場のすぐ側、雑居ビルの二階にあった。

 小山田警視は疑わしい相手を訪問する際には予約の電話をしない習慣だった。いきなり現場に踏込むのが刑事事件捜査の基本だと考えていた。電話で面会を申入れれば適当な口実を設けて断わられるのが落ちだ。いやがって逃げる相手を追うのが捜査である。直撃してすぐ会えれば一番いい。会えなくても、直接足を運んだことが相手に伝われば、それだけでも充分に効果が挙がる。次のアタックに迫力が出るのだ。

 楽譜をあしらった事務所名入りのドアを開けると、受付けもカウンターもなかった。いきなりデスクが並んでいた。そこら一面に雑然と書類やテレビの音楽番組の台本などが散らかっている。十人程の男女が、電話で話していたり、なにやら書いていたり、忙しげに働いている。だれも振向かないので、一番近くにいた若い女性が受話器を置くのを待って、話し掛けた。

「弓畠さんはおられますか」

 若い女性は、半分を黄色く染めた長い髪の毛を振り上げると、直接には答えず、奥の方に向かって叫んだ。

「弓畠さん、お客さんですよ」

「どうも、こんな所で済みません」

 弓畠唯彦は小山田が差し出した名刺を見て、一瞬ギクリと固い表情を見せたが、隣の喫茶店で話をしようと丁重に誘った。

「いえいえ、こちらこそ突然お訪ねしまして……」

「この名刺はお返しして置きましょう」と唯彦は、小山田が渡した名刺をワイシャツのポケットから取り出した。「本当は、名刺は渡さないで警察手帳を見せるだけ、ということになっているんでしょ」

「良くご存知で……。一時期、かなり悪用されるケースがあったもんですから」

「わたしは、その頃駆け出しで警視庁記者クラブを担当していたんですよ。まわりに気を使って警察手帳を出されなかったんでしょ」

「はい。いえ。一寸特別の事情もありまして……」

「まあ、ともかく、有難うございます」

 小山田は戸惑っていた。予想と違って大変に人当りの良い人物であった。酔払って年嵩のタクシー運転手を脅すようなヤクザ記者と、同一人物だとは到底思えない。データと父親の職業を考え合わせて、相当に厄介な性格の相手を覚悟してきたのに、意外であった。顔写真で見た父親とは似ていない。父親は丸顔で浅黒いが、唯彦は細めの卵型で色白。いかにも上流階級らしい顔付。穏やかな物腰。猫をかぶっているのか、それともなにかの間違いではないかと、目をこすりたくなるような気分であった。どう切り出そうかと迷っていると、唯彦が、

「コーヒー……ホットでいいでしょうか」

「はい。結構です」

「ホット二つ」と注文して、「早速ですが、どういう御用件でしょうか。一寸仕事を控えていますので、前置きは要りませんから、ご遠慮なくどうぞ」

 と催促する。小山田は腹を決めて、単刀直入に本題に入った。

「念のために確めさせていただきますが、あなたは最高裁長官の弓畠耕一さんのご子息、唯彦さんに間違いありませんね」

「はい」

 と答える顔が、心なしか緊張をゆるめたようだった。〈自分のことではなかったのか〉という感じにも取れる。

「こういう所では何なのですが、何気ない振りをして話を聞いて下さい。実は、……長官が行方不明でして、今日で五日目になります」

「えっ」と声を潜めながら、「しかし、二日前に電話したばかりですが、母はそんなことは……」

「はい。しかし、奥様はもちろんご存知です。むしろ奥様から連絡がありまして、小人数で秘密裡に調査中ということです。ついては御協力をお願いしたいのですが」

「もちろんですが、……どうすればいいのですか」

「なにか心当りのことがないでしょうか。なんでも結構です。いまのところ、手掛りは中年の女性の電話があって出掛けられた、ということだけなんです。思い出せることがあったら、なんでも構いません。おっしゃって下さい」

「いやあ、弱りましたね。私はこのところ直接会ったことはないんです。いえ、会ったことだけじゃなくて、電話で話したこともないんです。恥を申すようですが、一寸……」

「立入ったことを申上げるようになりますが、一応、身上調査はさせていただきました。意味はお分りかと思いますが」

「そうですか。警察庁の全国オンラインの犯歴データベースでしょ」

「はい」

「金融機関の信用調査の方も……」

「はい。最近の特別な出費の理由も調べました」

「……犯罪の裏に金と女あり。捜査の基本ですね」

「ハハハッ……。良くご存知で……。しかし、そういう意味ではないのですが」

「別に、被疑者扱いは怪しからんなどという積りはありません。そちらで全部分っていらっしゃれば、かえって気が楽です」

 唯彦の肩がすうっと下がった。「フウッ……」と低く溜息が漏れた。やはり構えていたのだろうか。膝を組んで楽な姿勢を取ると、さらに気さくな感じになった。

「親爺とは、敬して後、自ら遠ざかるに如かず、という感じでしてね。分りますか」

〈遠ざかる〉の〈か〉に力が入っていた。〈遠ざける〉のいいかえをわざと強調しているのだ。

「分りますよ」

「ご存知の通り、私は失敗が多い人間です。完璧居士の親爺とは子供の頃から肌が合いませんでした」

「よく叱られたとか……」

「いえ、……声に出して叱るということは、ほとんどありませんでした。態度で分るのですが、それがかえって恐ろしかったですね」

「裁判官という職業もそうなんでしょうかね。私らの世界では、警官と教師の子供はぐれ易いといわれていますが。おっと失礼、ぐれるなんて申上げて」

「いえいえ、結構ですよ。危ふく前科者になる所だったんですから」

 小山田は思い切って肉迫した。自分の方も本音をさらけ出す〈口説き尋問〉は、小山田警視こと、元デカ長刑事さんの最も得意とする所だった。

「警官と教師の共通点は、むっつり助平ともいわれていましてね。職業柄、二重人格の偽善者になり易いんです。それが子供にもひびくんでしょうね」

「今風にいえば、親子関係のストレスが溜り易い職業であると、そういうことでしょうか。裁判官の場合はもっと内にこもって隠微になるのかもしれませんね。その上に、私の場合には学歴コンプレックスもあります。私は私立大学出の無資格人間ですが、親爺は昔の名前でいうと、東京帝国大学出身の司法官です。私よりは妹の方が勉強家でしてね。私が二度落ちて諦めた東大に現役で受かって、教養学部、これも学内での成績が良くないと入れない学部らしいんですがね、そこで国際関係論を専攻してから外交官試験に受かりまして……。司法試験と外交官試験はエリートの象徴ですから、私は家庭内で典型的な秀才二人から挟み打ちに合ったわけです。ハハハハッ……」

「それは大変な目に会われた。いや、こんなこといっちゃいけませんが……」といいつつ、小山田もつい笑ってしまった。「ハハハハッ、ハッハッ……」

「ところで……」と唯彦は腕時計を見た。「そんなことで、お役に立てそうもありませんが……」と腰を浮かす。

「いやいや、そうじゃないんです。最近のことでなくても、ヒントになることがあれば何でも聞かせていただきたいのです。ほれ、……先程の、金と女、その次に怨恨ですね。古い話に何か意外なヒントがあるかもしれません」

「そうですか。別に逃げるわけではありませんよ。親が行方不明とあっては、本当なら仕事も放り出して、協力どころか先頭に立たなければならない立場でしょう。そうですね……。早い方がいいでしょうから」と背広の内ポケットから手帳を取出した。馴れた手つきで素早くページをめくる。「今晩、いかがでしょうか。九時なら何とかなります」

「結構です」

「それじゃまた。九時頃に事務所をのぞいて貰えませんか。場所は私の方で考えて置きます」

 喫茶店を出てから、小山田は唯彦の後ろ姿を見送った。

 フォーマルな背広だが、当然、仕立て物であろう。ぴったりと体に合っている。歩き方もしなやかで、俳優の演技のようだった。唯彦の姿が〈クレセントG〉の事務所がある雑居ビルの階段に消えるのを見やりながら、小山田は自分自身を相手につぶやいていた。

〈なに……。演技、だと。妙な言葉が閃いたものだな。なあ、デカ長刑事さんよ〉

 新たな疑惑が小山田の頭の中をかすめた。しかし、すぐに思い直す。

〈いやいや、やはり第一勘を信じよう。なにかあるかもしれない。しかし、単純な先入観を持っちゃいかん〉


(2-9) 第二章 花崗岩の砦 9