『煉獄のパスワード』(4-1)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第四章 過去帳の女 1

 長崎一雄は目覚まし時計が鳴っているのにぼんやりと気付いた。

 ピピッ、ピピッ、ピピッというアラームの音が段々強くなり、間隔が縮まってくる。

 ただうるさいというだけの目覚まし時計ではない。長崎は大日本新聞への入社早々、前日の徹夜マージャンの疲れで寝過ごしてしまい、取材予定をすっぽかすという失敗を犯した。その手痛い教訓に懲りて買い直したのが、この強力な目覚まし時計なのである。

「なんでまた、こんなに眠いのに……」

 薄めを開けて時計の針を見る。まだ六時半である。

「なにッ」とつぶやいてから、直ぐに気付いた。

「そうか。あれだ、あれだ。スクープ、スクープ……」

 起上がって、寝間着のまま、マンションの入口の新聞受けを探る。

 外から半分だけ突っ込まれている新聞を下から引き出す。自社の大日本新聞以外に競争相手の毎朝新聞と日々新聞も取っているから、ギュウギュウに重ねて詰めこまれている。引き出すのはいつも一苦労である。集金の度に、〈折込み広告は必要ないから、せめて別にして、新聞は完全に中に落ちるまで突っこんで欲しい〉と頼むのだが、効果があるのは一、二回程度である。勤務の都合や旅行で二、三日留守をすると、ついに詰めこめなくなって、やっと注文通りに入れ直してくれるという状態だった。広告の多い土曜日や日曜日などは、無理に引き抜こうとすると破けていまう。ウィークデイは広告が少ないから楽だが、それでも一汗かく。ドサッ、とテーブルの上に投出し、先ずは大日本新聞の社会面をめくる。見出しを捜す。ところが、

「なんだ、こりゃ。おい、どういうことだ。こんな馬鹿な……」

 つい大声が出た。大日本新聞の社会面のどこを見ても、昨夜デスクに渡した奥多摩山中死体発見の見出しがない。そんな筈はないと、もう一度探すと最下段のベタ記事になっていた。見出しは単に〈奥多摩で死体発見〉の一行だけである。

 昨夜は締切りギリギリまで頑張って、顔写真がそっくりの西谷禄朗を見付け出した。しかし、昨夜の追跡はそこまでで、顔が似ているという以上に証拠は得られなかった。記事では個人名を諦めて、《背広のブランド》から《メーカー判明》《中国残留孤児の可能性》までに止めた。だが、長崎が原稿をデスクに渡してから輪転機が回るまでの間に、何かが起きたのだ。続けて朝一番で厚生省に駆付けて追跡調査をする予定だったのが、不意に誰かに足元をさらわれた気分である。カッと来て電話に手を伸ばし、社会部デスク直通のダイヤルを回し掛けたが、

〈待てよ。待て、待て。きっと誰かが俺の頭越しに原稿を差止めたんだ。四の五のいっても元には戻りっこない。慌てるな。よしっ。俺は知らんぷりして取材を続けてやる。文句があれば、いづれ誰かが何かいってくる。こちらは、それまで黙って見ていよう〉

 念のため、毎朝新聞と日々新聞の社会面も調べる。やはり同じような扱いだ。

 長崎は昨夜、警視庁記者クラブには戻らなかった。長崎の出番は午前中に終わっており、大日本新聞からは交替のクラブ詰め要員が出ていた。自分の記事が独自取材のスクープだということは、デスクにも断って置いた。だから、その後の警視庁広報課の発表は確めなかった。だが、他紙が同じことしか書いていないということは、警視庁が、死体発見という最少限の発表しかしなかったということに他ならない。

 死体発見。それも明らかに変死体で、他殺の疑いが濃いというケースである。簡単な発表でも記事にはなる。コロシは常に最上級のニュースなのである。しかしこのベタ記事は、それ以上のなにものでもなかった。簡単な発表そのままの記事内容で、長崎の原稿の特徴は全く生かされてなかった。社会面で最も広い紙面を占めていたのは、このところの注目を集めている連続殺人事件の記事だった。だが長崎の目には、取立ててその事件の捜査状況に進展があったとは見えなかった。

 

 同じ日の朝十時。秩父冴子審議官の部屋に《お庭番》チームが集まっていた。

「小山田警視の仕掛け針に、どうやら大物が引っ掛かったらしいのです。さすが小山田さんですね。最敬礼です。シャッポを脱ぎます」と冴子が最上級の賛辞を呈していた。「結論を先に申し上げると、昨日、最高裁長官の落し子と思われる中国残留孤児が死体で発見されました。では、小山田さん、ご報告をお願いします」

「いやなに、定石を踏んだまでのことで……」

 と当の小山田は余裕しゃくしゃく。一同に前回の会議以降、弓畠唯彦との会見、《中国》のキーワード、奥多摩山中の遺棄死体発見の経過を報告。ひとしきり例の小山田講談が続いた後、普通の口調に戻った。

「いくつか偶然が重なっていますが、この種の仕事にしてはトントン拍子に事が運びました。犯人が単独か複数か、全く分りません。しかし、犯人の予想を大きく上回って捜査が進んだことは、間違いないでしょう。普通なら人が踏込まないブッシュでのサバイバル・ゲームという偶然。携帯用の無線電話機。これだけでも、滅多にない条件です。そして、いわばボランティアの非番巡査と新聞記者が背広のブランド名からガイシャの身元に迫ったというエピソード付きです。お後はこちらの仕掛け針からの聞込みですが、最後が一寸面白いと思います」

 小山田は、厚生省のデータベースに疑問を抱いた理由から、西谷追跡の経過に話を進めた。神泉駅の近くの原島米穀店の話から、再び講談調が盛上がってきた。

「これまた珍しい例でして、地元の米屋の親爺が何軒かアパートを持っていて、そのついでに道楽半分に不動産屋を始めたんですね。不動産屋は閉まっているが、米屋の奥に明りを見付けて戸をたたく。かみさんが出てくる。隣の不動産部……と言うが早いか。はい、うちの主人が……という返事。

 主人こと有限会社原島米穀店の会長、兼、不動産部の社長は丁度一杯引っ掛けていた所なので、まあ上がってとなり、話好きの親爺が問わず語り。なんと、西谷はただの不動産の客に止まらず、世話好きな親爺こと地元の有力者、町内会会長の飲み仲間だったという話でした。拙者は親爺に、飲みねえ、飲みねえと、相手の酒だから遠慮なく勧める。最初は、何故西谷に酒をおごったりしたか、という話から始まります。日本語がうまくしゃべれない西谷が不憫でならなかった。それというのも親爺は昔、兵隊に取られて中国戦線に行っていた。今思えば、命令に従ったまでとはいえ、酷いことをしたもんだ。中国人の民家から食糧を徴発するわ。中国人や朝鮮人を脅かして軍夫に徴用するわ。ろくに飯も食わさずにこき使うわ。……

 中国人は食べ物に油が入ってないと元気がなくなる。朝鮮人は唐辛子がないと駄目。日本人は味噌汁と醤油。……いずれも何度か繰返した思い出話に相違ござんせん。そばではお神さんが〈とうさん、また……〉と笑っています。そしてやっとのことで、だからますます、西谷の身の上は他人事とは思えない、という所に辿り着く。

 しかも西谷の肉親捜しは聞くも涙、語るも涙。相手が分っているのに、まだ会って貰えない。実は秘密の事情も聞いていた。西谷は、自分の父親が裁判官だと早くから自分に打明けていた。いや、最高裁判所の、長官のと、ここだけの話、飲んだ上での打明け話が出るわ出るわ。名前はやたらこむずかしくて、何とか畠……」

「ふうん。いきなり金脈を掘り当てたわけですね」

 と絹川史郎特捜検事。小山田は一息入れて、

「はい、はい。金脈か、銀脈か、はたまた動脈か、静脈か。弓畠長官失踪事件そのものとの関係は、いまだ定かではなくとも、同時平行に発生した事件なれば、大いに脈があると見込んで良かろう。そこで拙者は後ろを振り向き、返す刀で切り付ける。長官の息子の唯彦が、これ幸いにも沿線の、井の頭線は永福町に住んでいる。電話で確め、これこれしかじか。西谷禄朗の名を出したところ、一瞬沈黙。ともかく駅前の喫茶店にて会うとのこと。直ちに駆け付け、何か心当りはないものか。ジロリ、ジロリと、この目付き。かねてより拙者が持ったる疑いは、この異母兄の秘密ではないか。いかが、いかがと詰め寄る内に、唯彦素直に事実を認め、……」

「コツ、コツ……」

 その時、控えの間との間のドアをノックする音が響いた。

「はい」と冴子が答えると、秘書が顔を覗かせた。

「厚生省から、お客様がお見えです」

「はい。応接室にお通しして……。皆さん、一寸待ってて下さい。朝一番に、この件の極秘資料を請求したんです。データベースに入れてなかったものがあるらしいので……」

 冴子を待つ間の退屈凌ぎに、小山田が芝居気たっぷり、わざとらしくぼやいた。

「拙者がコツコツ足で稼いだ貴重な捜査結果を、巴御前は電話一本で、手にお入れになるのかも知れませんぜ。なんともむごい世の中になったもんじゃござんせんか」

「いやいや、それもこれも、貴殿の努力の金鉱掘りの裏付けあればこそじゃ。その確信あって初めて、冴子姫がデータ寄越せの威しも冴える」

 絹川検事が小山田講談を真似た上に、〈冴子〉と〈冴える〉を掛けた駄洒落まで入れたので、一同大笑い。そこへ冴子本人がファイル片手にさっそうと戻ってきた。

「賑やかですこと。なにかまた私の悪口いってたんでしょ。でもね……大当りですわよ。小山田さんの話とピッタリ重なります。それと、……報道機関が嗅ぎ付けるといけませんから、厚生省の西谷禄朗に関するデータは全て封鎖してもらいました。それで、ええと、…お話しは、唯彦氏との会談まででしたね。続けていただけますか」

「こちとらの野暮な情報よりも、その最新のファイルの方が……と、鬼警視がしきりにひがんでいた所だったんですが、……」

 絹川特捜検事が半畳を入れた。

「御免なさいね。そんな積りじゃなかったんですけど……」

 と冴子は真顔で、いかにも申し訳なさそうに小山田にわびる。

 これにはそれまで黙って聞いていた智樹までが、プッと吹き出してしまった。

「ウッファッ、ハッハッハッハッ……。小山田さんの狸芝居に騙されてはいけませんよ。時代遅れの捜査官という三枚目の役どころを自分に振り当てて置いて、実は最新技術をチャッカリ身に付けているんですから。一体どちらが踊らされてるのか分らなくなっちゃうんですよ」

「いやはや、鬼だの狸だの三枚目だの、皆さん勝手なことを……。で、まあ、極秘ファイルも届いたようですし、簡潔に報告を終わらせましょう。ええと、……唯彦はあっさりと事実を認めました。やっぱり、西谷禄朗が死んだというニュースはショックだったんでしょう。まるで態度が変わりました。異母兄の存在は知っている。家族全員が知っている、ということでした。それを厚生省は世間に秘密にしてくれた。肉親に特別な事情がある場合には厚生省は秘密を守ることにしていますから、決して最高裁長官を特別扱いしたのでもなく、職権乱用でもありません。唯彦がいうには、弓畠耕一は世間体を非常に気にしていたとか」

「それで先刻の小山田さんの話、……西谷のデータのおかしさは、秘密の部分があったためという説明になりますか」

 と絹川検事。小山田は大きくうなずく。

「そういうことです。だけど本当に隠し切るなら、もっと上手に辻褄合せしとかないといけませんね。特に母親との関係が難しい。中国にいる西谷の母親は、当時でいえば、不義の子として西谷禄朗を生んだ。西谷禄朗はもともと、日本人としての出生届も戸籍登録もなしに、中国人に預けられ育てられた。西谷という仮の日本姓は母親の実家の姓である。禄朗も本人が自分で考えただけの名前で、日本人としての戸籍はまだ宙に浮いたままである。この経過を抜きにして、厚生省引き揚げ援護局はデータベースに西谷禄朗の日本名を入れてしまった。ここが一寸引っ掛かったんですね。ま、データがおかしくなくても、私は調べには行ったでしょうが……」


(4-2) 第四章 過去帳の女 2