電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第四章 過去帳の女 8
「はい、これ」と華枝は智樹にコピーを渡す。
二人はロシア料理店を後にした。
渋谷の街の雑踏を通り抜け、華枝のマンションに落着いたのだが、話の内容は男女の仲のムードとは程遠いままだった。
〈どこに消えたか八トンの生アヘン〉というのが『真相追及』誌の問題の記事のタイトルである。
「執筆者は匿名で、明らかに事件の関係者らしいわ」
「ハハハッ……。〈八幡太郎〉だなんて、八トンの生アヘンに引っ掛けた偽名に決まってるな」
「そうでしょ、ねッ。……これを読むとますます、判決文は重要な事実を沢山隠したままだという気がしてくるの。おかしいことばかりなのよ。そもそも、九月十五日に米軍が機帆船を臨検して八トンの生アヘンを発見したというけど、誰が通報したのかが不明でしょ。輸送責任者として積荷に同行して来たのは、関東軍の特務大尉と満州国総務庁経済部の日本人事務官。この二人は逮捕されて有罪にされているけれど、日本側で手続きをした陸軍昭和通商の舞鶴連絡事務所長なんて人は、どこかへ消えちゃって、裁判には名前も出てこないのよ。……
それに、……最初に満州の新京を出発した時には、生アヘンが十二トンあったんですって。途中で四トンを賄賂として使っているのね、なんだか怪しげでしょ。皆で寄ってたかって、奪い合っている感じよ。でもこの陸軍昭和通商って、私、まだ調べてないの。トモキならきっと知っているんじゃないかと思って、……
アヘンと関係あるんでしょ」
「知ってますよ」と智樹も華枝に調子を合せて朗読調で説明を始めた。
「陸軍昭和通商とは、一九三九年、昭和十四年に陸軍が三井物産、三菱商事、大倉商事の三社に資本金を割当てて創立した御用商社です。
最大時には六千人もの人員を擁し、軍需物資の確保と情報工作に当たりました。戦争中の密輸を主とする物資確保ですから、紙幣はほとんど役に立ちません。最初は中古品の兵器が交換物資として使われましたが、それもすぐにをつきます。当時、アヘンは見返りの工作物資として金塊にも優る貴重品で、アヘンを用いる工作を貴重薬工作と称していました。
児玉誉士夫などは昭和通商に使われていた下っ端の方です。児玉機関は、アヘンを使って重慶側からタングステンを入手したりしています。アヘンをどこから入手したかというと、日米開戦以前にはイランやインド方面からの輸入もありましたが、以後輸入はほとんど途絶。内蒙古と呼ばれていた蒙疆……」
智樹は紙ナプキンに〈蒙疆〉と書き〈もうきょう〉と仮名を振った。
「この蒙疆が唯一の輸出国、もしくは当時の言葉でいいますと、大東亜共栄圏内の域外への供給地となります。他の地域ではすべて、生産よりも消費が上回っています。ですから、この事件の関東軍の生アヘンについても、蒙疆産の可能性が高いといえますね」
「はい。ご協力有難うございました」と華枝。「では、判決文から隠されている重要事実について続けます。
和歌山地裁での陸軍昭和通商舞鶴連絡事務所長の話によると、舞鶴港への入港の際には日本国旗と陸軍貨物廠旗を掲げました。荷揚げには県警の本部長や所轄警察所長が立会い、従来の軍需物資の本土への受入れ手続き通りに行われました。平行して、軍の特務機関にも連絡を取っています。すると、米軍の隠退蔵物資摘発部隊が港の倉庫を臨検するという情報が入っているから、誤解を避けるために神戸に行けと指示されました。神戸でやっと荷受人の厚生省衛生局の事務官と会えたら、今度は、アヘンがGHQの政令に引掛かるから当分の間どこかに隠して置くように、という指示でした」
華枝は顔を寄せ、下から智樹の目をジッとのぞきこんだ。
「ねッ、おかしいでしょ。陸軍昭和通商、軍の特務機関、厚生省衛生局、みんなグルって感じがしてくるの。そしてまたまた大問題。……タイムトンネルみたいな法的構成」
「うん。それは知ってる。本職の特捜検事から説明を受けたんだ。……第一。九月二日の午後四時に舞鶴港に着いたが、すでにその日の午前十一時には東京湾のミズリー号上で重光外相が降伏書にサインしているから、通常の国内貨物移動ではなく、外国からの密輸入であると認められる。第二。事件は共同謀議により八月十五日以前に発生しているので、旧刑法の適用が順当である。旧刑法だと、証拠の現物がなくても有罪にできる……」
「そうなのよ。そこがこの事件最大の謎のカギなのよ。つまり、証拠の現物は法廷に現れなかった。……ミステリーなのよ。……さてさて、八トンの生アヘンはどこへ消えたか」
華枝の笑顔は総天然色に輝き、ますますいたずらっぽさを増した。
「確かにミステリーだねえ」
と智樹も華枝から渡された雑誌記事のコピーをめくる。すでに忘れ掛けた昔の難しい漢字が沢山出てくるし、活字は小さく、印刷はかすれていて、とても読みにくい。
「いいですか。では、しっかり腰をすえて聞いて下さいよ」
と華枝が意気ごむ。
「検察側が旧刑法の適用にこだわった理由は、まさに、問題の八トンもの生アヘンの行方そのものと関係があります。……紀伊水道で機帆船を拿捕した米軍は、積荷を和歌山港で荷揚げし、トラック三台に乗せて東京のGHQ本部に送りました。各トラックには日本人運転手と完全武装で護衛に当たるMP各二名が乗込みました。GHQ本部には電話連絡で到着予定時間を知らせてありました。ところが予定の時刻を大幅に過ぎてもトラックが到着しないので、GHQ本部が捜索隊を出すと、空のトラック三台が箱根山中の道端に乗捨てられた状態で発見され、積荷と一緒に計三名の日本人運転手と計六名の米軍MPが姿を消していました。……
いいかしら。生アヘンが八トン、トラックが三台、人間が合計で九名よ。内六名は完全武装のMPなのよ。それが忽然と姿を消したのよ」
「いやいや。これは一寸凄味のあるミステリーになってきたぞ。ギャング映画みたいだね」
「そうなの。しかも、そういうことが判決文には全く書かれてなかったのよ」
「判決文には本来、双方の主張の要旨を書かなければならないことになっているんだよ。この場合は検事側と被告側の双方の主張だ。その上で裁判官が判断を下すわけなんだけど。まあ、今でも時々、かなり大事な事実を抜かした粗雑な判決があるからね」
「でも、この判決は粗雑以上よ。悪質なのよ。だって、なぜ無理やりに旧刑法を適用したのかしら、ねッ。この記事が正しいとすると、弁護側はその点を法廷で追及しているのよ。……ほら、ここ」
と華枝はコピーのその部分を指差す。
「裁判の当時に成立していた新刑法によると、麻薬の売買を立証するためには、検事側が法廷に物的証拠である麻薬そのものを提出しなければなりません。ところが旧刑法によれば、麻薬に触れたか、存在を知りながら直ちに届けなかっただけで、隠匿の意思ありとして犯罪行為が成立しました。特に、本人の自白があれば充分です。……
ねッ、最近、昔の冤罪事件の再審査で自白の証拠価値が問われているけど、その問題もあるでしょ。旧刑法では自白は証拠の王様よ。この事件の関係者たちは逃げも隠れもせず、アヘンの運搬という事実をはっきり認めているんだから、自白を強要する必要すらなかったのよ。それで、任意の供述だけで有罪にされちゃったの。証拠のアヘンが行方不明なのに、よ」
「なるほど。GHQは自分達の失態を棚に上げて、関係者を強引に有罪にした……」と智樹がつぶやく。「しかし、何が目的だったんだ。どうせ生アヘンはなくなってしまったんだろ」
「そうなのよ。そこが問題なのよ」と華枝。「果してGHQの失態だったのか。裏はなかったのか。……どうやら、裁判の目的は最初から決っていたようなのね。関係者の口封じが狙いじゃなかったのかしら」
「しばらく牢屋にぶちこんで置く。その間に生アヘンを始末する。そういうことかな」
華枝は茶封筒から大事そうに新聞記事のコピーを出した。
「これが最初に予告した秘密。……誰がアメリカ軍に生アヘンのことを知らせたか、なのよ。……
ねえ、トモキ。敗戦前後の新聞って、半ペラの裏表二ページだけだったのね。私、ビックリしちゃったわ。私、マスコミの事件報道にも関心を持ってるんだけど、この事件では最初に、毎朝新聞の地方版が最初にスクープを放ってるのね。だから、国会図書館で地方版のマイクロフィルムからコピーしてきたわ。この記事の通りだとすると、記者が偶然、和歌山港の酒場で船員から積荷の秘密を聞き出したという筋書きなの。ところが、新聞も放送も、当時はまだ民間放送もテレビもなくてNHKのラジオだけだけど、それっきりで、ウンともスンともいわなくなった。毎朝新聞も地方版の特種の第一報止まりのまま沈黙を守ってるの。それで、……
これはGHQからの圧力の結果ではないか、というのが雑誌記事の方の推測なのね。当時は全ての報道がGHQの検閲下にあったんでしょ。だから実際上、それ以外には考えられないわね。逮捕、起訴、裁判、判決、どれを取っても充分なニュース種でしょ。でも、マスコミだけでなく、当時の左翼政党はアメリカ軍を解放軍だと規定していたから、左翼政党の機関紙もGHQ批判は書かなかった。この『真相追及』みたいに、ゲリラ的に発行される小雑誌だけが例外だったわけなのね」
「事実上の真相抹殺か」
とつぶやく智樹はまたまた内心、《お庭番》チームの任務を思い出さざるをえない。
「その通りでしょ。問題は真相抹殺の目的、動機なのよね」
華枝は、雑誌記事のコピーに引いた赤線を指でたどりながら、さらに朗読調で続ける。
「この雑誌記事の筆者は、報道統制や裁判の起訴状と判決の目的は一体全体GHQの失態隠しなのか、それとも更に裏があるのかという疑問を投げ掛けています。おかしな点が多いのです。先ず生アヘンが消えた経過を振り返ってみます。
一番単純な説明は、護衛に当たった六名のMPの出来心です。それぞれが完全武装でした。争った痕跡は何一つないという報告ですから、共謀が成立したと考えなければなりません。三名の日本人運転手は脅かされれば彼等のいいなりだったでしょう。しかし、八トンもの生アヘンの積荷、……トラック三台分ですよ、これをどうやって運んだのか。まず積荷を移し換えるために、別のトラック三台もしくはジープなど数台が必要です。ギャング映画でも最初に車を盗んだり、運転手を仲間に入れたり、準備の手間が大変でしょ。それを、出来心の兵隊六名だけで手早く手配出来たでしょうか。倉庫も必要です。足が付かないように売りさばくのは更に難しいでしょ。プロ中のプロの仕事ですよ。組織のバックがあったのではないでしょうか。物凄い大物の黒幕がいたのではないでしょうか」
「意義なし。その通りだと思います」
「プロの賛同を得られるとは心強いですね。では、もうひとつ。毎朝新聞のスクープ記事についてですが、これがまた奇怪なんです。雑誌記事の執筆者は毎朝新聞のスクープ記者の足取りを洗っています。記者の名前は江口克巳。当時は東京本社の政治部国会班所属。事件直後に退社して憲政党の新人候補、下浜安司の秘書となる」
「えっ、江口克巳は現在の通産大臣、下浜安司は前の首相の……」
「はい。下浜安司は元内務官僚。戦争中に一時、厚生省の衛生局に出ていたこともあります。厚生省は内務省から分れた傍系官庁だったんですね。
戦後初の総選挙に大型新人の下浜安司という売出しで出馬。これからは政党政治の時代だと明言し、率先、前途有為の職を投げうった、というデビューが華々しく報道されました。当時の内務省は諸官庁の上に立つ官庁です。内務官僚はエリート官僚の典型ですからね。下浜安司は敗戦直後に内務省の中心の行政局にいました。当選後には、莫大な選挙資金をめぐって様々な疑惑がささやかれたものです。総理を辞めて以後の今も、大型汚職の度に必ず名前が挙がる政界の黒幕ですね。……
さあ、どうかしら。毎朝新聞東京本社政治部の敏腕国会記者、江口克巳が、なぜ和歌山の港の酒場にまで潜りこんで、ちっぽけな機帆船の船員から垂れ込み取材をしたのでしょうか。事前に下浜安司あたりと連絡があったのではないでしょうか」
「ウーム。その点は、あちらでも問題になっていたんだよ。判決文を見ただけでも、どうやら生アヘンの現物を検察側が押えていないらしいからね。それで、事件の背後にはなんらかの日本側の組織があって、アメリカ軍と通じて生アヘンを奪わせたのではないか、という意見が出ていた。それが、今日のハナエが発掘した資料を見ると、ますます本当らしく思えてくるね」
「でしょ。私、国会図書館でこの新聞のコピーを取ったついでに、その前後の事件報道の三面記事もザアッとのぞいてみたのよ。そうしたら、あった、あった、なのよ。あれはもう、陸軍やら海軍やらの隠退蔵物資の争奪戦だわ。アメリカ軍が日銀の本店で金塊や貴金属や宝石の山を押収するし、覆面をかぶった旧日本軍のトラック部隊っていうのが暗躍しているし、まさに百鬼夜行の時代なのね。だから、私の想像だとこうなるの。
ねッ。……まず、生アヘンが八トンも運ばれてくるという情報を知っている日本の有力者グループがいる。しかし、公式ルートで受取ったら、それはすぐにGHQに押収されてしまう。だから隠して時期を待とう、ということになる。そこで、お定まりの仲間割れが起きる。片方が考えたのは、アメリカ側の一部と組んで横取りすること。……
それには後々のため、仲間の裏切りではないという偽装を施す必要があった。都合が良いのは誰か第三の無関係な人物がいて、アメリカ軍に生アヘン輸送の事実を知らせるという筋書きにすることだ。そのためにえらばれたのが新聞記者だった。ねッ。色々考えてたら、もう私、ワク、ワク、しちゃったわ」
「アハハハハッ……。ワク、ワク、か。あの暗闇の時代も、華枝の手に掛ったら簡単にドタバタ喜劇にされちゃうな。ハハハッ……」
「ウフフフフッ……」
話し疲れてワインを飲み直したあとは、また、カーマスートラの授業の続きだった。
新しく覚えたサンスクリット語は、……
「……グダッハカ……秘めやかな歯型……」
「……カルカータ……蟹の型……」
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