『煉獄のパスワード』(4-3)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第四章 過去帳の女 3

 一同思わずポカンと口を開けて待ち受ける。

 絹川特捜検事はおもむろに口を開いた。

「先に断って置きたいのですが、実は私すでに、陣谷さんに呼び出されました」

 一同の顔がさっと引締まった。

 陣谷の現職は弁護士であるが、元は最高検次長だった。現役時代にはこの種の特殊な政治的問題に関して、総長をしのぐ実権を握り続けていた。絹川にとっては、東京地検特捜部の大先輩である。

 東京地検特捜部の前身は、戦後に設置された隠退蔵事件捜査部であるが、陣谷は、その発足以来の検事で実務派のベテランであった。定年後に弁護士となったが、当然、その種事件に関しては勘も鋭いし、各分野に特殊な人脈を持っている。法曹界と政財界をつなぐ黒幕としても名高い人物である。

 だが、陣谷の影響力の秘密は裏舞台だけのものではない。日本弁護士連合会、略称〈日弁連〉では副会長で、現在のところは常に少数派の落選会長候補であるが、その少数派がくせものだった。

 東京には地方弁護士会が三つある。

 老舗の東京弁護士会、そこから分裂した第一弁護士会と第二弁護士会である。

 その内、第一弁護士会は右派分裂で、裁判官や検察官のOBの比重が一番高い。司法資格を持つ裁判官や検察官は、定年や途中退職ののち、ほとんどが弁護士に転業する。弁護士は弁護士会への加入が義務付けられており、弁護士会への入会から、さらにはお得意の確保まで、先輩の引きによることが多い。勢い、第一弁護士会は、現役の裁判官や検事に対しても強い影響力を持つことになる。陣谷は、その第一弁護士会の会長として、日本弁護士連合会でも最右翼勢力を代表しているのである。

「さてと、……先程申上げたアヘン密輸事件のマイクロフィッシュを、日弁連から長期にわたって借り出していたのは、陣谷弁護士の事務所の事務長でした」

「まあ。それで、検察庁の方のコピーはどなたが、……」と冴子が乗出す。

「それは後程のお楽しみに」と絹川は気を持たせる。「で、……私と陣谷さんとの話は、皆さんにも内密にしてくれという段階の極秘事項です。つまり、先頃の防衛庁の機密漏れの時と同じですね。別のハイレベルの人脈が動いているのです。動いているといっても、ご存知のように彼らが何か具体的な仕事をするわけではありません。むしろ、何か都合の悪い機密に触れる場合に、現場の捜査にストップを掛けるための組織です。だから、あの時と同じように、これからは、単にここだけの話ではなく、私個人がチームの皆さんを個人的に信頼しての話になります。……

 ここでも聞かなかったという話ですよ。よろしいですね」

 一同は固い顔でうなずいた。

 だが、誰も驚いてはいない。いずれ来るべきものが来ただけのことである。相手の力量も承知している。彼らは権力を握ってはいるが、実務的に動く手足は公安調査庁や公安警察のお粗末な連中しかいない。だから、おおどころの動きさえ押えて、こちらが注意を払っていれば危険はない。《お庭番》チームには、自分達の方が絶対に主流だという自負があった。

「話のきっかけは、最高裁の図書館に風見さんが行かれた件です。風見さんと影森さんの関係については陣谷さんもご存知です。それで、あれは君らのチームが依頼した仕事か、という質問がありました。私は、一般的に最高裁に関する調査を依頼しただけだろうと答えて置きました。それでよろしいですね、影森さん」

「はい。結構です」

「その次は、今申上げた事件の資料を私が請求した件です。あの判例が今度の一件と関係があるのか、という質問がありました。そして、慎重にという要請でした。この件については外部への依頼は避けて欲しい、ともいわれました。私は、陣谷さんの動きが予想以上に早いと思います。情報ルートは当然検察関係ですから、その背景に私は、海老根判事の死因も関係していると睨んでいます。しかし、これは置きましょう」

「やはり、……自殺じゃないんですか」と冴子。

「はい。大いに疑わしい、ということですが……。でも、それは今の検察庁の立場の問題であって、私らの本来の任務とは別でしょう。私らが考慮しなければならない問題はむしろ、最高裁の正面ホールで海老根判事が怪死した事件の原因が、先程申し上げたアヘン密輸事件の判例調査にあったのではないか、ということです」

「はい。分りました」と冴子。「つまり、他殺だとしても、誰が犯人かはここでは問わない、……」

「まあ、自ずと明らかになるでしょうがね」と絹川の口調は慎重である。「それよりまず、この事件そのものを知っていただく必要があると思いますね。小山田さんのようには調子良くいきませんが、なんとか要約してみましょう」

 といいつつ絹川は茶封筒からコピーの束を取り出し、一同に配った。

「これは判決文のマイクロフィッシュを拡大したものです」

 絹川はおもむろに説明を始めた。

「最初の主文はご覧の通りの有罪判決です。事件の事実経過の認定を要約しますと、……

 一九四五年九月十五日の午前十時、米軍が和歌山港から出港した三十トン積みの機帆船を臨検したところ、八トンの生アヘンの積荷が発見された。船長が提出した航海日誌によると、同機帆船は朝鮮の釜山で同積荷を積込み、舞鶴に到着。九月二日午後四時にいったん荷揚げをした後、再び同積荷を積込んで出港。神戸、大阪、和歌山の各港を回わり、徳島県の漁港、小松島港に向かう所であった。書類では、生アヘンの出荷人は関東軍で、荷受人は厚生省衛生局になっていたが、関東軍はすでに九月五日に山田総司令官以下がソ連に抑留されて壊滅している。関係者らは上司の命令に従ったまでだと無罪を主張したが、判決では検事の起訴状通り、全員を麻薬密輸入の罪名で有罪とした。最高三年の懲役などの実刑。立会いの警察官も一部に実刑。係者は全員控訴を断念し、判決は確定した。……

 結局、占領下ですよ。GHQ相手じゃ万に一つも逆転の可能性はありませんからね」

「大変厳しい判決ですね。その判決を下したのが弓畠耕一判事だったと……」と冴子。

「はい。それも、ほとんど一字一句違わず、検事の起訴状通りの判決ですね。戦後の冤罪事件には、やはり検事の起訴状通りの判決が多いんですが、その場合、起訴状の元になっているのは捜査に当った警察官の捜査報告書や調書ですね。ところが、この事件では警察官も被疑者ですから、そこが違います。米軍のMPの報告書が下敷きになっていると考えられます。しかも事実認定以外に、大変奇抜な法的構成がなされています」

 絹川はコピーをパラパラとめくった。一同の目が再び集中する。ところどころに赤線が引いてあり、欄外になにやらビッシリと書きこみがしてある。

「第一は、何故密輸入かという点です。積荷が最初に舞鶴に荷揚げされたのは九月二日午後四時であるが、その日の午前十一時に東京湾のミズリー号上で重光外相が降伏書にサインをした。よって、同荷揚げの時点では日本国は朝鮮の統治権を失っており、同荷揚げは通常の国内貨物移動ではなく、外国からの密輸入であると認められる」

「うわあっ……、物凄い論理だわ。まさに歴史の狭間の事件ね」と興奮ぎみの冴子。

「第二は、旧刑法の適用です。事件は共同謀議により八月十五日以前に発生しているので、本件の処断に当っては旧刑法の適用が順当である」

「えっ……。それじゃ、第一と矛盾するじゃありませんか。SFのタイム・パラドックスそこのけですよ。でも、何で旧刑法にこだわったんですか」と智樹が首をひねる。

「旧刑法だと、麻薬の実物を証拠として法廷に提出しなくても、所持し運搬したという自白だけで有罪にできたんです。つまり、生アヘンの現物は米軍が押えたままで法廷に出さず、無理やりに有罪にする方針ですね」

「うん。これは強烈に匂いますね」と小山田。

「アヘンの匂いですか。政治利権の匂いですか」と智樹。

「ええ。そういう匂いもしますが、ただの利権というよりも謀略の匂いですね」と小山田はギョロリと目をむく。「第一に、その生アヘンがなぜ米軍に発見されたか。第二に、その生アヘンの行方はどこか。背後にはきっと、何らかの日本側の組織とGHQの一部の繋がりがある。軍の特務機関なんかが一番臭いですね。戦犯パージの脅し以前にもGHQべったりになっていた高級将校がゴロゴロいたんでしょ。……情報をつかんだ一味がひと芝居打って、アメリカ側にアヘンを奪わせたのではないか。例のマーカット資金だかM資金だか、そんな噂の時代でしょ」

「失礼」と冴子が質す。「先程、厚生省衛生局が出てきましたけど、これはアヘンの所轄官庁ということですね」

 絹川がまた智樹の顔を見る。

「はい」と智樹。「今でもアヘンGメンは厚生省の仕事でしょ。アヘンとそれから精製されるモルヒネ、ヘロインなどは医薬品ですからね。しかし、歴史的にはなかなかの曰く因縁があります。日本のアヘン政策の始まりは台湾からですが、その時に漸禁政策を提唱したのが後藤新平です。

 後藤新平は医者の出身で内務省衛生局に入り局長、以後、台湾民政長官、初代満鉄総裁、外務・逓信・内務各大臣、東京市長、初代東京放送局理事長という華々しい経歴の持主です。渾名が大風呂敷。いまでいうアイデアマンとして知られていますが、台湾に始まるアヘン漸禁政策もその一つです。

 当時も日本国内ではアヘン厳禁政策でした。国際的にもそうでした。それを、重症患者の治療と反乱の防止を理由にして、台湾では漸禁政策と専売政策にしたのです。実際には漸禁の名の下にアヘン吸飲者をほとんど野放しにして、専売で巨利を博していたようです。この政策を総称してアヘン政策と呼んでいました。日本国内でも内務省衛生局の許可の下に、ケシの栽培が奨励されました。このアヘン政策が、台湾から満州へ、蒙疆へ、大東亜共栄圏全体へと広がったわけです。最後にはアヘン販売の収益をいかにして増やすか、という本音丸出しの政策になります」

「相手は植民地人というのがあったのでしょうね」と冴子。

「残念ながら、そういうことです」と智樹。

「日本の膨脹政策の中でも最もダーティーな部分ですね」と絹川。

「それで、その八トンの生アヘンというのは、どれくらいのお値段なんですか」と冴子。「うむ。やはり女性の観察の鋭さ、ですかな」と絹川がいかにも嬉しそうに微笑む。「実は、そのご質問を予期しまして一応調べたのですが、数字の桁が違い過ぎるんで困ってしまいました。敗戦直後の隠退蔵事件捜査部の記録に基づいて計算すると、末端価格が一兆円にもなるんですが、これは大き過ぎると思いますね。一般会計の決算でいうと、敗戦の翌年の一九四六年、昭和二一年が一千百五十二億円。一九四七年が二千五十八億円です。いくら未曾有のインフレ時代だったとはいえ、日本の国家財政より一桁大きい数字というのはね、一寸信じがたいでしょ」

「いずれにしても大変なお値段ですこと。とても私には手が出ませんわ。オホホホホッ……」

「麻薬ほど末端価格がはね上がるものはありませんよ」と智樹。「当時は中国の国共内戦を控えていましたからね。アヘンは中国で国府軍が地方軍閥を味方につけるために使われたかもしれません。そのためならば、国府軍を後押ししていたアメリカ側は金に糸目を付けずに買い漁ったでしょう。戦後のアメリカの財力は今の借金だらけの状態とは大違いですからね。世界中の金塊を独り占めにしていたわけでしょ。そういう財力にまかせて麻薬まで使った対アジア政策のどん詰まりがヴェトナムで、最近では自分の国が麻薬漬けになってしまいました」

「でも、問題はそれがどこに消えたのかですわね」と冴子がこだわる。

「ともかく、八トンの生アヘンが想像を絶する巨額な資金源だったことは確かですね」

 と絹川が話を引き戻す。まだまだ一同を驚かす材料を握っている風情である。

「これは奪い合いになっても不思議ではありませんよ。内務官僚以外に、軍の特務機関の動きもあって当然です。そもそもは関東軍の荷物ですからね。……そして、当時の司法省にも元陸軍法務官がお里帰りしていました。なぜか丁度都合良く当時、和歌山地裁にいた裁判官の弓畠耕一。そして、本日の超々極秘の裏話の最後に、……」

 と絹川がお馴染みの細い右手をくねらせた。

「問題の当時の事件を担当し、SFそこのけの奇想天外な起訴状を作成した和歌山地検検事、そして現在は、……先程問題になった検察庁のマイクロフィッシュを借り出したままの人物ですが、……皆さん良くご存知の方なんです」

 一同固唾を飲む。

「先の検事総長、先の法務大臣、現憲政党幹事長……」

「まさか、……」と冴子が喉を詰まらせる。「清倉誠吾さんが……」

「……」絹川はまず黙ってうなずいてから続ける。

「しかも、この二人の元陸軍法務官が和歌山に配転されたのは、事件が起きた後のことなんです」

 そして、右手の人差し指でゆっくりと一同を掃射しながら、重々しくつぶやいた。

「はい。ですから、かなり危険な人脈に接近しているわけですぞ、各々方」

「でも」と最後に冴子がつぶやいた。

「なぜそんな事件に海老根判事が興味を抱いたのかしら」


(4-4) 第四章 過去帳の女 4