電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第四章 過去帳の女 2
小山田警視は自分でいった〈簡潔に〉という言葉通り、報告を端折りに端折った。
だが、西谷の肉親をめぐる事情は、そうそう簡単な説明で済むものではなかった。
「小山田さん、不義の子だか何だか知りませんが、もっと詳しく説明して貰わないことには、前後の事情が全く飲み込めませんよ」
と絹川史郎特捜検事がいい出し、一同ガヤガヤ。
だが小山田は少しも慌てない。言葉とは裏腹に、実は何かまだ隠している様子で、悠然と部屋の隅を見やる。そこでは、複写機を使って秩父冴子審議官が先刻の資料をコピーをしていた。皆の話を聞きながらの作業だが、冴子もこういう。
「一寸待って下さい。こちらの方が簡単ですから、最初にこれを見て説明していただいた方が手っ取早いと思います」
素早く数枚のコピーをセットして、一同に配る。
「引き揚げ援護局が西谷さんの肉親関係を確認した報告書です」
「はい。はい。こういう事です」
と小山田はコピーをめくりながら身を乗出して胸を張り、素早く要約する。
「劉玉貴こと西谷祿朗の主張に基づいて、援護局は弓畠耕一最高裁長官と連絡を取り、極秘裡に事情聴取及び血液検査を行った。その結果、両者の親子関係が確認された。一方、西谷の母親だという西谷奈美は満州で嫁ぎ先の北園家から離縁されたため、戸籍を父親の西谷の元に戻したが、その後行方不明として五年後に死亡届けが受理されている。劉玉貴が日本人であると確認された以上、本人が希望すれば日本国籍を与えなければならない。ところが、弓畠耕一は入籍を認めない。劉玉貴は母親の西谷姓を希望する。だが、いったん死亡とされた母親の西谷奈美が中国で生きているとなると、手続き上は、こちらの確認と戸籍回復、中国への帰化などの処理を先にしなければならないので、目下、中国当局と折衝中である」
小山田は、そこでコピーから目を離し、自分の口頭報告に戻った。
「大筋はこういうことですが、この他にも何人か重要な関係者がいます。先ず、中国名王文林こと千歳弥輔です。弓畠夫人も長男の唯彦も最初はしらを切っていたわけですから、あの家族の話を丸々信用するのはどうかと思いますが、……ともかく弓畠唯彦の話では、彼が最初に西谷の存在を知ったのは、訪日調査団の中国側の世話役である王文林の口からです。王文林は高知にいた唯彦に電話をしてきました。王の日本語があまりに流暢なので、唯彦がそういうと、実は元日本人で戦争中に八路軍に身を投じた元日本軍兵士だったという」
「へえっ。そいつは驚きですね」と智樹。
「あら。そんなことはこの資料には全く書いてないわ」と冴子が賞賛顔。
「うむっ。これで一本。勝負あった。小山田警視の聞込み捜査の勝ち。引き揚げ援護局資料の負け」
と絹川特捜検事がおどける。
「有難うございます」と小山田は続ける。「おそらく引き揚げ援護局は王の動きを掴んでいなかったと思いますよ。水面下の動きですからね。それで、……
王こと元日本人千歳弥輔のいうことには、劉玉貴の父親が弓畠耕一であると確信するに至ったが、弓畠耕一は本人に会おうとしないし、極秘の協力にも応じようとしない。厚生省は限界を感じたといっている。しかし自分としては、日本の最高裁長官ともあろう方の対応にいささか怒りを覚えているので、独断でお願いする。貴方の家族にとっては迷惑な話で悲劇かも知れないが、劉玉貴とその母親にとっては更に残酷な悲劇だったのだ。貴方も報道機関で働く人なのだから、ことの重大さは分るだろう。腹違いの兄さんのために協力して欲しい、と。……
そこまでいわれた唯彦は、急遽上京して、先ず母親と相談した。海外勤務の妹にも了解を求めた。その上で、父親の弓畠耕一本人に迫った。家族は事実をあるがままに受止める。万一の場合、世間に知れても仕方ないと家族は覚悟している。だから、家族に迷惑を掛けたくないという理由は既になくなっている。極秘の協力には応じてくれ。腹違いの兄を日本人として認知してやってくれ。これで弓畠耕一は渋々ながら極秘の協力に応じた。しかし、いまだに、劉玉貴本人に会おうとはしない」
「ふむっ。なんだか匂ってきたな」と絹川。
「そうなんです。私もこのへんの筋が臭いとにらんでます」と小山田は続ける。「しかも、まだまだ興味深い関係者がいるんです。劉玉貴の父親捜しには、訪日以前から日本側に協力者がいまして、それがなんと、劉玉貴の異父兄、種違いの兄、つまり西谷奈美が正式の結婚で生んだ最初の子供だというんです。名前は北園和久といいます。ただし、唯彦に最初に電話してきて王文林への協力を頼んだのは、その奥さんの北園亜登美さんだったというんですね」
「あらっ女性なの。もしかして例の、長官が失踪する直前の電話の主じゃないかしら」
と冴子が興奮する。
「その可能性は高いですね」と小山田。「弓畠耕一は世間体を気にしている。秘密を握る女性からの呼び出しには応じざるを得ない、といった所でしょうか。……
さて、そうなると、王文林と北園和久をつなぐ線は何か、ということです。西谷奈美の離婚と、実の息子の北園和久と離ればなれになった経過については、まだよく分りません。しかし、何といっても親子ですからね。この線のつながりは一番濃いでしょう。西谷奈美は日本に帰った息子の北園和久のその後の居所も知っていたのでしょう。
そうすると、王文林は訪日以前に劉玉貴だけでなく母親の西谷奈美、中国名は孫淑仙ですが、彼女と会っている。そして北園和久の存在を知り、連絡を取ったと考えられます。ですから、母親がいて身元が分っている劉玉貴が訪日調査団に加わったという事情の裏には、王文林も一役買っているのではないでしょうか」
「なるほど、なるほど。西谷禄朗の身辺は、いよいよわけありですね」
絹川がしきりに細い首を振り立てる。
「以上が、弓畠唯彦の話の要約です。唯彦は大学ノートを持って来ました。横から覗いただけですが、かなり詳しく書いてあるようでした。やはり報道記者だっただけのことはありますね」
と小山田が話を締めくくった。冴子がねぎらう。
「大変なご報告でしたね。さすがです。それで、と……これだけの関係者がいるとなると、まだまだ複雑な背景がありそうですね」
しばしの沈黙。それを破って、智樹が「よろしいですか。私も若干、聞きこみ捜査をいたしました」
「あらっ。一寸意味深な前置きですわね。聞きこみ捜査とは」
「ハハハッ……。それほどのことではありませんが、ともかく、ヒミコに聞いても分らないものですから、椅子に座ったままでは仕方ないので、……はい。ええと、……弓畠耕一の軍歴を調べに、防衛庁の資料室まで行って参りました。幸いなことに、旧軍の人事資料についてはコンピュータ化の方針が昨年から出ていまして、既に打込みが終わり、外部に公開する前のチェック作業中でした。
弓畠耕一は、日米開戦の年の一九四一年、昭和一六年に幹部候補生、見習小尉の法務官として満州で関東軍に入隊。満州ではハルビンに一年程いました。その後、熱河省、次いでチャハル省に派遣されて、敗戦まで張家口の司令部勤務です。
張家口はチャハル省の省都で、地図でいうと北京の北東の方角です。ところが、この熱河省とかチャハル省とかは大変な場所なんですね。熱河省の占領は一九三三年の国際連盟脱退と同時。チャハル省は一九三七年の盧溝橋事件と同時。ともに関東軍が満州に続いて、軍中央の制止を振り切って占領した地帯です。熱河作戦、チャハル作戦と呼ばれていますが、両者ともに主な狙いは現地のアヘンを押えることにあったといわれています。
〈アヘンのマーケットを握ったものが中国を制する〉というのが当時の日本軍の高級参謀の認識でした。アヘンは地方軍閥などとの取り引きにも使われたんですね。チャハル作戦では異例なことに、関東軍参謀長であった東条英機中将が、特別編成のチャハル派遣兵団の兵団長として指揮に当たりました。現地には蒙古人を中心としたいくつかの傀儡政権が樹立されていますが、張家口に蒙堯連合委員会が置かれたので、蒙堯政権と通称されています」
「もうきょう……ですか」と冴子。
智樹は黙って資料コピーの余白に〈蒙疆〉と書く。
「蒙古の蒙に、新疆の疆ですね」と冴子。
「ええ。大体でいうと、内蒙古といわれている地域です。蒙堯政権は歴史的には第二の満州国という位置付けになっていますが、今の日本の教科書には全く載っていません。いわゆる大東亜戦争の秘史の中でも一番知られていない真暗闇の部分ですね。日本は汪・周仏海会談で、蒙疆地域には高度の〈防共〉の必要性があるからという理由を付けて〈自治〉を認めさせました。当時の中国で〈自治〉というのは日本軍の軍政下と考えて差支えありませんね。
ところが〈防共〉の名に隠れていた本音の狙いは、蒙疆一帯のケシ栽培を押えることでした。日本軍の占領下で、蒙疆では従来を上回る大規模なケシ栽培、アヘンの増産が行われ、いわゆる大東亜共栄圏全体に対して供給されました。大体は陸軍の特務機関を中心とする謀略的な仕事ですが、日本政府は興亜院という中央機関まで設置して利害の調整に当りました。興亜院は一応、すべての産業分野の調整を任務としていますが、実際には、アヘンが中心だったようです。蒙疆政権の首都に当る張家口には興亜院の蒙疆連絡部が置かれていました。張家口は、いわばアヘン謀略の中心地ですよ。抗日ゲリラの活動も盛んでした。
しかし、こういう怪しげな占領地での陸軍法務官の任務というのは、一体どういう種類の仕事だったのでしょうかね。まだまだ明らかにされていない問題が沢山あるようですよ」
またもや、しばしの沈黙であった。なんといっても半世紀も前の話である。いさいさか気が遠くなるのも無理はない。現在の事件とどう関係するのか、まるで見当も付かない。ところが、
「アヘン……ね。うふん」と今度は絹川特捜検事が突然の咳払いで沈黙を破った。「もしかすると、その線があるのかもしれませんぞ」
「えっ。なんですか、その、……アヘンの線というのは」
冴子がびっくりした声を出した。
「はい。前回の打合わせで、最高裁の正面ホールで飛び下り自殺したという高裁判事の件があったでしょ。図書館員の態度がおかしかったと、……。それで私は、あの海老根判事が図書館でなんらかの事件を調べていたという想定をして、内々に探ってみました。最高裁の警備課長が昔馴染みの元刑事ですので、使用済みの閲覧請求カードの束をこっそり持ち出して貰ったんです」
絹川は一同の顔を見回し、再び、おもむろに咳払いをした。
「海老根判事は死亡したその日に、ある事件の判決文の閲覧を請求していました。最高裁には主要な事件の判決文をマイクロフィッシュに縮小したものがあるんですが、事件番号を見ると、敗戦直後に和歌山地裁で扱われた事件です。そこで私がそのマイクロフィッシュを請求してみると、弓畠耕一の名前で数年前から貸し出されたままになっていました。これはおかしいと思って、検察庁のマイクロフィッシュを捜しました。同じコピーが検察庁と日弁連(日本弁護士連合会)にも備えてあるんです。しかし、検察庁のコピーも、さらには日弁連のコピーも長期貸し出し中でした。最後の手段は出版元の法曹協会です。さすがに出版元のコピーは無事でした。……和歌山地裁の事件は、戦後のアヘン密輸入に関するものでした。特に問題があるのは、裁判長が弓畠耕一その人だったことです」
「えっ……。和歌山地裁で、弓畠耕一裁判長ですか」と小山田。
「はい。先程の小山田さんのご報告の中にも、和歌山がありましたね。大阪にいた頃、弓畠家を訪問した和歌山の検察庁の誰か、そして、アメリカ人らしい白人……」
絹川の細い右手が宙をくねり始めた。一同の目はすでにお馴染みの右手の動きを根元まで辿ると、絹川のへの字に結んだ唇に集中していった。
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