『煉獄のパスワード』(4-4)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第四章 過去帳の女 4

「私は悪い女です」

 奈美はそう言って、さめざめと泣いた。

「和久さんにも禄朗さんにも、母親がいない不幸を背負わせたまま、何もしてやれなかったんですから。それもみんな、私が愚かで、過ちを犯したせいなのです」

 久し振りに日本語を話すせいであろう。言葉を探しながら覚つかな気にゆっくりと発音するために、なおさら深い悔恨の思いが感じられた。

 塩見達哉は、智樹の頼みでハルビンに飛んだ。事前に法務省の秩父冴子審議官が厚生省引き揚げ援護局を通じて中国の関係当局と交渉し、すべての手配をしてくれた。西谷奈美、中国名で李淑琴の所在を確め、連絡を付けてあったので、達哉は旅程で迷う事もなく直ぐに会うことができた。

 奈美は、ハルビン市内で夫の李英財と共に薬局を営んでいた。薬局までは日本語の分るホテルの服務員が案内してくれたが、この夫妻は日本語が上手だから心配ないといって、二人に達哉を紹介するなり立去った。

 薬局の入口の横に、薬の調合を待つ客用の作り付けの木製のベンチがあった。直角のベンチの両側に座って夫妻と斜めに向合いながら、達哉は禄朗の不慮の死を告げた。先ずは驚きと悲しみの叫び、号泣であった。夫の李英財も貰い泣きしながら奈美の両肩を抱え、ハンカチで涙を拭っては慰めていた。しかし達哉はさらに、禄朗の父親である弓畠耕一の行方不明をも告げなくてはならなかった。そして、その事情に不明な点が多いので、知っていることを教えて欲しいと頼んだ。

「弓畠さんも、……」と奈美は息を飲んだ。

「それだけじゃないんです。もう一人のあなたのお子さんの北園和久さんと亜登美さんのご夫婦も行方知れずなのです」

「どういうことなのでしょうか。……私にはなにも分りません。和久さんには、こちらから王文林さん、千歳さんが連絡を取って下さったんです。千歳弥輔さんのことはご存知でしょうか」

「はい。知っています。まだお会いしてませんが」

「千歳さんが和久さんに日本での父親捜しを手伝って欲しいと頼んだのです。私が知っているのは、それだけです。千歳さんに聞いていただければ……」

「はい。千歳さんには、次にお会いする積りです。奥さんには、それ以外の事情、……失礼ですが、弓畠耕一さんとのご関係などを、少し詳しく教えていただきたいのです」

「お恥ずかしいことで、……」

 奈美は微かに身をよじり、顔を伏せた。頬に赤みが差していた。

 六十台の終わりに近い筈なのに、奈美にはまだまだ女の色香が漂っていた。泣き腫らしているが、二重瞼の目は大きく、色白で華やかな顔立ちである。白髪も少ない。地味なみなりなのが、かえって若い頃の美しさを忍ばせるに充分な顔立ちを目立たせている。悲しみの中に現れた奈美の羞恥の仕草も達哉をギクリとさせた。達哉の脳裏には、ちらりと既知の女性の面影が写り、目前の奈美の姿と重なった。その女性、高藤万里江は、あるシャンソン・クラブのママ兼歌手で、達哉の女友達の中では最もコケティッシュで派手な存在だった。万里江と達哉とは若い頃からの仲であった。達哉は慌てて頭を振った。カッと血が昇るのが良く分った。

 丁度その時、客が入ってきた。李英財はそっと立上がって、そのまま調薬室に止まり、戻って来なかった。

「夫は朝鮮系です。日本語が良く分るので、気を利かせてくれたのです」

「済みません」といいながら、達哉は何を謝っているのか分らなくなっていた。

「私は悪い女です」と奈美は涙ぐみながら、もう一度いった。「北園が突然逮捕されまして、憲兵隊に連れて行かれました。憲兵隊では理由も何も教えてくれません。それで、弓畠さんを探しまして、助けをお願いしたんです」

 奈美はまたさめざめと泣いた。

「弓畠さんは前からのお知合いですか」

「はい」と奈美は涙を拭いながら答えた。「一緒に法務官として入隊した仲ですので、主人の北園とは一番親しい間柄でした。私が知合う前からの仲です」

「御主人も法務官だったんですか」

「はい。司法科試験の合格が一緒の同期です。出身大学は違います。北園は中央大学、弓畠さんは東京帝大でした。歳は北園の方が二歳上でしたが、大変仲が良かったんです。兄弟のように。それで、……」

 と、また奈美は微かに身を捩った。

「私は、ハルビンの日本人町の町内会が毎月一回催していたお茶会で二人と知合いまして、……

 二人からほとんど同時に結婚を申し込まれました。当時のことですから直接の話ではありません。それぞれ間に仲人を立てて私の父に申込んできました。両親も私も困ってしまって、……

 二人の友情を壊すことになってしまっては申しわけありません。二人とも私の家には不釣合いなくらい立派な家柄の方です。失礼になってはいけませんから、両方のお仲人さんのお二人に一緒にお越しを願って、ざっくばらんにご相談したんです。それで結局、本人の私の気持ちはどうなのか、と聞かれました。後はどうとでも取り繕うから、本人の気持ち次第ということで決めようじゃないか、とおっしゃるのです。私は二人とも深いお付合いではありませんので、決めかねましたが、北園の方が落着いていて優しそうでしたので、そう申しました。二人のお仲人さんは一緒に北園と弓畠さんを呼んで、どちらとも甲乙付け難いから年の順で決めた、恨みっこなしにしろと言渡されたそうです。お陰様で、その後も北園は弓畠さんと仲違いせずに済みまして、弓畠さんは私達の家にも始終お見えになりました。弓畠さんは来る度に私に、大事にされてるか、不満があれば俺が貰い受けるぞ、なんて冗談おっしゃって……。そういう関係でした」

「困った事があれば一番先に相談する関係ですね」

「はい。特にその頃は親元のハルビンを離れて、奥地の張家口の駐屯地におりましたから、なおさらでした。他には知合いもおりません」

「御主人の容疑は何でしたか」

「罪名ははっきりしませんが、なんでも、軍需物資を横流ししたとか、部下の敵前逃亡を助けたとか。……

 その部下というのが、千歳弥輔さんのことなんです。千歳さんは以前に北園の当番兵をしていたことがあって、私も良く知っている人でした。数年前に千歳さんと再会するまでは事情が分りませんから、ずいぶんと千歳さんを恨んだものです。千歳さんから後で聞いた話では、確かに脱走する時には、武器弾薬や医薬品をリヤカーに積めるだけ積んで持って行ったそうです。だけど、北園の助けを借りたという事実はなかったとおっしゃってました。……千歳さんは学徒動員兵ですが、士官候補生になるのを自分から断わられたそうです。前からそういう思想をお持ちの方でしたから、計画的に八路軍に加わったんだそうです。まわりの人に迷惑を及ぼしてはいけないと思って、脱走は全く一人で決行なさったそうで、……

 どうして北園に嫌疑が掛かったのか、不思議だとおっしゃってます。……

 でも結局、北園は軍法会議で有罪になり、銃殺されました」

「本当は無実だったということですね。軍法会議の模様は分らなかったんですか」

「いいえ。全く教えていただけませんでした。弓畠さんがご尽力下さったのですが。私にはなにも事情が分りませんでした。弓畠さんにお世話になって、……」奈美はまた、さめざめと泣いた。

 達哉はそれ以上立入って聞くことができなかった。

 奈美は話しながら、恥かしさにほてる自分の胸の内をどうしようもなかった。本当のことは誰にも話すわけにいかないのだ。

 

 北園が憲兵隊に連行されてから三ヶ月経った。

 あの吐く息も凍る真冬の日々、一歳になったばかりの和久を満人の乳母に預け、毎日のように憲兵隊通いをした。憲兵隊は差入れを受取るだけで、何の返事も戻ってこない。冷たい、トゲのある視線を向けられるだけだった。その後で法務隊の弓畠の部屋に辿り付くと、それだけでホッとしたものである。当番兵がいる入口の控えの間を通って奥の個室に入ると、ストーブの胴が赤々と灼熱していた。皮張のソファに座り、熱い紅茶にたっぷりと砂糖を入れて飲んだ。外では民間人に非常時、非常時といいながらも、軍の上層部は何でも持っていた。

「奈美さん。君までが参ってしまってはいけないよ。僕に任せて気楽に待ちなさいよ」

 弓畠は何度もそう言った。そしてある日、何かの書状をしたためて当番兵を使いに出すと、奈美と並んでソファの右脇に座った。

「奈美さん。北園は馬鹿な奴だよ。君という人がいながら、何であんな危険な事をしでかしてしまったのか。僕は理解に苦しむよ」

「あの人は本当に……」

「これ以上のことは君にも言うわけにはいかない。僕は何とか北園の罪を軽くするように努力するよ。君のためだ。君のためなら何でもするよ。たとえ僕までが危険思想の疑いを掛けられようとも、君のためなら耐えていくよ」

「弓畠さん。本当に相済みません」

 堪えていた涙が奈美の両眼に溢れ、ボロボロとこぼれ落ちた。

「いや、良いんだ。奈美さん。僕は君が悲しむ姿を見たくない。僕が君の事をどれだけ思っているか、君も良く分っているだろ」

 弓畠はポケットから白いハンカチを出して、奈美の涙をそっと拭いた。右手で涙を拭きながら、左手が奈美の肩を抱いていた。奈美は自分の腰から力が抜けて、そのまま弓畠に寄り掛かっていくのを知りながら、どうしようもなかった。奈美の心の隅には確かに、これはいけないことなのだという意識があった。しかし、心細い日々の間に、一日も早く終着点に着きたいという切ない気分が強まっていた。誰かに助けを求めて安心したい、任せ切りたい、という切っ端詰った気持ちであった。崖っ縁に掴まった手を離してしまいたかった。後の事はもう考えたくなかった。

「いけないわ。いけないわ、弓畠さん」

 そうつぶやきながら、奈美は弓畠の手を許し、唇を許し、次第に全てを許していた。

 そういう関係が二ヶ月程続いた。弓畠の宿舎にも忍んで行った。北園の優しさとは違う弓畠の力強さ、強引さに惹かれていく自分に、奈美は罪の意識を募らせながらも、それだけにかえって、弓畠に会っていなければ不安になるのだった。

 北園が銃殺刑に処せられたことは、処刑が終わった後に知らされた。

 白木の箱だけが帰って来た。奈美は一挙に、非国民で犯罪者の未亡人という立場になっていた。和久を乳母に抱かせ、自分は白木の箱を抱えてハルビンに戻った。その足で北園の実家に挨拶に行った時、つわりが始まった。北園が憲兵隊に連行されてからの経過は手紙で知らせていた。北園の父親も張家口まで陳情に来ていた。妊娠の日付がおかしいことは直ぐに気付かれた。

 それからがまた恐ろしい日々の連続であった。奈美は北園家から離縁を申し渡された。和久は取り上げられた。奈美は実家の片隅で座敷牢に入ったような毎日を過ごした。

 八月十五日には臨月のお腹を抱えてラジオ放送を聞いた。


(4-5) 第四章 過去帳の女 5