『煉獄のパスワード』(6-1)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第六章 カイライ帝国の亡霊 1

「はばかりながら、僕も《軍刀組》の一員です」

 立泉は静かな声で、自分自身にいい聞かせるように話していた。

 心なしか、さびしげな口調であった。

「だから、《軍刀組》の一員としての責任において、《軍刀組》が果たした誤りをはっきりさせて置きたい。そのことに僕の存在の最後の意義を見出だしているんです」

 立泉の自宅では夫人の手料理と取って置きのブランデイを振舞われた。その酔い心地の良さに、智樹はすっかり腰を落着けてしまった。立泉もそれを望んでいるようだった。今構想中らしい著作にはライフワークの趣が感じられた。立泉は、その構想の一端を聞いてくれる相手を求めているようだった。話しながら自分の意図の正しさを確めたいのであろう。智樹には、その気持ちが痛い程良く分った。

 陸軍大学校、略称〈陸大〉に入るためには、陸軍士官学校、略称〈陸士〉を卒業した後に原隊の将校としての実務を経て、さらに難関の試験を突破しなければならなかった。そして、陸大で三年間の専門教育を受けた卒業生のみが、正規の参謀将校としての資格を得ることができた。陸大の設立趣旨は本来、参謀将校の養成機関だったのである。

 敗戦までの陸士卒業者は約五万二千名。陸大卒業者は約三千名。陸大卒は陸士卒の五・八パーセント弱である。一九三六年までは陸大卒業者が右胸下に、銀の菊座、金の星章の徽章を付けていた。徽章の形が天保銭に似ていたため、陸大卒業者は《天保銭》、その他は《無天》と俗称された。

 さらに、陸大卒業の際、約一割の成績優等者に恩賜の軍刀が与えられた。これが《軍刀組》である。東条英機は《天保銭》だが《軍刀組》ではなかった。敗戦時に割腹自殺した阿南陸相もそうだった。しかし一部の例外を除けば《軍刀組》が陸軍のトップを握っていたことは、疑うべくもない歴史的事実であるし、非《軍刀組》はむしろ、その負目を補うためもあってか必要以上に陸軍の主流に忠実であった。

 《軍刀組》の中核には陸軍幼年学校、略称〈幼年学校〉出身者という特殊で世襲的ともいえる軍人集団があった。

 父親も職業軍人で幼年学校出身の東条英機が陸軍大臣に就任して以後は、特にこの傾向が強まり、陸軍中央の要職はほとんど幼年学校出身かつ陸士ドイツ語班出身者で固められるに至った。幼年学校では英語を教えなかったのである。その結果として、英語が不得手だからイギリスやアメリカの実状を知る努力もしない。〈貴様〉と〈俺〉の仲で人事を左右する。ついには、敵をあなどる大言壮語型の高級参謀ばかりが陸軍の実権を握ってしまったのである。

 立泉自身も智樹の父親も、軍の中央に登りこそしなかったたが、やはり、その系譜の一員であった。立泉は、自分がその立場であるからこそ、偏見やひがみのそしりを恐れることなく、思う存分の批判を加えるべきだと考えているようだった。

「最も優秀だと自他ともに認める《軍刀組》が最悪の越権専断行為を犯しました」

 と立泉は頭の中で文章の一字一句を書いているかのように、ゆっくりと語った。

「その典型は石原莞爾です。独断の謀略で満州事変を起こした関東軍作戦主任参謀の石原中佐は、陸大卒業の席次こそ二番だが、ガリ勉を一切しなかったことが有名で、誰しもが頭脳最優秀と認める《軍刀組》であった。本人もその後、陸大では三年先輩の東条を〈頭が悪い〉とか、〈上等兵ほどの値打ちしかない〉とか罵倒して予備役に追込まれたくらいだから、自分でも最優秀の積りだったに違いない。僕も若い頃には石原莞爾の天才振りに眩惑されていました。しかし、彼の世界最終戦論などを今読むと、突然宗教がかったりする所だけじゃなくて、全体として独断も甚だしいものです。軍事論としてもお粗末極まりない。やはり基本的な思想が狂っていたのです。石原らは柳条溝の鉄道線路爆破に始まる謀略が中央で発覚すると、中止勧告にきた建川小将を料亭で酔い潰れさせ、その間に行動を開始したとされている。中央からの度重なる不拡大方針の指示にも従わなかったとも言われている。しかし、満州事変は軍事行動として成功し、満州国の建国にまで至った。石原らの越権専断行為は何ら咎められることがなかった。石原は軍人の最高栄誉である金鵄勲章を受け、陸軍参謀本部の作戦課長、戦争指導課長、作戦部長、関東軍参謀長などの要職を経て、ついには中将にまでなった。それはなぜなのか」

 こういってから立泉は智樹の目をじっとのぞきこんだ。

「君にこんな話をするのは馬の耳に念仏でしょうが」

「いえ。断片的に知ってはいても、きちんと整理して考えていませんでしたから、大変参考になります」

「そうですか。僕はこういう出世コースの人脈が単なるお坊っちゃんエリートの個人プレイに止まらなかった点が恐ろしいと思います。石原を典型とする越権派エリートの背景には、明治以来、いや、江戸時代以来の軍閥主流が控えていました。

 当時の軍人の元老格は、たとえば東郷元帥のように、薩摩藩士として生れ、侍として育てられているんですからね。封建制度そのままの意識と習性の持主なんですよ。僕は彼等の間に、当時の流行語みたいだった〈独断専行〉をカバーし合う密約があったんだと考えています。

 それは陸軍だけではありませんよ。海軍がリベラルだったなどという誤解が一部にありますが、とんでもないことです。現に東郷元帥は海軍の軍令部が満州事変の拡大に反対する動きを示した時に、自ら怒鳴り込みに行っています。日本海海戦の英雄がですよ。

 しかし、冷静な軍事史から見ると、あの海戦は万が一にも負ける心配のない条件だったんですね。旗艦の三笠は世界一の海軍国だったイギリスで建造したばかりの最新鋭戦艦です。他も全て外国製の最新鋭艦で、当時の世界で最も粒揃いの連合艦隊だったんです。当時の日本国内でも客観的な評価ができる人は、誰しもが、東郷元帥は運が良かったといっていたものです。ところが、その後の日本の教科書では、バルチック艦隊の兵数や大砲数と較べて見せるんですが、これはシロウト騙しの一種の詐欺ですね。老大国ロシアの中古艦隊、遅れた装備、第一次革命の最中で反乱を起こしかねない水兵達、遠洋航海の疲れ、どれを取ってもバルチック艦隊には勝ち目がなかったんです。ただ、ヨーロッパの大国ロシアが黄色人種の日本に敗れたというのがビッグニュースだっただけなんです。ところが東郷元帥自身までが、この詐欺に同調して自分を天才であるかのように思い込み、おごり高ぶったのです。

 三月事件に始まる昭和クーデターの陰にも東郷元帥がいました。実際に血を見た五・一五事件は海軍が中心です。ロンドンの海軍軍縮条約への批准反対から天皇の統帥権の拡大解釈に至るまで、東郷元帥が軍事参議官の立場で果たした役割は重大ですよ。

 あのロンドン会議は、しかも、パリで不戦条約を結び、これからお互いに軍縮をしようという、つまり、〈不戦〉という理想が掲げられていた国際会議なんですからね」

「そうですね。欧米では、第一次大戦で使われた新型兵器による大量殺戮の悲惨さに対する反省が強かった。日本だけは、火事場泥棒で領土を増やし、ますます血に飢えていた。ロンドン条約に対する態度には、そのギャップが典型的に表れていますね」

「そうです。軍人だけじゃない。むしろ、いわゆる革新官僚やジャーナリズムがこぞって、軍人を煽っていた。戦争成金も政治に口を出した。革新華族などというのもいた。血の気の多い無思慮な若手将校が突っ走るのは当然です。彼等に軍資金を与える勢力もいた。その際、見逃せないのが軍の特務機関と民間の右翼が手を結ぶ謀略の構造です。特に、満蒙支配を狙う謀略には長い歴史があります。満州事変でも、計画段階から民間の擾乱工作の青写真があった。大量の機密工作費が用意されていた。関東軍の部外で満州浪人や現地の青年を組織したものがいる。満州事変で謀略の中心になっていたのは、たとえば元憲兵、予備大尉の甘粕正彦です」

 立泉の眼光は鋭さを増した。

 智樹は自分の心中を見抜かれたと感じて狼狽した。智樹が気付いていた〈…マカ…〉の〈まさか〉は、この甘粕正彦のことだったのだ。立泉は智樹の反応を知ってか知らずか、さらに続ける。

「彼は満州国が出来ると関東軍の推挙を得て民政部警務司になった。これは、今の日本の制度でいえば警察庁長官に当たる地位です。警察といっても武装しており、軍隊と同様に反乱分子の討伐に当たっていた。治安対策が一段落すると、甘粕は協和会の総務部長となった。協和会は満州国の理念とされた日・満・漢・蒙・鮮の五民族協和を政治目標としていた。政党活動と議会政治を全面的に否定した満州における唯一つの政治組織であり、関東軍お声掛りのファシスト団体でした。ヒトラーの『わが闘争』に当るような理論書として『満州国の根本理念と協和会の本質に就いて』という小冊子がありますが、この起草者の中心には辻政信大尉がいたといわれている。辻はあらゆる点で石原の後継者だった。ただし、辻が仕掛けたノモンハン事件は、満州事変とは打って変って、見るも無残な敗北に終わった」

 立泉は再びさらに鋭い視線を智樹に向けた。

「影森君。僕も君のお父上も、最初の実戦経験はノモンハンなんですよ」

「はい。そのことは親爺の口からも何度か聞いています」

「僕の思いは、どうしてもあそこに戻る。戦闘も酷かったが、辻たちが迫って自決させた実戦部隊の聨隊長たちのことを思うと、実に許し難い。思い出すと今でも眠れなくなる。辻はノモンハンの大失敗にも拘らず大本営参謀となり、その後も中央の威光を笠に着て現地軍の将軍たちをひきずりまわした。敗戦後は戦犯追及を逃れて『潜行三千里』などという本を出した。あろうことか代議士にまで成上がった。最後は行方不明のままだが、何をしにまた東南アジアに潜り込んだのか。呆れた無責任軍人です」

「恥ずかしい話しですが、私はその無責任軍人にまんまとだまされたんです。高校時代に『潜行三千里』を読みまして、郷土防衛軍という考えにひかれたのが防衛大学に入るきっかけになりました。ところが入学後、辻政信が立候補した時に親爺とその話をしたら、無口な親爺がポツリと呟いたんです。親爺は〈あの詐欺師奴が……〉と言った切り、黙ってしまいましたが、私はビックリしまして、それから色々と本を漁り出したんです」

「ハッハッハッ……。良いじゃないですか。人間、一生の内に何度もだまされるんですよ。早い内にだまされたことに気付けば、それだけ本当の人生を早く始められる。……影森君。僕は石原や辻らの正体とともに、彼等が手を組んだ甘粕のような陰謀家の暗躍をも、はっきりと戦史に位置付けたい。戦争は、もともと謀略戦を含みますが、近代になればなるほど実に汚いものだということを明確にして置きたい。もちろん日本だけのことではない。ヒットラーも最初は軍の機密費を支給されていますよ。彼は軍のスパイ工作員としてドイツ労働者党に入り込んだ。反ユダヤ主義で国家主義という奇妙な思想の労働者党ですがね。ヒットラーの場合には彼自身が独裁権力者となったので、詳しい追跡がなされている。ところが日本の陰謀家は《お庭番》の伝統というのか、表面には立たないことが多い。そのために歴史の本当の姿が正しく描かれていないような気がする。甘粕正彦の満州国における役割もそうです。満州映画協会の理事長という肩書きしか載せない文章がほとんどですが、最初の関わりが謀略、建国後には民政部警務司長としての弾圧、ラスト・エンペラーの引っ張り出し。次には協和会の御用団体組織、映画による文化政策。ともかく、要所々々を見事に押えています。こういう経過が意外に忘れられているんですね」

「そうですね。私も、そういう風に系統的に追って考えたことはありませんでした」

「甘粕は、関東大震災のどさくさにまぎれて大杉栄、伊藤野枝、甥の少年宗一、三人の首を締めて殺し、古井戸に投げ込んだ憲兵将校の犯罪者ですよ。たとえ主義主張が違っても、社会主義者だからといって本人ばかりか内妻の女性と何も知らない少年を惨殺した犯人です。法治国日本の法律にはっきりと触れる行為です。それを、軍人に規律を守らせる立場にある憲兵隊の将校が犯したのです。少年まで殺して古井戸に投げ込んだのは、犯行を隠す目的以外のなにものでもない。そういう卑劣な人間が歴史を動かして良いはずがありません」

「あれは、甘粕が一人で罪をかぶったのだ、という説もありますが、……」

「知っています。関東大震災の混乱を利用して、いわゆる〈不逞〉朝鮮人、朝鮮の独立運動の活動分子ですね、それと社会主義者を始末しようという動きは、相当上の方からの極秘命令だったのでしょう。しかし、事実はどうであれ、甘粕は罪を認めて有罪となったのです。だから、社会的には、そういう人物として取扱う以外にありませんよ。また逆に、彼が罪をかぶったのが本当なら、懲役十年の判決を下された彼がたった二年十ヶ月で出獄した経過やその後の処遇は、まるでヤクザの世界の出来事ではありませんか」

「アハハハハッ……。そうですね。まさにハク付きのお兄さんですね」

「そういう実例が、その後の日本軍の憲兵隊の性格や軍律にも大いに影響しています。中国戦線での捕虜や民間人の大量虐殺などは、この延長線上に起きたことです」

 立泉はまだまだいい足りないという面持ちであったが、そこで口を閉ざして目をつぶった。智樹の口からは自然にほぐれ出るような問いが発せられた。

「甘粕正彦は満州で青酸カリを飲んで自殺したと聞いていますが」

「それは間違いないでしょう。何人も目撃者がいたようですから。……黒板には彼の筆跡で辞世の句が残されていたそうです」

「あれですね。〈大ばくち もとも子もなく すってんてん〉とか」

「ええ。あれで陸士の教養の程度が知れるといわれて、僕らも恥かしかったものです」

 立泉は目を開いて智樹をまじまじと見た。

「甘粕の自殺は八月二〇日です。ソ連軍がその二日前に新京に入って、協和会の中央本部に司令部を置き、協和会関係者の一斉逮捕の準備を開始しました。ソ連軍は協和会をドイツのナチ党と同じく強力な反共謀略組織として位置付けていましたから、日本軍の降伏の次には協和会の壊滅を狙ったわけです。甘粕は当然、逮捕されたら命がないと覚悟したでしょう。相手はソ連軍だけじゃありません。民衆も満州国のカイライ軍の兵士も一斉に報復の動きを示していました。しかし、自殺というのも意外に難しいものなんですよ。東条英機でさえ失敗して恥をさらしたくらいです。ナチの幹部も相当数が逃げ回りました。甘粕も死を前にして動転したんでしょうね。満州のカイライ政権を大バクチだといい残して死ぬなんてことは、自分の手で自分の墓に泥を塗るような仕業ですよ。……

 影森君。僕は君の今の任務を知ろうとは思いません。だが、僕は君を人間として信頼している。君は今日の葬儀でも何かを探っていたようだ。なにが君の役に立つかは分らないが、あの老人は、間違いなしに甘粕の懐刀だった男です。もう八十歳以上になるでしょうが、顔立ちも躰付きも全く変っていない。関東軍司令部時代に何度も会っている男だから見間違うことはありません。甘粕自身は一匹狼型だったが、陰で彼を支える隠密部隊があって甘粕機関と通称されていた。興亜院や協和会と連携して、アヘン密売などで機密費を調達していたらしい。その中心にいたのが、あの男、陸軍特務小佐のコバ、古い葉っぱです。同姓の将校が司令部にいたので、僕らは彼をワルコバと呼んで区別していましたよ」

「ワルコバですか。ピッタリの感じですね。ハハハハッ……」

「ハッハッハッ……。昔はもっと悪党面でしたよ。それほどの大物ではありませんが、陰の実力者でした。当時は、ご存知のように佐官クラスが軍を動かしていましたからね。他の連中の反応も確めましたが、角村さんの表情は君も見たんじゃないですか。清倉誠吾も動揺していたし、あとで誰かと相談していましたね」

「知っています。大変な驚きようでした。しかし、角村さんなど何人かは、あの男の生存そのものは知っていたし、戦後にも会ったことがある、という表情でした。それで、……ああいう場に現れるのには反対する、困るという感じでした。清倉さんの場合は、むしろ怒りに近い感情が見えました」

「そうでしょう。困る人は多いでしょう。しかし、辻政信みたいに戦犯裁判を逃げ切ったのもいたし、A級戦犯に指名されても、アメリカに協力を誓ったりして無罪釈放で返り咲いた大物が何人もいたんです。もう一人ぐらい小物の亡霊が地下から現れても大差はないでしょう。アッハハハッ……」


(6-2) 第六章 カイライ帝国の亡霊 2