電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第六章 カイライ帝国の亡霊 3
立泉家を辞したのが午後七時。ブランデイの酔いはまたたくまにさめた。
智樹は自宅に戻ると直ぐにプールに行った。酔いがさめたとはいっても、身体からアルコール分が完全に抜け切ったわけではないので、軽く流して泳ぐ。しばらくすると達哉もプールに現れた。最新の情報を交換して二人で検討する約束をしていたのである。
千五百米程泳ぐと、やっと頭の中がすっきりしてきた。
誰がいい出したものかクラブの水泳仲間では、こういう状態を〈頭の中が真白になる〉といい習わしている。最初は何だか気絶するみたいで気味が悪い表現だと思ったが、いまでは智樹も馴れて使っている。
プールから上がって達哉と一緒にサウナで汗を流した。客は二人だけだったので、遠慮なく情報交換ができた。
その後、智樹の自宅に向った。応接間のソファに座ると達哉が早速、それまでの智樹の話に対する感想を語った。
「蒙疆に始まる一連の事件……か。しかし、因縁話だな。ひょっとして、今度の事件に影森一家とのつながりが出てくるんじゃないか」
「いや、すでにつながっているんだ。千歳弥輔さんは君に会うのを避けたようだが、今、俺の親爺の名前を使って連絡を取っている所だ。しかし俺の一家だけじゃないよ。君がいた北京にだって、蒙疆=北京のアヘン・ルートがあっただろ。蒙疆傀儡政権の首都だった張家口は北京の北側の玄関口みたいな位置だ。風見一家ともつながるんじゃないか」
「ハハハハッ……。それはどうかな。俺の親爺は地味な技術屋だ。麻薬とは縁遠いよ」
二人が初めて会ったのは高校に入ってからであるが、二人とも中国大陸からの引き揚げを経験していた。大陸帰りにまつわるいささか陰惨な少年期の思い出が、二人の個人的な会話の始まりであった。
智樹の父親は正直の上に馬鹿がつく頑固者の軍人だった。
関東軍の将校の中には、敗戦の年の三月にナチス・ドイツが降伏して以後、すでに戦局の行方を見定めて家族を日本本土に帰すものが多かった。
しかし影森繁樹大佐は、自分が張家口の蒙堯地区司令部守備隊長である以上、身をもって部下や日本人居留者に範を垂れるべきだと考えていたようである。だから、八月九日のソ連参戦が判明するまでは、家族になにもいわなかった。
だが、大本営はすでに五月三十日、ソ連が参戦した場合に備えて満州の四分の三を放棄し、朝鮮との国境沿いに戦線を急速に縮小する作戦計画を下していた。それは必然的に多くの日本人住民ばかりか、各地に残された残存部隊の全てを見捨てる計画であった。
意図はどうあれ、ソ連の参戦が不意打ちであったかのように論ずるのは、大変な誤りなのである。
一方の論調は、ソ連を悪者にする。もう一方は、関東軍を無能よばわりする。しかし、この両者ともに無知のそしりを免れない。ことソ連軍の動きに関する限り、関東軍は世界でも最高級の情報を収集し、ほぼ正確な事実を握っていたのである。
もともと、関東軍のみならず日本の陸軍は、歴史的にソ連を最大の仮想敵国とみなしてきた。ソ連は日本のスパイ機関の最大の目標であった。その一方で形ばかりとはいえ、問題の〈日ソ中立条約〉が厳存していたのであるから、表面上は友好国である。外交官や駐在武官はもとより、商売などの口実の下に旅行者を装った日本人のスパイが、次々とソ連国境内に合法的に送りこまれるという状態が続いていたのである。
関東軍特殊情報部は当然、電波通信の傍受、解読などにも努めた。ソ連国籍のスパイも使っていたが、ソ連軍からの逃亡兵が意外に多く、最大時にはハルビン特務機関の収容所に三〇〇名以上もいたという。これには、ソ連がスターリンの独裁支配下にあったという事情も大きく影響している。
もっとも確実なのは直接の日常的な観察記録とその分析である。ソ連国境の数十ヶ所には、将校または下士官以下十数名からなる〈向地視察班〉が配置され、高さ十数メートルのやぐらの上から常時、倍率一〇〇倍以上の大型望遠鏡で観察を続けていた。
都合の良いことに、ソ連側の大量輸送手段はシベリア鉄道一本だけであったから、兵力移動の状況は非常につかみ易かったのである。
航空写真もふんだんに撮影されていた。当時はレーダーも発達していなかったから、日本軍の高性能で高速の隠密偵察機がソ連側に捕捉されるという心配は、ほとんどなかったのである。
こうして関東軍も大本営も、ソ連の参戦準備完了の状況をほぼ正確に掴み、八月十日前後という時期まで予測していたのであった。〈日ソ中立条約〉がソ連の足留めになると期待する軍人は一人もいなかった。
だが悲劇は、これらの状況の掌握とは全く別の所から生れるのである。
張家口もソ連軍に襲われたが、降伏の命令は届かなかった。影森聨隊は踏み止って応戦した。ポツダム宣言の正式受託と停戦の命令が届くまでの十日間を持ち堪え、八月二〇日に降伏した。降伏後、影森聨隊は直ちに武装解除され、部隊の全員が捕虜としてソ連に抑留された。
その間、父親不在の影森一家の引き揚げは困難を極めた。引き揚げというより難民の逃亡といった方が事実に近い敗残の旅が続いた。たまたまトラックの便があったので、知合いが多い満州の新京に向ったのだが、これが大失敗であった。張家口にいた日本の民間人人の内、二万二千余名は北京方面を目指して集結した。内一万四千余名が「婦女子」と記録されている。そちらに合流していた方が無事だったのである。
旧〈満州〉をさまよう途中で妹が栄養不良で死んだ。母は日本に辿り着いた途端に死んだ。智樹は一人で父親がシベリアから帰るまでの間、叔父の家に身を寄せていた。
智樹が父親の聨隊の最後や自分達の引き揚げの苛酷さについて、そのさらに愚かしい背景の真相を知ったのは、防衛研修所の教官になって以後のことであった。
それは、十五年戦争そのものの愚かさや、ドイツの降伏以後も無益な戦いを続けたという決断の無さだけのことではない。無条件降伏を求めているポツダム宣言の受諾に、国体護持の条件を付けたという非常識な未練でもない。それらは一般にもよく知られていることである。
そうではなくて、智樹が学んだ軍事学の初歩的な常識に関わる問題であった。
まずは、ポツダム宣言受託を敵に通告して置きながら、同時に、軍中央が全軍宛てに〈断乎神州護持の聖戦を戦い抜くのみ〉と訓示していたことである。次いで、当然の常識である停戦命令を出し渋っている。そういう場合の担当者である参謀本部作戦課長が大声で〈作戦課がそんなことできるか〉と怒鳴って仕事を拒否したというのが実状だったという。やっと八月一六日になってから〈戦闘行動中止〉の大本営陸軍命令、略称《大陸命》伝達の手続きが取られたことである。その結果、最前線は混乱の極みに陥った。
しかも、ソ連軍の圧倒的な進出に蹴散らされていた大部分の残存部隊には、その出遅れの命令すら届かなかった。そしてソ連軍は、〈天皇は八月一四日に日本の降伏を宣言したが、軍に対する降伏命令はまだ出ていない〉として、二〇日の正午に至るまで攻撃の手を休めようとはしなかったのである。
〈余りにも愚か過ぎる〉と智樹はその時に痛感した。日本でも戦国時代には、負け戦さの殿軍を命じられるのは武将の誉れとされたもの、と教えられてきた。本当に戦国の武将が喜んで殿軍を引き受けたのかどうかは別である。ともかく、敗戦の処理も重要な軍事行動なのである。それが何一つ満足にできなかった旧軍の指導者達に対して、智樹はその時から本格的な疑念を抱き始めたのであった。智樹の心の奥底では、少年期に刻みこまれた憎しみの対象が徐々に入れ換っていくのだった。
達哉の父親は帝国セメントの技師であったが、当時の国策会社、北支那開発会社に半ば徴用の形で出向させられ、最初は単身で赴任した。一家は後を追って北京に引越した。敗戦時に北京は国民党政府軍(国府軍)の支配地区であった。国府軍はアメリカとの関係が強く、すでに反共の立場で日本軍にも協力を求めていたから、北京方面の引き揚げは比較的順調に進んだ。日本軍の厖大な武器の引渡しなど、国府側にも日本との交渉を要する戦後処理の作業が控えていたのである。すでに国共内戦再開は時間の問題であった。
高校時代に達哉は智樹が満州生れだと知り、満州に関わる自分の思い出を語った。達哉の額には引き揚げ船で満州帰りの子供達と喧嘩をした時の傷跡が残っていたのである。引き揚げの記憶は、やはり少年期の異常体験であった。今でも何かきっかけさえあれば、すぐに振返って思出す。それ程に生々しく蘇る強烈な記憶なのである。
北京からの引き揚げが恵まれていたとはいっても、それはあくまで満州方面からの引き揚げと比較してのことである。達哉の一家は日本人会の指示に従って、家財道具の全てを捨て、手に持てるだけの荷物を持って収容所に向った。小学校三年生の達哉が長男である。生れたばかりの妹を背中に括りつけ、両手で二人の弟の手を握り締めて歩いた。肩からは魔法瓶を吊るしていた。母親の産後の肥立ちが悪く、母乳では足りなかったので、赤ん坊に粉乳を溶かして呑ませていた。そのために、常にお湯を確保して置かなければならなかったのである。
一家は、母親の身体を気遣って旅立ちを延ばし、収容所を転々とした。北京郊外の元兵舎、工場、倉庫とタライ回しにされた後、無蓋貨車で塘沽港まで運ばれ、そこでアメリカ軍のリバティー船に乗った。
《自由》の名を冠するリバティー船は一万トンの規格輸送船で、第二次世界大戦中に大量生産されたものである。日本の海運力が開戦とともに日に日に衰えていったのとは対称的で、対米開戦の無謀さを証明する生産力の隔絶振りの一例であった。名前の付け方にさえも政治的な優越性が示されていた。風見一家が乗ったリバティー船は、塘沽港を出て渤海を横切った。黄海に出る前に遼東半島の突端をまわり、現在は旅大と呼ぶ旧大連港で新たな旅客を乗せた。「《満州帰り》を無理して詰込んだぞ」、という大人達の噂話が子供達の耳にも入った。折からの内戦再開の煽りを受けての緊急措置だったのであろうか。暗い雰囲気の耳情報がそこここで囁かれていた。
だが、船上の子供達には別の世界があった。塘沽で出来上がった少年集団は、大連からの少年集団と遊び場をめぐって対立し、甲板で果し合いをした。塘沽組は散々な敗北を喫した。達哉もその仲間の一人として、そこかしこにできた傷跡の痛みをいまもなお鮮やかに思出す。大連組は固いベーゴマの紐を振回して一気に襲い掛り、塘沽組を圧倒したのである。衣服から露出していた腕や首筋、顔面は、赤いみみず腫れだらけだった。塩見の額の傷は、同じ所を二度程打たれたせいであろうかザクリと口を開け、血を噴出していた。その頃の唯一の治療薬、マーキュロがいつまでも傷跡にしみた。
達哉の記憶の中で傷跡とともに生きる《満州帰り》は、ながらく《狂暴》のイメージのままであった。後年、満蒙からの帰還者が、少年といえども、まさに生き地獄の体験者であったことを知るに及んで、その《狂暴》のイメージに対して抱く悲しい郷愁は更に深まったのである。
〈北京。満州。蒙疆。……これが俺の人生の逃れがたいキーワードなのだろうか〉
満州や蒙疆をめぐるアヘン戦略の歴史は、智樹に指摘されるまでもなく、北京における達哉の少年期の原体験につながっていた。そしてそれが今、仕事上の切実なテーマとしての形を現しつつあった。そのテーマの追及作業が、主役の座をしつこく要求し始めたのである。
〈自分の過去と現在をつなぐ何がなしせつない《業》の営み。……これは、そういう人生のテーマとのめぐり合いなのであろうか〉
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