『煉獄のパスワード』(6-7)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第六章 カイライ帝国の亡霊 7

「私の鼻先で偽装殺人をやってのけられたようなものです」

 テレヴィ画面の中の小山田はいかにも重苦しい表情だった。

「私は覆面パトカーから尾行の報告を受け続けていたんですからね。しかも、二人が連れこまれてからもただ〈待て〉と指示しました。責任重大です。……奴等は長崎記者と浅沼巡査部長を殺す前に、興亜協和塾の名乗りを上げて警視庁人事課に身元確認の電話をしています。そこから広報課に問合わせをさせて、長崎記者についても警視庁の記者クラブに所属していることを確めています。身元を充分に知った上で殺したわけです。さらに、別の覆面パトカーが尾行に付いていることも承知の上だった。殺された二人はまだ大した事実をつかんでいたわけではないんですから、これは明らかに我々に対する牽制です。余計な所に鼻を突っ込むなという脅しでしょう」

 《お庭番》チームの雰囲気は緊張の度を増していた。

 ヒミコを通じての緊急呼び出しによる深夜のテレヴィ会議なのだが、お互いの息使いが身近かに感じられる程に臨場感が溢れていた。もちろん、スクランブルは掛けてある。

 一同はすでに、田浦警部補が警視庁のパソコン・ターミナルに呼び出したような興亜協和塾のデータだけでなく、さらに極秘の情報についても報告を受けていた。

 まずは怪しい老人の正体が、かつて甘粕機関の中心だった元特務小佐の古葉に違いないという智樹の情報である。それを受けた途端、

「なるほどッ」

 と絹川特捜検事は頭を強く縦に振り、自分の右腿を右手の掌でパシッとたたいた。

「それで見事に読めましたね。八トンの生アヘンを売りさばいたのは、まさに中国大陸のアヘン・マーケットを握る、プロ中のプロだったんですよ」

 次には小山田が、警視庁のデータベースにも入っていない極秘情報用フロッピの内容を取り出して、事前に全員に送っていたのである。

 極秘扱いにするのも当然である。ヒミコの画面には意外な人名が並んで出て来た。

〈組織 理事会  理事長 下浜安司  理事 ……〉

「なんだと!理事長はこの前の首相じゃないか」

 と思わず智樹も大声を出してしまった。

 理事の中にはさらに驚くべきメンバーが並んでいた。

 憲政党幹事長の清倉誠吾、現通産大臣の江口克巳、都知事の筋沢重喜、元陸上幕僚長で五島重工業相談役の角村丙助、大日本新聞社長の正田竹造、弁護士の陣谷益太郎。軍事評論家の剣崎近雄。元海軍軍人で作家の島山常次、三星電機会長で経営連合専務理事の石立兼策、……

「軍隊、警察、検察、マスコミ、政財界、あとは裁判官がいないだけだ」

 絹川も呆れていた。

 特に、現職の政治家が古色蒼然たる右翼団体の理事に名を連ねていて、よくも今まで問題にならずにいたものだ。目立った運動をしないために気付かれなかったからであろうか。

「公安情報からも消されて、自治省の政治団体の報告にも入っていなかったんですよ」

 と小山田がこともなげに説明した。考えてみれば《お庭番》チームでさえ、弓畠耕一の告別式以前は興亜協和塾という名前さえ知らなかったのである。

 しかも、〈潤沢な資金を誇っており〉という報告の内容は、常識では考えられない性質のものだった。

 通常の《政治献金》はゼロで、《事業収入》だけ、それも《利子》と《配当》のみだったのである。

〈興亜協和塾 一九八×年度事業収入 利子配当他 十四億三千五百七十二万円〉

「こりゃ凄い。相当な財産があるということか。ええと、……」と絹川が顎をなでる。

「計算済みです。年利が五パーセントとして、基金を逆算してみますと、二百八十七億一千四百四十万円になりました」と小山田も憮然として腕を組んだ。

 智樹は内心、ギクリとしていた。

〈山城総研の極秘データ〉という言葉が脳裏をパッとかすめたからである。山城総研には《いずも》にも公開を許していない有価証券データがあった。これは重要な企業秘密だから、滅多に明かすわけにはいかないのだ。智樹は沈黙を守った。

「しかし、殺しに至る動機がもう一つはっきりしませんね」と絹川が首を振っていた。

「例のアヘンがらみの過去を暴かれたくないんじゃないですか」と冴子。

「それもあるだろうが、話が古過ぎる」と絹川が切り返す。「ああいう鉄面皮な連中のことです。マスコミがよう騒がない昔話で、急に尻に火が付くでしょうか。これだけ手のこんだ殺しで我々を脅かすには、今の今、なにか探られては困る事情があるんじゃないでしょうか。過去だけじゃなくて現在進行中の問題がね」

「甘粕機関の生き残りという正体を嗅ぎ付けられては、というだけでは充分な動機にはなりませんか」と冴子。

「いや。その動機も不安定ですね」と絹川が座り直す。

「告別式の会場の状況は影森さんの報告通りですが、私もこの目で見ています。老人の突然の出現には、どうやら意外な理由がありそうですよ。いかにもわざとらしい動きだと思います。本人は死期を目前にして公衆の面前に名乗り出たくなった。戦後四十数年間もかぶり続けてきた仮面を急に脱ぎ捨てたくなった。そういうドラマチックな人間の生臭い業の葛藤という印象を受けましたね。

 それと、大日本新聞の正田社長がぴったり脇にくっついていました。彼は日本最大のマスコミ・グループのワンマンです。大日本新聞グループは創業百十年の新聞社を中心にして発展し、大日本放送網のテレヴィとラジオの全国系列や、週刊誌を三種類、月刊誌を二種類出している大日本出版や映画プロダクションを含んでいます。つまり老人は今、何らかの形でマスコミを利用しようとしているのではないか。または逆に、マスコミを握る正田が老人を利用しようとしているのか。

 この両者の側に策士、陣谷弁護士がいる。ところが、政界の実力者である清倉誠吾は苦々しい顔をしていた。防衛庁OBで軍事産業界黒幕の角村は、まだ迷っている表情でした。このあたりに謎を解くカギがあるんじゃないでしょうか」

「ひとつ提案させていただきますが、……」と小山田は慎重な顔付。

「まず、例の北園夫妻と千歳らを《北園グループ》とします。《北園グループ》に背後関係があるのかどうかは疑問のままでした。今度の興亜協和塾関係者を《興亜グループ》とします。《興亜グループ》のねらいも動きも全く分りません。この両グループがなんらかの関係を持っているのか。それとも無関係なのか。弓畠耕一をめぐるこれらの関係の網の目を最初から洗い直してみませんか」

「そうですね。この際、それぞれ分担して、身辺を洗ってみましょうよ」と智樹。

「私の方はすでに、あの塾に張り込みチームを付けました。近所での聞き込みを続けます。我々としては、警官殺しをそのままにしては置けませんからね」と小山田。

「それじゃ」と冴子。「検察関係の清倉さんと陣谷さんの身辺は、私と絹川さんで当りましょう。あとは影森さんに期待してもよろしいかしら」

「結構ですよ。念のために、防衛庁調査部の徳島にも協力を依頼します」と智樹。「ただし、彼以外には漏れないように注意しましょう。どうやら、相手が大き過ぎるようですからね」

「影森さん自身には、例の千歳さんと会っていただかないと、……」と冴子。「返事が来ました。北京の残留孤児問題事務所でお会いしたいそうです」

「分りました。調査の手配が出来たら、直ぐに出発しましょう」

「それはそうと」と冴子がとぼけた顔で、「あの老人、どちらの名前で呼ぶことにしましょうか。今名乗っている久能か、それとも昔の名前の古葉か、あだなのワルコバか」

「ハハハハッ……。久能でいいじゃないですか。昔の名前だって本名かどうか分りませんからね」

 と智樹がいい、この件はそれで決まった。

 

 達哉はその頃、六本木のシャンソン・クラブ、レ・ルグレに向かっていた。

〈たまには一杯やっていくか〉という智樹の誘いを断って辞する時には、〈今日は朝と先刻と二度も泳いだんで、眠くて、眠くて……〉などと、いわずもがなの下手な弁解を試みた。それを思い出すと、タクシーの中で何度か独り笑いを堪えなければならなかった。

 

〈嘘も方便か。……しかし、いくつになっても照れくさいものは照れくさいな〉

 それも道理だった。レ・ルグレのマダム、高藤万里江は、達哉と智樹の高校時代の同級生で、仲間内では寄るとさわると大評判の女王蜂型アイドルだったのである。

 高校を出るとすぐに竹塚歌劇団のレビューガールになり、当時から売れっ子のドラマーと結婚。そして子連れの離婚。何本か映画にも出たが、これは大部屋女優のまま。その後、シャンソン歌手に転向。さほど名は売れなかったが、今は自分も出演する高級シャンソン、クラブのマダムという経歴。同級生では随一の華やかな人生経験の持主である。

 その高藤万里江から突然、留守番電話の録音にファクシミリの手紙という、今までに例のない念の入った誘いを受けた。話があるから急いで店に来いというのである。ともかく電話をすると、

「会わなきゃ話せないのよ。すぐ来てね」としかいわない。

 達哉には高藤万里江との関係で、智樹にも秘密にしていることがあった。それでなおさら打明けるのが照れくさかったのだが、どうも今度の誘いは感触が違う。プライベートなことではないような予感があった。

 レ・ルグレのステージでは高藤万里江が《ポルトガルの四月》を歌っていた。しっとりとした語り口である。伴奏のジョルジュは、晩年を若い頃から憧れていた日本で送ろうとパリからやってきて、もう五、六年になる。椅子に座って大きなアコーデオンを膝に抱え、楽しそうに銀髪を揺らせている。

 達哉はいつものようにカウンターに座った。しばらくすると高藤万里江が隣に現れた。香水の匂いが先にふわっと漂ってくる。

「いらした時に、すぐ気が付いていたのよ」

 まさに艶然という表現がぴったりの笑顔がこぼれ落ちる。達哉はいつも、この笑顔で武装解除されてしまうのだ。

 高校時代にデートを申込んだ時もそうだった。嬉しそうに笑ったから成功したかと思うと、全く逆だった。

「同級生の男の子なんて、ウフフフッ……悪いけど、まるで子供っぽく見えちゃって、……ごめんなさいね。ウフフフッ……」

 と簡単に断られてしまったのである。そうまでいわれたのに、なぜか腹は立たなかった。高藤万里江の笑顔は、いつ見ても屈託がなくて、達哉の心に強力な磁石のような吸引力を発揮する。あっという間に裸にされてしまう感じなのである。おそらく誰に対しても、そうなのであろう。それが自分だけのことではないなどと、落着いて客観的に考えられるようになったのは、間違いなしに年齢のせいである。万里江と向い合ってもドキドキしなくなってから、もうかれこれ二十年は経つのだろうか。

「やあ。会わなきゃいえない話なんて、一寸怖いね。なんだい」

「そう。怖い話なのよ」と一瞬、万里江にしては珍しく真顔を見せる。

「悪いけれど、私、もう二、三ヶ所、お客様にご挨拶しなきゃならないの」と笑顔に戻り、テーブル席に向けて手をひらひらさせる。「あなた先に、あちらの私の部屋に入って、待ってて貰えないかしら」

「うん。分った」

 万里江は、客の誰かだけを特別扱いすると見られないように、いつも気を配っていた。それを知っている達哉は気を利かして、そっとトイレに立ち、目立たぬように万里江の私室に入った。

 部屋の壁には一面に額縁入りの写真が飾り付けてあった。レビューガール時代のラインダンス風景だけが仲間と一緒のもので、あとは全て万里江一人の写真である。映画時代のスチール。シャンソン歌手時代の舞台写真。そして最も新しいのが、水着姿で表彰台に立つ写真である。この写真に向かって達哉は軽くウィンクした。万里江も水泳を健康法にしており、マスターズ水泳大会の常連なのであった。写真を撮ったのは達哉自身。うまく撮れたので拡大し、額縁に収めて万里江に贈った。その飾り付けの時に初めて、この部屋に入るのを許されたのである。

 

 写真を見ると改めて、万里江の水着姿を初めて見た時の鮮烈な記憶が蘇る。

 万里江は高校三年の初夏に転校して来た。

 東京の城西高校といえば都会の高級住宅街の高校の典型であろう。達哉達にもそういう自覚があった。それまでにも何人か転校生を迎えたが、皆、いかにも田舎から上京してきたというオズオズした雰囲気を漂わせていた。ところが、万里江だけは大違いであった。万里江は良く発達した胸を臆することなく張って、教壇の横に立った。

「京都からやって参りました高藤万里江です」

 と鈴を転がすような声、晴れやかな笑顔で自己紹介したのである。色白で、ふっくらとした丸顔、くるくる動く大きな目、心持ち尖らせて喋る柔らかそうで血色の良い唇。その頃、映画『ローマの休日』以来、流行していた刈り上げぎみのオカッパ。普通よりも少し赤みがかった茄子紺色のセーラー服。すべてが青春の魅力の塊だった。京都といえば妓園の舞子、御所、平安朝、直前の春の修学旅行で名所巡りをしたばかりの古式な都、そんなイメージが万里江を中心にぱあっと広がった。東京も江戸も、とても敵いっこない本物の洗練された都会文化の香りがあった。その日一日、授業中も昼休みも、達哉の目は思わず知らず万里江の挙止に惹き付けられていた。

 万里江は、達哉の思春期の真只中に突然現れ、仕掛け花火のように達哉の全身に連続爆発を引き起こした謎の美少女だったである。

 放課後すぐに達哉がプールに向かったのは、その一日のモヤモヤを一挙に吹き飛ばしたいという気分に駆られたためであった。水泳部の練習時間が始まるまでの三十分程、達哉はウオームアップもそこそこにダッシュを繰返して泳ぎまくった。他の部員が集まってくるのを見て、一休みするためにプールサイドに上がる。シャワールームに入る。ところがそこに全く予想外の光景が待っていた。水着姿の万里江がいたのである。達哉は呆然、躰全体が金縛りに掛かったように、その場に立ち尽くした。シャワーを浴び終わった万里江は、顔の水を両手で振り払いながらニッコリ笑った。

「私、今日転校してきた高藤万里江です。水泳部に入りますので、よろしくお願いします」

「ああ、……知ってます。僕、同じクラスの風見達哉です。こちらこそ、よろしくお願いします」

「あら、同じクラスでしたの。良かったわ、知ってる人がいて……」

 達哉は完全に呑まれてしまった。自分で何をしているのか意識しないままシャワーを浴び、ノロノロとタオルで躰を拭いていた。だが、プールサイドに戻ると、また新たなショックを経験することになった。達哉の目の前でいきなりスタート台から飛込んだ万里江は、くるりと躰をねじると上を向き、背泳ぎを始めたのである。その頃は古橋選手らの影響もあって自由形のクロール全盛時代である。男でも背泳ぎは珍しかった。達哉が女の背泳ぎを見たのは、この時が初めてである。ゴーグルはない時代だから紅潮した顔に大きな目が見える。唇は開いたまま呼吸する。胸のふくらみが揺れる。白い腕が腋の下を見せて回転する。白い太腿が交互に激しく上下する。全てがウワアッ……という感じである。

 しきりに喉が乾く。見続けていてはいけない、という罪の意識がありながら、どうしても目をそらすことができない。

 絵もない。写真もない。だがそれは、達哉の確かな記憶の中に、今もなお色鮮やかに生き生きと記録されている青春の映像の貴重なひとコマなのである。


(6-8) 第六章 カイライ帝国の亡霊 8