電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第六章 カイライ帝国の亡霊 8
〈君は僕の青春の《見果てぬ夢》なんだ〉
達哉は万里江に対して、この台詞を長年何度も繰り返してきた。
だが、その長年の《夢》が、京都で行われたマスターズ水泳大会の折に、本当に実現してしまったのである。
これまでの経験で万里江の気紛れな性格を知り尽している達哉は、その時も決して、ここぞばかりに気負っていたわけではなかった。《見果てぬ夢》は《夢》のままにして、大事にしまって置いた方が良いのかもしれない。そういう気持ちもないではなかった。
全国各地でマスターズ水泳大会が開かれるようになっているので、旅行のきっかけは増えていた。万里江はいつも旅の道連れに達哉を誘うのだが、それ以上を求めず、また許さないのが常であった。達哉も言葉の上では〈君の全てが欲しいよ〉などとねだりはするものの、決して強引に押しまくろうとはしなかった。二人は長い間に馴合いの習慣を身に付けていた。
京都でその均衡が破れたのは、万里江が一番愛着を持っていた百米背泳ぎのレースに惨敗を喫したためである。
前年の長崎での全国大会で、万里江はこの種目に優勝しただけでなく、四十五歳から四十九歳までを含む四十五歳年齢グループで長水路の日本新記録をマークしていた。達哉が撮影して、今も目の前に飾られている写真は、その時の表彰台での晴れ姿なのであるが、万里江は一年後に、その同じ種目で見事に負けてしまったのだ。
もっとも相手は、元オリンピック選手として有名な立花咲子である。年齢も四十五歳になったばかりで、五歳刻みの年齢グループでは最年少。この時の記録は、日本新記録だけでなく、世界新記録にもなっている。最初から誰の目にも勝敗の行方は明らかだったのだが、万里江のプライドは人知れず、いたく傷付けられたらしいのだ。
レースの始まる前から万里江はピリピリしていた。達哉が冗談を言っても、返事は上の空であった。スタート前の選手紹介が行われる頃には、場内に〈あれが立花咲子よ〉、また世界新じゃないの〉といったささやきが交わされていた。
立花咲子が4コース、万里江が5コースで真中に並んでいる。〈4コース!〉の呼び声が当然多かったので、達哉は精一杯の声で〈5コース!〉と叫んでやった。万里江はいつもこちらに顔を向けて手を振り、ニッコリ笑うのだが、硬い表情で正面を向いたままである。ピリピリピリッ……と笛が鳴り、選手一同が足から水に飛び込む。背泳ぎ用のスターティング・グリップに手を掛ける。ヨーイッ、バンッ……。一斉にプールの壁を蹴って身をひるがえし、一瞬水中に姿を隠す。
十米程で浮き上がってきた万里江は、姿が見える選手の中ではトップを切っていた。しかし、隣のコースに盛上がる波がかすかに先行しているようだった。立花咲子がプールの中程近く、二十米あたりでやっと姿を見せた時には、すでに身長以上の差が開いていた。会場全体にホッと溜息が漏れた。
立花咲子の腕と足が正確な機械のように水を掻き、蹴る。躰は全く揺れない。顔から膝までが水面の上に出たまま、少しも水をかぶらない。モーターボートが水面を滑っていくように進むのだから、それだけ水の抵抗が少ないはずだ。
立花咲子に較べれば、万里江の泳ぎ方は優雅なお嬢さん芸で、水遊びの観があった。
達哉はストップウオッチを持って万里江のラップタイムを記録していた。万里江の前年の四十五歳日本新が一分三十秒三十二。アメリカ女性の四十五歳世界新が一分二十一秒〇四。立花咲子の四十歳世界新が一分十五秒二十四である。万里江の記録を取りながらでは間が悪いなという気はしたのだが、やはり世界新記録の方に興味がある。立花咲子がゴールインするとすぐに電光掲示盤を見てしまった。一分十五秒十八。場内は拍手の渦である。二位の万里江が一分二十九秒五十一。自己ベストの日本新だが、今では立花咲子に次ぐ本年度第二位となる。
場内アナウンスは、立花咲子の世界新記録樹立と一緒に、彼女と万里江の二人の記録が日本新記録となることを発表した。だがこの時も、万里江はニコリともしなかった。
それが二日間の大会の一日目のことである。そのレースが終わってから直ぐに達哉はホテルに引き揚げ、昼寝の後、ゴロゴロしていた。京都生れの万里江は親戚から招待されており、夕食も一緒には出来ないかもしれないと言って出掛けた。だが万里江は、六時頃、達哉の部屋に電話を掛けてきた。
「どうしてる?ご飯食べた?」
「まだだよ。君の予定が分らなかったから、もしやと思って、待ってたんだ」
「ごめんね。私、懐石料理頂いちゃったの。甘栗沢山貰ったから、食べない?」
「はい、はい。頂きますよ。何でも」
「それじゃ。いまから行くわね」
待つ程もなくノックの音がした。
「風見さん、いる?」と相変わらずの鈴を転がすような可愛いい声である。
「はい。どうぞ。カギは掛かってませんよ」
「ウフフッ……。良いかしら」
万里江はドアを薄めに開け、身を横にしてスルリと入ってきた。いたずらっぽい仕草である。上目使いに達哉を見て、クスリと笑う。だが、一杯機嫌なのかなと思う間もなく、ペタリと椅子に座って、
「私、口惜しいのよ。あんなに負けちゃって」とポロポロ泣き出した。
「元オリンピック選手じゃ相手が悪いよ。君だって自己ベストの日本新じゃないか。俺なんかに較べれば立派なもんだ。泣くことはないだろ」
「馬鹿!馬鹿!日本新っていったって、来年になれば残るのは彼女の記録だけよ。日本記録の一覧表から私の名前は消えてしまうのよ」
「仕方ないさ。記録は破られるためにあるっていうしね。また五十歳グループになった時、日本新を出せば良いじゃないか。立花咲子が追い付いてくるまでは、またクイーンの座を確保できるだろ」
と達哉は殊勝にも慰め役に徹した積りだったのだが、これが大失敗。
「馬鹿!」と、したたかに頬を張られてしまった。
「私が年を取るのが、そんなに面白いの」
と万里江は目を吊り上げ、ここぞとばかりに絡む。
「ごめん、ごめん。そんな積りじゃ……」といいながら、達哉はついに笑い出してしまった。
「アハハハッ、ハハハッ……。いくら気が若いったって、子供じゃあるまいし、良い加減にしろよ」
「ウフフフッ、フフフッ……」
と万里江も泣き笑いに変わった。だが、涙だけはポロポロこぼれ続ける。達哉は、その涙を唇で吸ってやった。そして、……
それは本当に夢見心地だった。
達哉の頭の隅のどこかには、万里江がなんの抵抗も示さないのを不思議に思う気持ちが残っていた。
万里江を抱えてベッドに横たえた。靴を脱がせた。躰の下になっていた掛け布団を引き抜いて、万里江の下半身を覆った。しばらくは抱き合ったまま唇を吸い続けた。達哉の右手が万里江の首を抱き、左手が万里江の全身を撫でていた。それら全ての動作が自分のしていることではなく、他人ごとのように感じられた。頬をつねりたくなる心地だった。
万里江はくちずけに応えるだけで、全身の力を抜いたまま横わっていた。達哉はブラウスのボタンを外した。脱がせようとすると、万里江がささやいた。
「誰かきたらどうするの。カギは掛けてこなかったわよ」
「うん。掛けてくる」と達哉の口から反射的に声が出た。落着いているのが自分でも不思議だった。躰も心も二つあるような気分だった。万里江と初めて会った頃の自分と、今の自分と。ドキドキしている自分と、こういうことには馴れっこになっている自分と。相手の万里江も二重にダブッて見えた。二重に感じられた。
カギを掛けると、
「暗くしてね」という。
部屋の照明を消した。カーテン越しに外の街の明りが入ってくるのが丁度良かった。
ベッドに戻る前に、達哉はすべてを脱ぎ捨てて真裸になった。すべりこんで万里江を抱き、耳元でささやいた。
「さあ、これからバック・トゥー・ザ・フューチャーだよ。僕の初恋の頃へのタイム・トラベルだ」
「馬鹿ねえッ……」
「覚えているかな。万里江のセーラー服の色は、ほかの子のと少し違っていたんだ。茄子紺っていうのかな。少し赤みがかって、……」
「ウフフフフッ……」
「僕の中には色々な万里江がいる。万里江は僕にとって特別な女性なんだよ。ほかの男には一人にしか見えない万里江が、僕には何人もいるように見えるんだ。あの頃の万里江。……あの頃の万里江と今の万里江。……」
達哉は〈あの頃の万里江と今の万里江〉を繰り返しながら、万里江のブラウスを脱がせ、スカートを脱がせ、下着を剥いでいった。万里江はくすぐったそうに身をくねらせるだ
けで、されるがままになっていた。秘所に指を埋めると、すでに潤い、熱く感じられた。万里江はピクリと身を反らせた。そして、呻くように、
「ウフッウン……。私って、すぐに濡れちゃうの……」
いかにも万里江らしく素直にそういわれて、達哉の腰のあたりは温泉が湧き出したように、急にカッと燃え上がってきた。押えに押えてきた春の嵐が一挙に吹き荒れてくるようだった。だが達哉は慌てずに万里江の全身にくちづけし、指でやさしく愛撫を続けた。あれだけの年月を、あてもなくただこがれ続けてきた瞬間である。少しでもその至福の時を長引かせたかったのだ。やっと万里江の中に入った時にも、再び、〈あの頃の万里江と今の万里江〉を繰り返しささやいた。それは万里江に向けただけではなく、自分自身に対してでもあった。万里江は微笑みながら、ごく自然に応じてくれた。素晴らしい絶頂感の連続だった。頭の中心が吹き飛ぶ思いだった。
万里江はシャワーを浴びると、バスタオルで身を覆ったままベッドに戻ってきた。
「いい気持ちだわ。あなたもシャワー浴びてらっしゃいよ」
達哉は万里江をベッドに横たえててからつぶやいた。
「ここはシングル・ルームだからね。バスタオルは一枚しかないんだよ」
「ウフフフッ……」と笑う万里江からバスタオルを剥がした。
「君は裸のマハだよ」といいつつ、また全身にくちづけした。今度は秘所にも唇を近付けた。これも達哉の積年の夢の一つだった。万里江はいささかも拒まなかった。
だがそれも一夜だけの夢であった。次の旅からまた高藤万里江は、以前と変わらぬ禁断の木の実に戻ってしまったのである。少しでも変化があったとすれば、達哉のアタックをピシャリとはねつけるしぐさが、前よりも厳しく自信に満ち溢れて見えるぐらいのことだった。口でも、
「もう駄目よ。かえって別れがくるわよ」とキッパリいい切るのだった。
そういって少し離れたところをジッと見詰めるしぐさが決まっていて、見事だった。演技ばかりではなく、万里江の人生観なのであろう。いつかシミジミとした口調で、
「私、一期一会って言葉が好きなの」といったことがある。
その時のことを思い出して、達哉は万里江の気持ちの奥底にあるものを推し測っていた。
万里江が部屋に入ってきた。
店の音を遮るために録音スタジオのような気密の重いドアになっている。万里江の匂いが六畳ばかりの狭い部屋に満ち溢れた。それほど強い香水や厚化粧ではないのだが、アレルギー体質で匂いに敏感な塩見には充分過ぎる刺激だった。頭の奥がクラクラした。
「良い匂いだ。恋のスパイスだね、香水は。だけど、料理全体を味わう必要があるな。スパイスだけ嗅ぐのは躰に毒だよ」
「また、そんな冗談ばかり言って。お馬鹿さんね、ウフフッ……」
「冗談じゃないよ。僕はいつも真剣なんだよ」
「いいから、いいから。私、今、時間がないのよ」
「いつものことだね。僕のために割く時間はないんだ」
「また今度。ねッ。どこかでまたマスターズの大会があるでしょ。また旅行しましょ。その時は二十四時間自由なんだから」
「まあ、当てにしないで期待しよう。僕はまた《見果てぬ夢》の続きを楽しんでるよ」
「それで、……」と万里江はいきなり真顔になった。
「私、怖いのよ。恐ろしいテープを聴いちゃったのよ」
「なんだい。急に……」
万里江は黙って化粧台の横の引出しを引いた。中には無線の受信機とカセットデッキが入っていた。
「私、盗聴してたの。密談にうちを使うお得意さんがいるもんだから、最初は悪戯気分だったの。メンバーが揃うと、私や店の女の子を追い払うでしょ。一寸面白くないなと思っていたところへ、週刊誌に盗聴マイクの特集が載っていたものだから、秋葉原まで出掛けてワンセット買ってきたの。テーブルライトの飾りに無線の盗聴マイクを取付けて、ここで録音してたわけ」
万里江はチューインガムを口に入れて噛みはじめた。タバコを止めてからの癖だ。悪戯っぽく唇を歪めると、いささか悪女風に見えてきた。
「やっぱり君は僕のファム・ファタールだな。そろそろ致命傷を与えられる頃なのかな」と達哉は微笑む。
「ファム・ファタールだなんて。生意気いって」と万里江がにらむ。
「ただ運命の女っていうより、悪女って意味でいってるんでしょ」
「まあ、そうだね」
「ウフフフッ……。その密談グループは、防衛庁の幹部と元幹部、つまり、軍需産業への天下り重役連中だったわ。ここ、六本木だから、防衛庁のすぐ側でしょ。予算の前後に談合をやってたわけ。丁度これも週刊誌に暴露記事が載っていたところだったから、私にもピーンときたのね。……私、一寸ばかり株をいじってたから、こっそり情報を利用して儲けさせていただいたわ」
万里江はわざとケロリとした表情を作って見せたが、すぐに真顔に戻って肩をすくめる。
「情報を知っているのは私だけだし、名義も他の人にして置いたし、何万株も買占めるわけじゃないから、誰も気が付かなかったと思うわ。……だけど、今度の話は違うのよ。昨日のことなんだけど、突然、影森さんや風見さんの名前が飛出してきたもんだから、私、ビックリしちゃって、……」
「何、影森と俺だって、……」
「ええ。〈影森たちは知り過ぎている。消すか〉っていうのよ。私、それ聞いた時、心臓が止まるかと思ったわ。影森智樹さんは防衛庁にいたでしょ。珍しい名前だし、一緒に風見さんの名前まで出てきたんだから、もう貴方たち以外には考えられないわよ」
「一体全体、どういう話なんだ」
「ともかくテープを聴いてみてよ。私、また戻って来るから。それまでに。ねッ」
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