『煉獄のパスワード』(6-5)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第六章 カイライ帝国の亡霊 5

「もの書きはそううつ病ぐらいの方が良いという作家がいるけどね」

 達哉は智樹から事件の最近の経過を聞いた後、ソファにくつろいで話題を変えた。

「俺はどちらかというと強迫神経症だね。自分でわざと傷口をかきむしるのが癖になっているんだ。かさぶたがふくれ上がって固まると、またむしる。かえって傷口が大きくなる。なんとか適当な大きさの文章にまとめて発表するまで、それが続くんだ。ところが、今度のアヘン問題では傷口が広がり過ぎて手に負えなくなりそうだよ。今度の事件の関係だけじゃなくて、材料が他にも急に増えちゃったんだ」

 達哉は持参した本を何冊か茶封筒から出して示した。

「つい最近、みすず書房が出した現代史資料の『阿片問題』。こちらは従来から所在が分っていた文書類が中心だ。ところが、もう一つのこれ、『資料 日中戦争期阿片政策』と新書版の『日中アヘン戦争』が大変なしろものなんだ。蒙疆政権の経済部次長だった日本人が隠し持っていたらしい極秘公文書類が大量に出てきたんだね。日本の当局者側の内部文書だから、この種の研究では第一級の掘出しものだよ」

「その手の公文書は、敗戦直後に焼却処分の命令が出た筈だがね」

「そうだ。内務省が連絡を取って、米軍が進駐してくる前にほとんど焼き捨てている。だから、官庁や軍、関係団体、軍需会社に保管されていた基本的な文書ほど、かえって残っていない。今度出てきた資料は、どうやら個人が保管していたものらしいんだ。神田の古本屋が売りにだしたんだが、入手経路は内密にしてくれということになっている。元の持主は大蔵省の高級官僚で、蒙疆政権にいたのは一九四一年、太平洋戦争が始まる年から一年四ヶ月ぐらい。また大蔵省に戻って神戸の税関長とか海運局長とかになっている。その時に自分が持っていた資料を持ち帰ったらしいんだ。余程捨てがたかったんだろうね」

「よくある話だな。防衛庁でも、一次防とか二次防とかの資料を全部隠し持ったままという例が結構ある。俺も相当やっているがね。ハハハハッ……危険なものほど持っていたいんだよ。重要な文書には配る時に番号を振って、会議が終わると回収するようになっているんだけど、これがなかなか守られない。マル秘や極秘のハンコをやたらと押すもんだから、かえって機密書類の権威が薄れてしまっている」

「今度のアヘンの資料は本当の飛切り極秘ものだよ。蒙疆政権のアヘンに関する特別会計の詳しい計算書なんかだから、当局側資料としては第一級の第一次資料だ。東京裁判では、ほとんどが中国側の証言に頼っているけど、それじゃ弱い。今度はピカ一の当局側作成の物的証拠が出てきたわけだ。有力な新証拠発見ということになれば、最高裁で判決が確定した事件でも再審請求が通る性質のものだよ」

「何をいってるんだ。話は逆じゃないか。再審請求は被告が負けた事件に不服で無実を証明するためにやる裁判だろ。日本のアヘン政策の罪状は不充分ながら東京裁判で認められている。それをさらに裏付ける証拠なんだから、誰が訴訟を起こすっていうんだ」

「ハハハハッ……。それもそうだな。だけど要するに、なんとかして裁判をやり直したい気分だね。実際にも東京裁判の判決は、ニュールンベルグ裁判に較べても甘すぎるし、あまり活用されてもいないし」

「仕方ないさ。もともと時期も内容も違うんだ。俺も防衛庁にいた立場だから、これ以上の論評は差し控えるけどね。……それで、話を戻すと、これも、命に関わる問題になるのかもしれないんだが、……」と智樹はいいよどんだ。「今度の事件は相当危険になってきている。……《お庭番》チームの打合わせのテープは全部聴いてくれただろ」

 達哉は軽くうなずいた。智樹から渡されると直ぐに聴いてメモも取ってあった。

「警視庁の小山田特捜刑事の様子をどう思う?」

「様子がおかしくなっているね。だけど、それは皆さんお分りの経過だろ。問題は、小山田刑事が警視総監か警察庁長官あたりから、どういう極秘指令を受けたかということだろうね」

「そうだ。おそらく、そういうことだ」

「きっと《お庭番》チームの仲間にも明かしにくい命令があったんだよ。小山田刑事は警察官は往々にして真犯人検挙を急ぎ過ぎます〉と言っていた。あれが最大限の仄めかしなんじゃないか。もともと、犯人を検挙して表面に出せる事件じゃない。だから、俺の推測をズバリいうと、誰かを殺せ。さもなくば、誰かによる誰かの殺しを見逃せ。そういう話じゃないのかな」

「やはり、そう感じたか。そうだろうな」

「ヴィデオ・テープの確保と、おそらく、目星を付けた北園夫妻と千歳弥輔の抹殺。これが事件の幕引きの条件じゃないのかな。次の問題は、殺し屋は誰かということだ。中国まで出掛けて殺すとなると、例の塾のお兄さん方では難しいだろうね。国際的なプロを雇うかもしれないよ」

「うん。それと、もう一つ、既に陣谷弁護士の口からも、こちらにはっきり伝えられている。《お庭番》チーム以外のメンバーに漏れないようにしろ、出来れば部外者を使うな、ということだ。君のことは陣谷弁護士のレベルでは承知しているが、殺し屋にまで伝わっているかどうか。その辺りが怪しい」

「おいおい。脅かすなよ」

「ハハハハッ……。しかし、これは冗談じゃないよ。今度は気を付けた方が良いな。悪いけど、そのアヘンの新しい資料と大事な傷口を抱えて、じっとしていてくれよ。後の仕事は、俺が千歳弥輔と会ってヴィデオ・テープを確保することだけなんだ。それで、弓畠耕一失踪事件は幕引きのはずなんだよ。俺もそれ以上のことには一切関知しない積りだ」

「おい。俺は了解してひと休みするけど、彼女はどうなんだ。連絡は取れているのか」

「うん。……」と智樹はいいよどんだ。「この前会った時に、危険だから外での調査はしないようにといったんだが、どうも、それが不満らしいんだ」

「気を付けろよ。彼女、何かを調べ始めると夢中になる方だろ」

 達哉にいわれるまでもなく、智樹も原口華枝のその後が心配でならなかった。


(6-6) 第六章 カイライ帝国の亡霊 6