電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第七章 Xデイ《すばる》発動計画 7
だが智樹は一切の感傷を振り切り、問題の核心に迫ることにした。
「千歳さん。失礼ですが、本題に入らせていただきます。事情はこれから申上げますが、私の公式の任務の一つは、スキャンダルの公表による体制側の危機を未然に防ぐことにあります」
千歳はにこやかにうなずいた。
「一応のことは、こちらのルートでも調べました。自分も一種の秘密情報員ですからね、ご同業ですよ」
智樹は率直に実状を打明けた。
公式の立場とは別に、自分なりの情報を蓄積して後日を期していることも告白した。
それは今聞いたばかりの千歳の無料奉仕の研究活動とも共通する立場だった。だが智樹には、いささかも千歳に迎合する魂胆はなかった。今までは親友の達哉だけと共有してきた秘密だったが、初めて親身に聞いて貰える先輩にめぐり会えた喜びを禁じ得なかったのである。智樹は、その上で千歳に協力を願った。
「西谷禄朗こと劉玉貴、弓畠耕一、この二人の変死の真相が分れば、それに越したことはありません。警察では一応、北園和久を疑っています。しかし、私達は真相が分らなくても構いません。問題は、弓畠耕一の死体が発見された現場に、ビデオ・テープの包み紙が落ちていたことにあるのです。これがスキャンダルの種になることを恐れる向きがあるので、何としても押えなければなりません。何かご存知でしょうか」
「ハハハハッ……。さすがですね。いきなり核心を衝いてこられましたね。包み紙を片付け損ねたとは、……やはり素人の仕事でした。まあ、別に完全犯罪を狙ったわけではありませんから、お粗末を笑って下さい」
千歳はふと真顔に返って、大きく息を吸い込んだ。目をつむり、両腕をゆっくりと胸の前に組んだ。
「さてと、……これは、先にビデオの中身を見ていただいた方が、話が早いと思います。ご心配のような、他人に迷惑が掛かる場面はありませんよ」
千歳はすでにこの日を予期していたようであった。
部屋の隅にはテレビ受像機もビデオ・デッキも用意されていた。カセットは二本あった。
「こちらが先です」
といって千歳は、最初の一本をセットし、ボタンを押した。
画面の右に弓畠耕一、左に西谷禄朗が向い合って座っていた。カメラは手持ちなのだろう。画面が少しづつ揺れていた。
禄朗が口を開いた。話し馴れない日本語だから、たどたどしい。教科書を読み上げているような口調だった。
「お父さん。私は色々な事情を人から聞いています。しかし、本当のことをお父さん自身の口から聞きたいのです」
禄朗が〈お父さん〉と言う度に、弓畠耕一の首がガクガクと揺れた。歯を強くかみしめているようだった。首筋がピクピクしていた。
「お父さん」ともう一度、禄朗が迫った。
弓畠耕一の肩が激しく揺れた。顔がクシャクシャになっていた。今にも泣き出しそうな顔付だった。そしていきなり、弓畠耕一の両手が伸びて禄朗の首を掴んだ。画面が激しく揺れた。乱雑に回転し、暗くなった。画面の外から声が入った。
「こちらは俺達に任せろ。ビデオを撮り続けるんだ」
再び画面は元の位置に戻った。今度は四人の男が映っている。弓畠耕一が両手で力一杯に禄朗の首を締めている。猛獣のようなうなり声を発している。禄朗は激しくもがいている。弓畠耕一の後ろから二人の男がしがみついて、剥がそうとしている。一人は千歳。もう一人は見知らぬ顔だが、北園和久であろう。そうすると、ビデオ・カメラを操作しているのは、北園亜登美だということになる。
弓畠耕一が発揮した力は年齢や外見をはるかに越えていた。躰付きも逞しく動作も機敏ではあったが、それ以上のガムシャラな奮闘振りであった。俗に言う火事場の糞力でもあろうか、二人の男に後ろから力一杯引張られているのに、肩と腰を揺すって振り解き振り飛ばし、禄朗の首を締める両手をいささかも緩めない。禄朗の抵抗は散発的になっていった。手足が硬直するようにピクピクする。両手が弓畠耕一の頭を掴む。爪を立てて引掻く。弓畠耕一の額から血が飛び散った。
「これだ。額に傷跡があったというのは」と智樹は口に出していった。
画面が再び激しく揺れ、暗くなり、ガシャンと音がした。床が映っているようだ。カメラが落ちたのだろう。女性の悲鳴が聞えた。人が揉み合う物音がしばらく続いてから、音だけがプツンと切れた。画面にはそのまま床が映っている。
千歳はそこでビデオを止めた。黙ったまま、次のカセットと入れ換える。
画面は最初、白く曇っていた。次第に透明度が増すと、風呂場が映っていた。
浴槽からは湯気が立っている。曇っていたのは湯気のせいであろう。カメラが暖まって風呂場の中と同じ温度になったので、レンズの曇りが取れたのだ。
浴槽には誰も入ってはいない。
そこへ背中を見せながら上半身は裸、白いちぢみのステテコをはいた男が入ってきた。すのこの上を歩く足音が入る。男は浴槽につかり、顔をカメラに向ける。弓畠耕一である。額の傷跡が赤くて生々しい。全身にいくつか紫色のあざが見える。格闘の際の擦傷や内出血の跡であろう。首まで湯につかると、右手に持っていた換刃式のカミソリの刃をカメラに向けて示した後、湯の中でゆっくりと左手の手首に切り付けた。
サット湯の中に血が吹き出す。弓畠耕一は落着いた態度で、使い終ったカミソリの刃を窓枠に置く。画面に良く映るように両手を突出し、顔を昂然と上げる。正面からカメラを見据え、無表情で軽くうなずく。〈良く見てくれ。これは覚悟の自殺なんだ〉とでもいいたげな態度であった。そのままの姿勢で弓畠耕一は目をつむり、浴槽に身を沈めた。全身の力を抜いたような感じであった。
画面が変わらないまま、徐々に浴槽の湯の色が赤く染まっていく。弓畠耕一の躰は次第にぐったりとなり、頭部まで沈んでいく。かすかに呼吸を求めてもがいたのが最後であった。湯の表面の波紋と死体の揺れは次第に収まり、やがて画面は微動だにしなくなった。
千歳がストップ・ボタンを押した。
「これで全部です。両方ともテープは最後まで同じ画面を映して、回り切っています。何も他の場面は入っていません。最初の方は、撮影していた北園亜登美さんが失神して倒れた後、カメラがそのまま放置されていました。倒れた時にマイクの線が抜けてしまったので、後半は音も入っていません。二本目の方はカメラをセットしたのが死んだ弓畠耕一自身だったので、テープが終わるまで回り続けたのです」
「弓畠耕一は戦前からのカメラ・ファン。ビデオ・カメラで孫を映したことがある。だから、操作方法は知っていた。私達が得ていた情報通りです」
智樹が乾いた声でいった。千歳は椅子に落着き、淡々と経過を説明した。
「劉玉貴と弓畠耕一の死因、つまりは自分と北園夫妻の無実は、充分にこのビデオ・テープで証明できるでしょう。公開すれば弓畠耕一のスキャンダルとして騒がれるでしょう。しかし、それだけでは目的を果たしたことになりません。最初の計画から見ると全て失敗でした。弓畠耕一に北園法務官が死刑に処せられた事件の真相を告白させようというのが、自分達の共通した目的でした。劉玉貴にとっては、実の親の罪状を追及することですから、とても辛いようでした。しかし劉玉貴は〈あの男は母親をだまして犯した上で捨てたんだ。卑劣な男だ〉などと叫んだこともあります。複雑な心理でしょうが、いわゆるエディプス・コンプレックスの典型なんでしょうかね。北園和久が計画を持ち出した時には、最初はかなりためらっていましたが、いったん決意すると一番熱心になりました。その彼が逆に殺されてしまって、……」
千歳の頬には涙が流れていた。
「年上の自分が全責任を負わなければなりません。自分は、弓畠耕一が正直に真相を告白することを願うあまり、事態の予測を見誤りました。自分は、撫順の日本人戦犯収容所での経験から、今度の問題を、一般の戦争犯罪の告白と同じレベルで考えてしまいました。かっての日本人捕虜は中国人に対して犯した残虐行為をほとんど素直に告白しました。しかし、後から考えると弓畠耕一の罪は同じ日本人に対する犯罪でしたし、もっともっと複雑で根が深いものだったのでしょうね。親友を裏切って死に至らしめ、その親友の妻を奪った。犯罪的な判決で自らの職責を汚しながら、司法界の最高位に昇った。しかし、弓畠耕一の罪の根は中国の大地に深く埋もれて残っていました。中国から現れたかっての罪の子に対面を迫られることは、それら全ての過去の罪状と向い合うことでもあったのでしょう。あの時の猛り狂いようは、ただただ恐ろしい限りでした。彼は本当に誰を殺そうとしていたのでしょうか。自分には、彼が殺そうとしていたのは過去の彼自身だったのではないかと思えてなりません。自殺は単に、その作業の続きだったのではないでしょうか」
「ともかく、最高の知的エリートの立場にあった人物です。相当に複雑なコンプレックスを抱えていたんでしょうね」
智樹は喉の乾きを咳払いで押えた。
「余程の悪人でも自分の死を見詰めることが出来るぐらいの知性の持主だと、いわゆる白鳥の歌を残したくなるそうですが、……。そうでもしないと死が尚更に恐ろしいものになるのでしょう。キリスト教のザンゲは、そういう人間の心理にかなったものだと思いますね」
「残念なのは、やはり、真相の告白を得る前に自殺されてしまったことです。自分達も、劉玉貴の死で混乱してしまいました。慌てていたし、疲れ切っていました。弓畠耕一は劉玉貴が死んだのが分ると急に力が抜けたようになり、〈全てを告白する。一晩寝かせてくれ〉と言いました。劉玉貴の死体をそのままにして置くのは気になるので、北園和久が山奥に隠すといって運び出しました」
「隠す、といったんですか」
「そうです」
「それで合点がいきましたよ。捜査に当たった刑事が、あれはお通夜の死体のように丁寧に寝かされていた、といっていたそうです」
「北園和久には、犯罪を隠すという意識がなかったのでしょう。一時しのぎだったんです。しかし、翌日になっても弓畠耕一は虚脱状態で何も告白しようとしない。もう一晩待ったみたら、風呂場で死んでいる。しかもその日の朝刊には、劉玉貴の死体発見が報道されている。警察の動きは予想以上に早い。ビデオ・テープで我々の無実は証明出来るはずですが、公正な取扱いを受けられるかどうかは確信できません。本来の目的を達成していないのに、わざわざ名乗り出て大騒ぎに巻き込まれるのは御免です。困り切ってしまって、ああだこうだと議論しましたが、ついに、三十六計逃げるに如かず……」
千歳はさびしく微笑んだ。
「まあ、私達の仕事から見ると、名乗り出られては困ったでしょうね。弓畠耕一は病死という発表でおさめましたから」
「ええ。それは日本から届く新聞で知りました」
「私のここでの仕事はビデオ・テープをいただければ、一応終わりになりますが、北園夫妻はどうしているのでしょうか」
「あの二人は旅に出ました」
千歳は目に涙を湛えていた。遥か遠くを眺めているようだった。
「ハルビンで北園和久の実の母親である劉淑琴、西谷奈美に会う。父親が処刑された張家口に寄る。蒙疆一帯から新疆の奥地を旅すると言って出掛けました。今頃はタクラマカン砂漠あたりをランドクルーザーで走っているんじゃないでしょうか」
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