『煉獄のパスワード』(7-2)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第七章 Xデイ《すばる》発動計画 2

 翌日の《お庭番》チームの打合せに、智樹は《すばる》関係の極秘資料を持って出ることにした。

《いずも》のメンバーなら一応知っているはずの内容だが、細部を確認する必要を感じたのだ。とくに便宜上一括して〈戒厳令〉と呼んでいる様々な非常事態法に関しては、複雑な問題点が多かった。智樹自身、防衛庁を離れて五年も経っている。立場が変わると違って見えてくる部分もあった。

 電車の中では陸上幕僚監部法務課が作成した『国家緊急権』をパラパラめくってみた。

 B5版で三〇九ページにも及ぶ大研究である。一九六四年七月発行だから《三矢研究》の翌年になる。執筆に当たったのは法務官の益田繁人三等陸佐で、国際的にも範を求めた比較法的研究になっている。なかなかの力作と評価され、その後の緊急事態諸立法に方向付けをした決定的な論文である。これが配布され部内での共同研究の資料となっていた頃には、当面の実務作業の方に頭が行っていたものだが、今読み返すと、執筆者の思いの方が目立って見えてきた。立論の強引さや論旨の矛盾も目に付く。智樹は、立泉匡敏元陸将が石原莞爾の論文を酷評した時のことを思出した。共通するのは、論旨の出発点が大上段で現実の土台を欠いていることであった。

 冒頭、「現行憲法における国家緊急権」の「序説」はこんな調子だ。

「明治二二年に、『不磨の大典』として制定・発布された大日本帝国憲法は、大東亜戦争の結果ポツダム宣言により、根本的かつ全面的に変革されてしまった。……

 旧軍は悉く解体され、統帥権の独立の原理はおろか、軍の存立の根拠をすべて抹殺され一兵をも止めぬ完全な無防備国家として再出発したのである。したがって軍の存在を前提として設けられていた戒厳及び非常大権の規定は勿論、立憲君主制憲法に特有の制度と考えられていた緊急命令の制度等、およそ国家緊急権の範疇に属するものはすべて抹殺されてしまったのである。……

 西独は東西両陣営の対立の中にあって、平和条約の締結と同時に憲法改正に踏み切り、再軍備を実施し、更に国家緊急権の制度化を目ざして基本法の第三次改正に着手している……

 わが国においては戦争放棄に関する憲法第九条の解釈のみにこだわり、いまだに憲法改正の是非についてさえ国論の統一がはかれず、したがって国家緊急権に関しても第二義的な問題として焦点からはずされ、楽屋裏に閉じ込められている状態といえよう。果たしてこれでよいのであろうか。……」

 当時の先輩の文章が、二十年後の今では、血気に逸る若者の気負い過ぎた文章として見えてくる。当り前のことだが、やはり不思議な気がする。文章形式の古さも、かっては学識と権威の象徴と映ったのに、今では時代錯誤のこけ脅かしにしか感じられない。

 明治憲法を『不磨の大典』として位置付けることに対しては、当時から違和感があった。

 智樹は戦後の新制中学発足と同時に中学一年生になっている。いわば自分達が戦後派世代の一つの象徴だという意識を持っていた。新憲法発布も日本の独立回復も目の前の出来事であった。確かに智樹は自分の意思で防衛大学に入り、自衛官になった。それは父親の希望に沿ったものでもあった。だが智樹には、自分なりの考えもあったのであり、それは決して明治憲法体制への復帰を望むような心境ではなかった。

 少年期からの思いを手繰ると、智樹自身、意外にも素直に感覚的に外界に反応してきたのだなと気付く。

 一方には新憲法への感激があった。しかしもう一方には、自分の成長とともに次第に高まる民族意識があった。その出発点は、満州で目にしたソ連兵の暴行の数々への怒りであった。次には、日本を占領したアメリカ兵をめぐる屈辱の思い出であった。歴史が好きだった智樹は、日本人としての誇りを強く意識するようにもなっていた。

 智樹の母親の死は、満州でのソ連兵による暴行が原因となっていた。それ以上のことを想い出すのは、智樹にとって辛いことであった。

 智樹の思想が容易に左翼に傾かないのは、そのためである。しかし、ソ連との対決を深めていたアメリカに対しても、智樹は強い嫌悪感を抱いていた。引き揚げ後に身を寄せた叔父の住まいは、今の調布市の外れ、京王多摩川にあった。今の京王閣競輪場は当時、進駐軍用のダンスホールになっていた。いわば準基地の街であった。夜毎の嬌声。朝の小学校の校庭に捨てられていたコンドームの白濁。アメリカ兵のかっぱらいの酷さをこっそり話す土産物屋の女の子の泣きべそ顔。〈キスしてもいいわよ、ってのは英語で何ていうの?〉と大声で先輩に教えを請う年頃の娘。〈僕を軽蔑しない?僕の姉さん、オンリーなんだよ〉と物陰で打明ける気弱な友。……

 アメリカ文化が氾濫する世相の中で、智樹の心理は複雑な屈折を繰返していった。

 だが、そうかといって、いきなり『不磨の大典』などという聞き馴れぬ時代錯誤の表現に同調する気分にはならなかった。明治憲法、即ち天皇制国家は、智樹にとってはすでに過去のものであった。天皇は、智樹の素直な記憶を辿ると、あの八月十五日の奇妙で意味の分らぬラジオ放送の主として初めて意識に上っている。

 その前にも三年間、張家口の国民学校で毎朝の朝礼の時、必ず東を向いて宮城遥拝をしていたはずなのである。だが、その三年間の習慣にも拘らず、天皇という存在に対する実感は非常にとぼしかった。

 乗っていた地下鉄が霞ヶ関駅に近付く頃、智樹の頭の中で、コンピュータ作業に似た記憶の閃き合いがパチパチと音を立て始めていた。

 問題は事実経過だ。キーワードは〈国家緊急権〉、〈クーデター〉……とつながって行く。その底流には、同じ観念が潜んでいるからだ。

 御楯会を主宰し、自前の制服までデザインしていた鮫島征男の決起、そして失敗を自覚した後の自刃が一番の典型であろう。日本のクーデター企画者は戦前戦後を問わず、すべて最終的には、抽象的な日本精神とか天皇とかを祭り上げている。なぜだろうか。彼等が無意識に自分達の狂気の論拠を、それで補強する必要を覚えるからではないだろうか。逆にいえばそれは、〈クーデター〉の大義名分の神がかり的性格を示すものであり、〈国家緊急権〉または〈戒厳令〉の法的根拠の薄弱さの告白だともいえる。

〈戒厳令〉はかえって国家を危機に追込むものであり、不必要である。そう論ずる法学者が何人もいることを、智樹は改めて思い出した。

 さらには、実戦さながらの治安出動訓練をも……

 

「ただいまから暴徒を鎮圧する。掛れ!」

 連隊長の怒号が高性能スピーカーで轟いた。

 千五百名の〈治安出動部隊〉が千名の〈デモ隊〉目掛けて一斉に突進を開始した。智樹は足下の大地が揺らぐのを感じた。検閲台の上に立つ陸幕長さえも、必死に歯をかみ締めて動揺を押えているように見えた。

 一九六九年一〇月四日、北海道は千歳の原野で、陸幕長検閲の治安出動訓練が行われた。前日の三日には東富士演習場でもマスコミ向けに公開訓練を行っているが、四日の方が規模も十倍で内容も厳しかった。防衛庁は三日にマスコミ関係者を引き付けて置いて、秘密裡に翌日、本命の訓練を北海道で実施したのである。タイミングとしては翌一九七〇年予定の日米安保条約の再改訂と、それへの反対運動に焦点が合っていた。

 三日の公開訓練の模様を『サンデー日々』はこう描いている。

「戦車が地響きをたてて進む。黒煙が濛々と上がる。真上の戦闘ヘリコプターからは迷彩服の空挺隊員が縄を伝ってスルスルと降りてくる。突撃ラッパが耳元で鳴る。鉄兜に小銃。完全武装の兵士の群れ。恐ろしい、なんて生易しいものではない。まるで戦場だ。いきなりタイム・トンネルをくぐり抜けて激戦地に放り込まれたかのようなショックに襲われた」

 

 デモ隊が百名でAビルとBビルを占領し、二百名の治安出動部隊がそれを制圧するというのが、三日のマスコミ公開訓練の規模と主な内容であった。AとBのビルは建物だけで、その業務内容は定かではなかった。

 だが、四日の秘密訓練は、参加人数も十倍であり、〈N地区の暴徒〉を鎮圧すると同時に〈N地区を封鎖〉し、〈N放送局〉〈A新聞社〉〈B電力会社〉などの重要機関を〈警護〉するという具体的な内容になっていた。〈警護〉は現実的には〈占領〉である。〈封鎖〉と〈占領〉を合せれば、戒厳令の原型である〈合囲〉下の状態と同じである。だから、この訓練が秘密裡に実施された理由については、参加した自衛隊員が〈クーデターのための訓練ではないか〉と内部告発した結果、国会でも問題となった。

「抵抗を止めて解散せよ!」

「解散しなければ実力を以て排除する!」

「催涙弾発射!」

「放水開始!」

「戦車前へ!」

「障害物を突破せよ!」

「首謀者を逮捕せよ!」

 デモ隊は火炎ビンを投げる。古タイヤに火を放つ。猟銃を撃つ。

 催涙ガスが漂う中を消火器を抱えた治安出動部隊が前進する。隊員は小銃を肩に掛けているが、その訓練では撃たなかった。だが、……

 智樹は今、かって自分の目の前で展開された〈N地区〉の訓練を、あの焦げ臭い風の匂いとともに思い出す。

 

 一九七一年には、匿名の一等陸佐を執筆者とする論文「国家と自衛隊」が発表された。

 掲載誌は『兵学研究会記事』第六号であるが、この雑誌は、陸上自衛隊幹部学校の校長を理事長とする〈陸上自衛隊幹部学校兵学研究会〉の機関誌であった。『兵学研究会記事』には〈取扱注意〉と付記されていたが、この論文は外に漏れ、四年後の一九七五年、〈自衛隊のクーデター研究〉であるとして国会で追及された。

 この雑誌を手に取っただけで、脳裏にチリチリと刺激が走った。忌わしい事件につながる記憶があるのだ。智樹は歯をくいしばって、意識を遮断した。

 論文「国家と自衛隊」は〈前言〉、〈一、自衛隊の本質〉、〈二、自衛隊の守るべき体制〉、〈三、予想される体制の危機と問題点〉、〈結語〉という構成になっていた。

 問題点は特に〈三、予想される体制の危機と問題点〉の論調にあった。

 そこでは、〈いわゆる平和革命と申しますか、東欧或いはナチス型の形式上は合法的ななし崩し革命にあたり、自衛隊自身その行動の去就に迷う場合〉という問題が立てられていた。そして、〈東欧やナチスの二の舞から国民を救う為には、機先を制してクーデターを敢行し、究極目的として現行憲法秩序体制を維持するのが自衛隊の真の任務であるとする積極論〉の存在を示しつつ、〈もしも、議会民主主義のルールを護らず強圧的に独裁体制に移行する段階においては、もはや我々の護るべき体制ではあり得ず我々はそれに従うよりもむしろその体制を打倒して本来の憲法秩序体制に復帰させるべき使命があるものと信じております〉という結論を引き出していた。

 だが問題は、一体誰が事態の判断を下すのかということであろう。

 その答えは、もう一つの力点の置かれ方を見れば分るのだった。そのような事態における〈幹部の心構え〉についての主張である。

 論拠は外国の実例に求められていた。〈『軍隊と革命の技術』の著者、K・コーリ夫人は豊富な例証をあげて歴史の結論として、革命が成功するか否かは正規軍隊の動向、特に将校団の動向如何がその成否を決したと述べております〉とし、さらには、インドネシアの反革命クーデターの実例が挙げられていた。また、いささか趣旨が重複するが、〈現憲法秩序体制を破壊する兆しのある場合における自衛隊の行動は、国民の動向と関連してタイミングの選定が必要であろうかと思いますが、機敏果敢に行動して禍根を絶つ必要があろうかと思います。……日本の革命を左右するものは自衛隊特に幹部の動向であることを自覚して更に憲法秩序体制護持の覚悟を新たにしたいものとおもいます〉という決意を述べているのである。

 外国の事例の〈将校団〉を〈自衛隊特に幹部〉に置換えた論調は、シビリアン・コントロールの否認と取られても仕方なかった。その他にも確かに、野党が追及したような問題点は多々あった。

 智樹はその時、防衛庁本庁の防衛局調査課にいた。問題の論文の執筆者も知っていた。

 調査課は旧軍の憲兵隊が担っていた軍事警察の機能を引き継いでいる。だから、この種の論文に見られるような突上げグループの動向は一応押えていた。とりわけ動きが目立つグループの一つを調査課内では《白虎会》と名付けていた。幕末の会津藩の白虎隊に因んだ命名ではない。彼等が、当時の憲政党の若手タカ派の集りである《青龍会》とつながっていたので、その連想による命名であった。〈白虎〉と〈青龍〉の対比に中国では別の意味を持たせているが、調査課の命名には他意はなかった。

 智樹の脳裏にチリチリと蘇えろうとしていたのは、その《白虎会》のメンバーである。

 《白虎会》の強力な後楯として名が聞こえていたのが当時は現役陸将、装備本部長の角村丙助であった。すでにその頃から角村と兵器工業会とのつながりや金回りの良さが噂されていた。《白虎会》の若手を連れ歩き、六本木界隈で飲んではオダを上げているという報告も何度か入っていた。

 パチパチと脳細胞のシナプスを焦がして古い記憶が動き出す感触。……

〈あの粘っこい声の男は、確か、……〉

 あの時分、智樹はいささかシニカルな気分に陥っていた。

 一九六六年に〈陸上自衛隊幹部学校兵学研究会〉が結成された時には、智樹も期待をふくらませたものだった。〈研究会〉という言葉が妙に新鮮に感じられたのである。ところが、旧軍幹部だった先輩達の提案で『兵学研究会記事』という機関誌の名前が決まった頃から、プーンとカビ臭い匂いが漂ってきたのである。『……記事』という雑誌名は一見しただけでも、なじめるしろものではなかった。古い大学の『……紀要』と同じく、智樹らの戦後世代の語彙にはない用語なのである。不思議に思って先輩にたずねてみると、旧陸軍の現役将校が全員強制的に加入させられていた将校クラブ《偕行社》の総合機関誌、偕行社記事』をしのぶ命名なのだという。

 旧軍には兵学研究の自由が全くなかったといって差支えない。それは、日本独特の天皇の統帥権とも関わる問題点であって、現在の防衛庁関係者は一応正しく歴史的批判を下している。陸軍唯一の官製機関誌『偕行社記事』は、いわばその〈兵学研究の自由〉を閉じこめる上意下達の場であった。ところが、その名をしのぶ気分が『兵学研究会記事』の命名に反映しているのだった。

 問題はさらに、気分だけで済むものであはなくなった。論文『国家と自衛隊』に代表される〈現憲法秩序体制〉維持の主張の本音は〈現体制〉維持にあった。いや、それ以上であろう。同じような論者が別の所では、憲法第九条などの改正を主張するタカ派の改憲論者だったりするのであった。

 自衛隊をめぐる状況はますます政治的になっていった。

 

 その後、自衛隊の治安行動用の兵器や装備が次々に整備され、主要都市周辺の基地に常備されている。

 個人装備としては、防石面つきヘルメット、防弾チョッキ、防石タテ、長木銃、催涙ガス弾とその発射銃、小銃、短機関銃、機銃など。

 治安行動用部隊装備としては、防石ネット、有刺鉄線、バリケード用器材、移動障害壁車、放水車、マイク車、現場調査用カメラ、盗聴器、拡声器、照明燈、指揮用装甲車など。

 治安行動用重装備としては、ブルドーザー、クレーン車、治安出動用装甲車、ヘリコプター、軽火砲など。

 特に、首都東京の周辺に配置された各部隊は、一夜にして首都を封鎖し制圧しうる態勢に置かれている。一九七四年の春には関東周辺の図上演習が行われた。夏には本州と四国の陸・海・空自衛隊が合同して〈大震災対処演習〉の名目による〈非常呼集〉の訓練を実施したが、出動態勢は三時間で完了した。


(7-3) 第七章 Xデイ《すばる》発動計画 3