『煉獄のパスワード』(8-2)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第八章 《時限爆弾》管理法 2

「ロッポンギー、ロッポンギー……」

 地下鉄の六本木駅でホームに降りてから、智樹はハッと気がついた。

 弓畠未亡人と能の取合わせに眩惑されたまま、身の危険に気を配ることを全く忘れていたのだ。

 このところのストレス解消の努力が効果を挙げているせいもある。だが、やはり平和な日常に馴れ過ぎていたのだろう。《お庭番》チームの打合わせで小山田警視からも注意されたように、状況が変化している。ところが智樹は、いつものように気楽に防衛庁を訪れようとしていた。

 今は防衛庁の近くを特に警戒しなくはならないのだ。

〈スパイなら落第だな〉と苦笑してしまう。

 考えてみれば頭だけの情報機関員で、スパイの実戦訓練をしたこともないのだった。

 駅ビルの中から電話をして徳田三佐を喫茶店に呼び出した。背広に着替えてこいと注文する。

 興亜協和塾関係者の調査の礼をいい、新たに矢野島菊治郎の調査を頼む。弓畠未亡人の名は出さなかった。

「分りました」と徳田は特に理由も聞かずに二つ返事で引受けたが、「あっちの方はどうなっているんですか」とXデイ《すばる》発動計画に話を戻す。

「それが、君の調査以外には新しい情報もないし、現場に踏みこむための政治工作も進展がないんだ」

「そうですか」と徳田は一瞬黙りこんだ後、ためらいがちに口を開いた。

「影森さん。これは全くの風評なんですが、だいぶ前に耳にしたことなんです。……道場寺満州男はその名の通りに満州で孤児になったとかで、それも、母親がソ連兵に犯されそうになって父親が抵抗したものだから、二人とも殺されたのだとか、……」

「そうか」と軽く応じたが、智樹の心臓はグサリと突かれていた。

「そういうことも昔にはあったのだろうね。俺の知ってる防大の先輩には意外に引き揚げ経験者が多かったよ。これも、なにかの因縁だね」

「しかし、そういう家族のうらみや執念がクーデター計画にこめられていたら、怖いですね。なんとか早目に手を打たないと危ないですよ。その、……殺しの場面とやらのビデオ撮りが終わってしまえば、あとはクーデターの本番までは動きを押えにくいでしょ。なんの証拠もないんですから」

「うん。そうなんだ。俺もジリジリしているんだが、どうしようもない。防衛庁の中でも動きはないのか」

「全くありません。お分りのことでしょうが、そこが今度の計画の特徴でしょ。自衛隊の実戦部隊関係者を事前の打合わせに引っ張りこむ必要が全くない。だから、仲間割れの可能性は少ない。発覚しにくい。必要なのは殺しの場面のビデオ・テープ、一握りの偽装暴徒集団。それだけでしょ。マスコミ、警察、自衛隊などは、全て既定の非常事態マニュアル通りに動く。そうでしょ」

「そうだ」

「考えたもんですよ。彼等は単なる引き金なんです。核戦争の引き金を狂った軍人に預けているようなものです。僕はこれ以上の尻ぬぐいは御免こうむりたいですね」

 防衛庁の本庁と現場の意思疎通は相変わらず悪いようだった。前年の夏に起きた東京湾での自衛艦うずしおと観光船江戸丸の衝突事件の処理では、海幕の現場が調査課に連絡せずに記録の改ざんを図っていたため、海難審判がますますこじれそうだという。

 徳島はそのほかにも、最近の防衛大学の入校者の三分の一近くが途中退学や任官拒否をしたり、自衛隊員募集がますます難しくなる現状などについて、ひとしきりぐちった。国際的な軍縮ムードの影響もあり、軍人という職業の終末が近付いているのではないか、というのが、〈あくまで個人的に〉と断って打明けた徳島の最近の想いであった。

 そのような自衛隊をめぐるムードの中で、クーデター計画はいかにも突出している。そのあたりの違和感が頭の隅に引っ掛かったまま、智樹は徳島と別れた。

 

 翌日早朝、《お庭番》チームの招集がかかった。

「道場寺満州男は孤児でした」と小山田が報告する。

「満州男という名前は満州支配時代に生れた人にはよくあるんのですが、戦後生れではめずらしいでしょ。あの老人、久能松次郎が満州から連れ帰ったらしいんです。名付け親も、あの老人のようです。まさに子飼いの子分ですね。戸籍は別になっていますが、防衛大学の寮に入るまでは戦後一貫して住所が一緒でした。四十三歳で独身。犯罪歴なし。柔道五段。空手三段。運転免許はバイクから大型車、特殊車両、モーター・ボート、自家用飛行機まで。自動車の二級整備士、無線通信士の資格もあります。アメリカでの特殊部隊訓練とアンゴラでの傭兵の経験を加えて考えれば、こんなに危険なプロの匂いのする男は今時あまりいませんね。どうですか、影森さんも似たような訓練を受けているんでしょうけど、……」

「いやいや」と智樹。「私より十歳は若いし、やはり直接対決はしたくない相手ですね。ハハハハッ……」

「それ以外には情報がないんですが、それがかえって不気味ですね。陰に潜む感じです」

「某議員の秘書から聞いた話ですが」と絹川が内緒話の口調。

「道場寺満州男は表に出ないが、興亜協和塾の政治献金ルートをしっかり押えているそうです。いざとなれば、その情報だけでも政界ににらみを利かすことができるのではないでしょうか。ルクリュテ政治献金リストの暴露であれだけの騒ぎになった折りから、こわい男だという位置付けでしょうね」

 智樹は徳島三佐の意見を伝え、改めて今度のクーデター計画の特徴を強調した。

「日本全体の平和ムードとの落差が、ここでは逆のバネに働いているんです」

 智樹が前日から考え続けていた問題点である。

「最初に秩父審議官から指摘があったような、〈まさか〉という感じの今の政治状況が、興亜協和塾の連中には我慢ができない。このまま行けば彼等はますます孤立する。だから、逆にはねるんです。そういう状況だから、戦術は当然、少数精鋭型になります。偽造ビデオ・テープと一握りの偽装テロ集団。しかし、軍資金は豊富。緊急事態を布告させる状況さえ作り出せれば、あとは機械のように自動的にマニュアル通り動く巨大集団の存在。ここが一番怖いところです」

 一同の目付きにますます真剣さが加わっていた。


(8-3) 第八章 《時限爆弾》管理法 3