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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』10

行列の横をアメリカ兵が陽気に往き来していた

 波止場の長い行列はいっこうに進まなかった。僕はそれらをじっと堪えていた。妹を背負い、水の一杯入った真鍮の湯タンポと三国志の風呂敷包みを両手にぶらさげていた。父は何度もまた買ってやるからと言ったが、このチカラさんの遺品を手離す気にはなれなかった。それは北京で門番の子にやってきたあのスケート靴などとはまるっきり違ったものであった。僕等の持って帰れる荷物は限られていたが、僕はその分だけ余計に負担すると言い張ったのだった。だから僕はそれらの重さに堪えなくてはいけなかったのだ。

 行列の横をアメリカ兵が陽気に往き来していた。その中の一人は僕の気づかったとおりに近寄って来た。港についてから何度もあったことだが、そのアメリカ兵も笑顔で僕の背中の妹を覗き込み、英語であやした。僕はそのたびに妹が足をばたつかせるのも手伝って、そんなアメリカ兵の気紛れがわずらわしかったのだ。だがその時行列が動き始めると、そのアメリカ兵はなにやら呟いて僕にもほほえみかけ、両手の荷物を軽々と奪い取り一緒に並んで歩き出した。

 行列がのろのろ進み、また淀んだ時、アメリカ兵は僕に荷物を戻した。すると父は、

「サンキューベリマッチ。」

と言うのだった。僕はその意味を知っていた。チカラさんはあの時、戦争に敗けてサンキューベリマッチもないもんだ、と言った。父は戦争に敗けたからそういったのではなかった。僕にはそんなことはよく分っていた。だけど、その言葉はかなしい響きを感じさせるものであった。しかし、そのアメリカ兵は喜び、僕の頭を撫でて、意気ようようと立ち去るのだった。

 妹の和代はタラップを上る時、足をばたつかせて泣きわめき、僕をよろめかせた。僕はその重みを黙ってこらえていた。汽笛が妹の泣き声を消し、僕を無感覚にするのだった。

* * *

 東京の電車は物凄い混みようだった。きたならしく狭い車内に、うす汚れた大人達がものうく押し合っていた。窓にへばりついていた僕の眼には、東京は破壊されたビルディングと焼けトタンの急造バラックの群として展開していくのだった。

 帰国してから暫くの間ころげこんでいた、田舎の親戚の家のワラぶき屋根の重量感と、この焼け跡の都会とを思い較べる僕にとっては、もう一つの夢を失うまいとする努力も空しく感ぜられた。東京で仕事が見つかった、という父からの報せに、久し振りに眼を輝かせた母は誰にいうともなく呼びかけたのだった。

「さあ、また始めからやり直すのよ。東京でやり直すのよ。」

 だから、僕の夢として残された東京は、新しい未来を覗かせていたのだ。そしてそこには何かがなくてはならなかった。北京の公園や、田舎の小川や、茸狩りの森に代る何かがある筈だったのだ。

 僕は何物をも見逃すまいと、窓枠にしがみついた。大きな建物も時には現れた。母は僕にその名を教えてくれるのだった。しかし、僕の探していたのは、あの万寿山の御殿のように美しいものだった。そして僕は、あの池のように澄み切った流れを見つけて、北京の夏のように戯れたかったのだ。だが線路の傍らに濁った堀を見つける僕自身は、すっかり変ってしまったように思えた。僕は崩れた石垣に身をささえている、焼けて裸になった柳の木を、眼が痛くなる程、見つめているのだった。

(完)


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資料編 第15回(メルマガ2008年11月13日号分)

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写真1:『戦後引揚げの記録』若槻康雄 時事通信社 1991年12月10日より引用。写真説明:「満州引揚げ基地コロ島にて 苦難の逃避行の末、引揚船に乗りこむ幼女(昭和21年7月・同地桟橋)」
撮影者:飯山達雄氏。飯山氏の『小さな引揚者』(飯山達雄=写真・文 草土文化 1985年8月1日)の裏表紙になっている。同書94~103頁のカメラをとおして見た引揚者の姿―あとがきにかえて」(クリックすると別ページが開きます)に飯山氏が民間人引揚者の惨状を撮影し、当初動こうとしなかったGHQに突きつけた経緯が書かれている。
この経緯は飯山氏の『敗戦・引揚げの慟哭』(1970年)にもう少し詳しいものがある。

写真2:『日中戦争 日・米・中報道カメラマンの記録』平塚柾緒編著 翔泳社 1995年7月20日より引用
写真説明:日本人引き揚げ者の警護に当たる米海兵隊員。これらの引き上げ者は青島から博多に向けて、毎日3000人がLSTで送られた。

写真3:『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年』毎日新聞社 1975年 206頁「写真ドキュメント(日宇弘海氏撮影)佐世保引揚援護局―入港から帰郷へ」より引用
説明文:20年10月14日の第1船から、25年5月1日の閉鎖まで140万人の引揚者を迎え、送り出した佐世保援護局では、この間1216隻の引揚船が入港。その度に同じ光景がくり返された。これは多忙を極めた21年の記録である。
写真説明:いよいよ上陸。米軍の厳重な監督をうけた。

写真4:『1億人の昭和史 4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年』毎日新聞社 1975年 206頁「佐世保引揚援護局―入港から帰郷へ」より引用
写真説明:20年12月25日からDDT消毒が始まった。

写真5:『従軍カメラマンの戦争』写真・小柳次一 文/構成 石川保昌 新潮社 H5.8.5 232-233頁より引用
写真説明:20年6月、神田明神から東京空襲で焼け野原になった上野方面を撮影。小柳が保存した戦争中最後の写真。高所からの撮影は禁止されていたが、あったことを撮影して記録するのがカメラマンの務めだと小柳は言う。

写真6:『東京大空襲の記録』東京空襲を記録する会編 1982.3.10 〈復刻版〉2004.8.15 三省堂 46頁より引用
写真説明:焼け跡を前に立つ黒い迷彩を施した国会議事堂 1月27日


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