木村書店WEB文庫 メルマガ案内

『僕等は侵略者の子供達だった』準備号と資料

木村書店WEB文庫メルマガ4
『僕等は侵略者の子供達だった』

(まぐまぐ:2008.11.13第15回にて完結いたしました。)


メールマガジン創刊準備号
(注:2008.11.13 第15回にて完結いたしました。
木村書店WEB文庫『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』
として無料公開しています。)

『資料編1・2』は、各回に分散掲載しました。

■木村書店Web公開シリーズ4  ★等幅フォントで御覧下さい。★
----------------------------------
Vol.0(2008.07.31創刊準備号)
┏┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻ ┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┓
僕等は侵略者の子供達だった
┗┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳ ┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┛
゜οO◯1946年、北京から引揚船で送還された少年の物語Oο。゜

 1945年8月15日、8歳の夏、著者は北京の国民学校の講堂で、当時の「国民型」ラジオ受信機から流れる全く意味の分からない、「チン」で始まる奇妙な声を聞きました。その後「チン」というのが天皇のことであり、日本が無条件降伏したのであり、戦争に負けたので、これは敗戦であると教えられました。

 以後、しばらくの間、著者の一家は、セメント工場の技師の父親が働く北支那開発公社株式会社の社宅――そこには社員の数家族が一緒に暮らしていましたが、元は中国人富豪が住んでいた宏大な高い塀を巡らせた城郭のような屋敷でした――の重い扉の内に閉じ籠もることになりました。外出は禁じられました。

 その間の非常に印象的なある日の出来事に始まる著者の戦後史を、15年後に、8歳から10歳の頃の子供の文章として綴り、同人誌上で発表しました。現在読み直しても、みずみずしい感性の息づく文章です。

 その文章を元に15回に分けて、引揚げに関する参考写真・文献などを資料編として引用しながら、お送りします。引揚時、写真の持ち帰りは禁じられていたので、著者の当時の写真は残念ながら残っていません。

以下は、一部を引用した予告編です。

☆οO◯Oo。・゜゜・♪οO◯Oo。・゜゜・★

時 代 の 始 ま り

 あの日、古びた重い鋲打ちの木の扉をパラパラと叩くつぶての音が、僕にとっての敗戦の知らせであった。その小石を投げていたのが、顔見知りの朝鮮人の子供であったことは僕を悲しい静かな怒りで満たしはしたが、僕はそれを誰に向ければいいのかは知らなかった。彼等の甲高い日本語の罵声、ぼんやりと、しかしなぜか、心の中ではっきりと意味が掴めたと思えるあの奇妙な、そして僕等の喧嘩のルールに外れた言葉、その激しい響きが最初から僕をうちのめしていた。

 「お前等、アメリカ兵が恐くて外に出られないんだろう」

 僕はそれまでにアメリカ兵なんて見たこともなかったけれど、そう言われて、何も言い返せなかったのだ。僕の手は、手垢で黒光りした鉄の把手をカタリと落としていた。

----------------------------------

(本編をお楽しみに)

著者 木村愛二:1937年父の転任先の山口県生まれ。福岡県で育ち、1942年に北京に渡り、敗戦の翌年1946年に福岡県に引揚げる。その後は東京で成人。両親はともに九州人。

補足:著者の父(注1)は、セメント会社の技術者で、徴兵はされず、その代わりに、北京郊外の北支那開発公社株式会社(注2)の工場に出向になりました。一家は単身赴任の父親の後を追って、戦争中、北京に住み、そこで敗戦を迎えました。  敗戦後、民間人の一家は、北京からの引き揚げの際には、自分たちが身体で運べるものしか、持ち帰れませんでした。

 いわば「着の身、着のまま」で、北京から港までは石炭輸送用の無蓋の貨物列車で、その先はアメリカの大量製造の軍用輸送船、リバティで、九州の佐世保港に送還されました。

 港で、上下を破いた袋を被せられ、米兵からDDTを散布され、貰えたのは、大人から赤ん坊まで含めて1人当たり、新円の千円札が1枚だけでした。

 父の務めた北支那開発公社株式会社は国策会社でしたが、公務員でも軍属でもなく、そのため恩給ともまったく縁がありませんでした。

 九州にあった両親の自宅は、製鉄所が爆撃される時の延焼を避けるために、政府当局によって、破壊されていました。

(注1)父 木村勲:戦前の旧制の帝国大学時代に九州大学工学部に学び、旧・浅野セメントに入社、中途、北支那開発公社株式会社(注)に出向し、敗戦後、現・日本セメントに戻った。下関工場の生産課長から本社の生産課長として退職するまで、セメント工学の技術部門の職を歴任し、定年退職後に嘱託として付属研究所に通って研究を続け、九州大学工学部で博士号を取得し、鹿児島大学に工学部が出来た直後、主任教授として赴任した。当時の弟子が、その後、日本セメントの本社生産課長を継いだ。

(注2)北支那開発株式会社(1938年11月7日設立)の記憶違い

僕等は侵略者の子供達だった
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら(省略)
----------------------------------

(注:2008.11.13 第15回にて完結いたしました。)
『資料編1・2』は、各回に分散掲載しました。

┃準備号/資料1┃資料2資料3