僕等の恐怖と狂気が中国兵に乗り移った
しかし中国語の罵声は、僕の上を通り越して、チカラさんにあびせかけられたのだった。チカラさんはたゆみなく闘い続けていた。だが狂ったように暴れまわった結果は、いささかも良くなっていなかった。チカラさんは何も聞かず、何も見ず、考えることすら止めて、鉄条網だけを相手としていたのだった。いくら怒鳴っても、その訳の分らぬ闘いを止めさすことが出来ないのを知った中国兵は、銃先でチカラさんの注意を引こうとした。だがチカラさんは、背中をこづかれると、いらだたしげにはねのけるのだった。
僕は全身の骨という骨がくだける程の恐怖に押しひしがれていた。その時、乾いた銃声が耳元をゆるがし、僕の心の鉄の鎖を断ち切った。それは威嚇に過ぎなかったが、僕はすでに傷ついたチカラさんを守るために、その鉄砲に飛びついた。しかし僕の小さな身体は大男の中国兵につきのけられ、鉄砲はその凶悪な重みを彼の手に託して、僕を嘲笑っているのだった。僕と同じく銃声によって狂気をふりはらわれたチカラさんは、本能的な沈着さを取り戻して、ジャンバーを脱ぎすてることに気付いた。そして一瞬ののちには、傷だらけのチカラさんは血走った眼を据えて、雄々しく立ち上がっていた。
銃声が再び、今度は鈍く響いた。中国兵はそれを後じさりしながら放ったのだった。威嚇射撃は僕等の恐怖と狂気を中国兵に移し変えていたのだ。チカラさんは胸を張った姿勢のまま、ゆっくりと後ろに倒れた。それは皮ジャンバーをくわえこんだ鉄条網の上であった。
しかし二度目の銃声はその結果の重大さとともに、中国兵自身をも混乱から引き戻した。そして続けざまの不吉な響きにおびえた大人達が原っぱに押し寄せ、荒れ地をすかして虚ろな眼をひきつらせた時、そこにはひざまずいた大男の中国兵と僕の姿があったのだ。中国兵は鉄砲を投げすて、チカラさんの胸に手を当てていた。僕は立っているのがやっとだった。何も考えてはいなかったが、何かが激しく僕の内部を縦に貫き続けていた。
大人達の中から父が走り出て来て、無言で僕の肩を掴んだ。こわばった父の顔を見上げて、その問いかける眼にぶつかった時、はじめて僕は泣き出したのだった。そしてクリークをふりかえって訴えた。チビが氷の下に落ちこんでいるのだった。大人達はそれを聞くと、倒れた鉄条網とその上のチカラさんを乗り越えて、クリークの岸に殺到した。その群に哀願のひびきで中国語が投げ掛けられたかと思うと、短い返事の終るのも待たず、中国兵が綿入れの制服のまま氷の上に飛び降りるのが見られた。すでにひびの入った氷は大男の中国兵によってバリバリと押しのけられ、水面をあらわした。