城壁のない街は、北京の近所と似ていた
広い畑の中の一本道に疲れ果てたころ、小さな街が見えてきた。城壁のない街を見るのは初めてだった。僕は運転台の屋根によじのぼって眺めた。
「あそこに収容所があるの。」
「ちがう、まだ遠いんだ。」
チカラさんが腕時計を覗いてから答えたので、僕は不安になった。
「あと何時間位。」
「はっきりは分らん。心配するな、中隊長。夕方までには着くにきまっとる。」
チカラさんは僕の背中をどやし、頭を撫でてくれた。だが僕は心配せずにはいられなかった。内地にいた時、祖父が死んで悲しかったのを思い出した。あの時から祖父に代って、チカラさんが肩車をしてくれるようになったのだった。チカラさんは曽祖父の郎党の孫だという話だ。身寄りがなくなって祖父が引き取ったのだ。だから祖父が死んだ時、一番悲しがったのがチカラさんだった。葬式の時には、いつも元気の良いチカラさんがオイオイ泣き出したので、僕は余計に悲しくなったのだ。
僕はチカラさんを振り返ってみた。太い眉をくっつけて、近づいてくる街を睨んでいるのだった。少し恐かった。いつもの僕ならチカラさんが真面目な顔をしていたりすると、鼻をつまんで笑わせるのだが、その時には出来なかった。それで僕も一緒になって街を睨んでやった。前のトラックの立てる埃で時々見えなくなったが、また一段と大きくなって現れるのだった。よく見ると、大きな建物こそなかったが、それは北京の近所と似ているようだった。
だがそこには僕等の胡同はないし、あのいつものお茶ばかり飲んでいた門番や、その娘のクーニャンや、男の子はいないのだ。あのクーニャンは雑巾を縫うのにも返し縫いをするとか、針をいつも胸に沢山さしているとかいって、母が笑っていたが、僕にはとても親切だった。よくスケートに連れていってくれた。あのスケート靴は、母があまり荷物は持っていけないというので、惜しかったけど門番の子にやってきた。渡そうとすると、怒ったような顔で僕を見つめるばかりで、なかなか手を出さなかった。日本語の分るクーニャンが何度も礼をいうので僕は困ってしまった。あの子は僕より小さいから、あと二、三年は使えるだろうと思ったが、一緒にすべることは出来ないのだ。もう彼等に会うことはないのだ。あの家は大きくて、夜になると便所が遠いのがいやだったけど、かくれんぼには都合がよかったのに、もう戻ることはないのだった。
資料編 第4回(メルマガ2008年8月28日号分)
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写真1:『えっちゃんのせんそう』
http://www.cinema-indies.co.jp/ecchan/index.htmlより引用 写真説明:花園在満国民学校 原作者・岸川悦子さん(えっちゃん)が通っていた小学校。敗戦後は、日本人の難民収容所として使用された。現在は、中国の軍事施設となっている。
写真2:『検証・満州一九五四年夏 満蒙開拓団の終焉』合田一道 扶桑社 2000年8月10日 214頁より引用 写真説明:哈爾浜の新香坊の義勇兵訓練所。後に難民収容所になった。
写真3:『新版 私の従軍中国戦線』村瀬守保写真集〈一兵士が写した戦場の記録〉村瀬守保 日本機関紙出版センター 2005年3月10日 第3部 徐州作戦-“麦と兵隊”61頁より引用 (避難民のトラックではなく、日本軍の行軍トラック)
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写真4:同 60頁より引用
写真5:同 64頁より引用 写真説明:両側に家の立てこんだ、狭い道で敵の待ち伏せ攻撃にあうと、恐怖だけが先立って、夢中で脱出する事だけしか考えられませんでした。
文章・図版7:『じいちゃんは引き揚げ少年だった』
坂本龍彦著 岩波ジュニア新書320 1999年5月20日
カバーより:
一九四六年秋にようやく引き揚げてきた少年は、「貧しい異邦人」へのまなざしの中、「満州」での切実な体験の意昧を問い続け、人間や日本社会を見る目を育てながら成長していく。好評の前著『孫に語り伝える「満州」』に続いて、あの戦争を日本人が自らにどう位置づけるべきかを問う、「心と体に刻まれた歴史」第二弾。
●「あとがき」211~212頁を引用
岩波ジュニア新書の前著『孫に語り伝える「満州」』が本になってから、私には心残りのようなものがありました。
生と死の境目を歩いてきた少年の私の難民生活が、その後の私の成長にどんな影響を持ったのか。自分ではっきりと確かめて、子や孫に伝える必要があると思ったからです。
たしかに、捨て身の生き方といっていい姿勢や、ひどい貧乏にもネを上げないしたたかさは身につけてきたようでした。その代わり、生活のすみずみにまで気を配って、生活を愛し楽しんでいくようなゆとりや繊細さは、どこかへ置き忘れてきたかな、とハッとすることもあったのです。
“満州”からの引き揚げ者は一般人だけで百数十万人に達しています。そのうち、私たちのようにまだ成人に達していなかった世代は六、七十万人になるのではないでしょうか。ことに十三、四歳だった私たちは、日本へ帰ってきて知った「異国の丘」を、子どもながら熱唱した世代です。植民地として日本が支配した異国で、敗戦後に生きるつらさや頼りなさがわかってしまった“子どもたち”です。
二〇世紀の歴史の傷口から広がった傷をおおうコブのような世代、ゴツゴツとして少し肌合いの違ったその世代を、私は引き揚げっ子世代だと感じてきました。
すらっと生きてこれず、たわめられ、しわめられて生きてきたこの世代は、「なにくそっ」と何度も立ち直ることが必要でした。
その世代も今や高齢者になって、引き揚げた祖国での生活をも子や孫に記しておきたかったのです。前著につづいて清宮美稚子さんが編集のメリハリをつけてくれました。
一九九九年三月 坂本龍彦
●著者紹介より:坂本龍彦(さかもと・たつひこ)
一九三三年山梨県生まれ。満州で敗戦を迎える。早稲田大学文学部卒業。五七年朝日新聞入社。社会部、編集委員をへて、九三年退社。『シベリアの生と死-歴史の中の抑留者』『満州難民祖国はありや』『「言論の死」まで-「朝日新聞社史」ノート』(以上、岩波同時代ライブラリー)、『孫に語り伝える「満州」』(岩波ジュニア新書)など、著書多数