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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』8

僕は誰にも構われずにベッドの傍らに立っていた

 中国兵に抱え上げられたチビはすぐに病院に運ばれたが、息の絶えたチカラさんをも運ばねばならぬことに大人達が気づくまでに、長い虚ろな静寂の時があった。その間中、僕はクリークの砕かれた氷を見つめていた。涙はすぐ乾いたが、はっきり見えるものは何もなかった。そして僕はとぼとぼとチカラさんの担架のあとについて歩くのだった。

 僕は誰にも構われずにチビのベッドの傍らに立っていた。そこにはまた、泣き崩れる若い中国兵の顔もあった。彼は両手を握り合わせてひざまずき、あの頑丈な大男らしく見えなかった。仲間の中国兵達がやって来て、泣き濡れたままの彼を引き戻し、連れ去った。それを見送る僕の肩を大人達が捉えた。彼等は僕の断片的な言葉を種に、無駄な会話を始め、困惑をまぎらわせようとしていた。

「どうしてあの気のきいた若者が、……。」

「どうして中国語のうまい彼が、……。」

と虚ろな囁きが病室をざわめかせた。だがチビの紙のように白くなっていた冷たい身体が暖められ、注射を受け、その顔に血の気が戻ってくると、大人達も元気づいた。そして僕はもう、誰から質問されることもなく、黙ってそこを離れたのだった。

 僕はチカラさんの暗い顔色を気にする必要がなくなった。中国兵達は以前と同じようにぼんやりと門を守っていた。何を考えているのか、いくつぐらいなのか、僕には関係のないことだった。ただ、その鉄砲だけが以前と変って見えるのだった。

 チカラさんの葬式のあとで、父は僕の頭を撫でながら、ポツリと言った。

「お前にはまだ難しいかな。」

 僕は黙って前方の空を見ていた。何も恐れることはなかったが、緊張していた。

「チカラさんはね、これから子供の時代だ。子供達だけがこれからの日本を作り直していけるんだ、と言っていたよ。あの二、三日前のことだよ。子供達と一緒に遊んでいる時が一番楽しい、なんて言ったんだがね。」

 僕は静かに首をめぐらせて、チカラさんの墓をみやった。それは収容所の荒れ地の片隅の土饅頭の群の中に、新しい地肌を茶褐色にしめらせ、うずくまっていた。誰かが作った白木の卒塔婆が陽をうけて輝いていた。その上に鮮やかに記されたチカラさんの戒名を前にして、僕等は長いこと立ちつくしていたのだ。僕の肩におずおずと手をのせて、あの大男の中国兵もいた。黒い絹の長衣を着て、彼は静かに泣いていた。そしてその細い眼にたたえられた涙の一粒一粒が僕の心を静めてくれたのであった。


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資料編 第13回(メルマガ2008年10月30日号分)

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写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです)

図版2:『生きて祖国へ 1』
図版3:『生きて祖国へ 2 満州さ・よ・な・ら』満州篇(下)
引揚体験集編集委員会 国書刊行会 昭和56(1981)年4月20日
詳しい内容は目次参照(別ページが開きます)

図版4:『ハルビンの詩(うた)がきこえる』加藤淑子著・加藤登紀子編 藤原書店 2006年8月25日
●著者は加藤登紀子さんの母。1935年に満鉄勤務の夫と結婚し、東方の小パリと言われる美しい街ハルビンに渡り、終戦後1946年の引揚げまでの11年間を過ごした。ロシア人との交流、3人の子の出産と子育て、引揚げ時の苦難が描かれている。
●プロローグから抜書き
《ハルビンは故郷を追われたエミグラント(無国籍ロシア人)の街だったからこそ、哀しいほど美しいロシアの匂いが息づいていた。》
《夫にとって、私にとって、そして私たち家族にとってハルビンで暮らした一部始終がどれほど貴重なものだったかを改めて思う。
昭和十年から二十一年までのたった十一年のハルビン。でもそれはまさに二十代の私の青春そのものだった。
同じこの場所にその面影が消えてしまった今も、私の心の中にはすべてがあざやかに刻まれている。》


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