帰還船の来る港への移動が始まった
帰還船の来る港への移動が始まった。僕等は収容所では最后の組だった。妹を産んだばかりの母の身体を気づかって、父がそれを希望したのだ。僕は友達に別れを告げるのに忙しかった。友達は毎日へっていくのだった。ある朝、しばらく会わなかったチビが、息せききって駆けこんできた。タバコの空箱のメンコを持てるだけ手にしていた。
「みんなゴミダメに捨ててっちゃうんだ。まだ沢山あるよ。」
僕は黙ってそれを受け取った。チビは無邪気に緊張して言葉を続けた。
「僕はこれからトラックに乗るんだよ。チカラさんは何処にいるの。」
チビは何も知らされていなかったのだ。僕はそのことに気づくと、なおさら黙らざるを得なかった。しかしチビはひるまなかった。
「僕はね、クリークに落っこった時、チカラさんに助けてもらったんだって。お礼を言っていきたいんだ。」
僕はやっとの思いで口を開いた。
「チカラさんはいまよそに行ってるんだ。」
そして重々しくつけ加えた。
「チビ、お前も立派な大人になるように、って言ってたぜ。」
資料編 第14回(メルマガ2008年11月6日号分)
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写真1:『在外邦人引揚げの記録』毎日新聞社 昭和45(1960)年7月7日 20-21頁より引用 この写真は『戦後引揚げの記録』若槻康雄 時事通信社 1991年12月10日にも掲載されている。『戦後引揚げの記録』の写真説明:「満州引揚げ基地コロ島にて 乗船を待つ引揚者の長い列。この付近で半月待つ間に何人も亡くなったという(昭和21年7月・同地桟橋)」
撮影者:飯山達雄氏。略歴:1904年(明治37年)横浜生れ。1930年(昭和5年)ころから、山と未知の発見に心ひかれ、それらの記録を写真で残すことを志す。以後、北朝鮮の処女峰を登はん、満州、中国本土(昭和8年から16年まで、各数回)、内蒙古・ゴビ砂漠(昭和13年から16年まで、2回)と大陸の旅を続けた。敗戦・引揚げ後、在満邦人の実情を内外に訴え、引揚げを促進するため渡満した。(『敗戦・引揚げの慟哭 遥かなる中国大陸写真集3』飯山達雄 国書刊行会 昭和54年(1970)10月5日 著者略歴を引用)
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写真2:『在外邦人引揚げの記録』同上 192-193頁より引用 写真説明:米軍貸与のリバティー
写真3:『中国からの引揚げ少年たちの記憶』中国引揚げ漫画家の会編 ミナトレナトス 2002年6月20日 より引用 写真説明:引揚者送還のために米国が日本に貸与したリバティー型輸送船(米国国立公文書館資料)