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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』5

正月になって、浮き立った雰囲気が生れた

 食糧は支給してくれたが、アメリカでは家畜用だという噂のトウモロコシの粉が大部分だった。だから北京で用意してきた米がなくなると、鉄条網越しに中国人と物々交換して、米や高粱を手に入れた。僕はチカラさんと何度かそこに行った。チカラさんは中国語がうまいので、よその分まで頼まれるのだった。

 鉄条網の内側は以前は錬兵場だった広い原っぱだが、外側もクリークを間にはさんで、荒れ地が続いていた。中国人達はそのクリークを小舟で渡ってくるのだった。そして中国兵が見廻りに来ると、さっと離れるのだった。別に怒られるということはなかったが、そういう時にこちらの品物だけを取って逃げられてしまうこともある、とチカラさんが言っていた。だから余計にチカラさんのように慣れた人に交換を頼むことになるのだ。

 正月用にもち米が配給された。元気の良い大人達がそれを搗いた。僕はチカラさんが振り上げ振り下す杵の音を誇らしく聞き、正月の近づきを喜んだ。色の黒い粉だらけの餅ではあったが、みなはその一かけらずつに、日本に帰る思いを噛みしめるのだった。それに正月になって、中国の偉い人が来て演説をしたので、もう日本に帰る日を安心して待てる、というなおさら浮き立った雰囲気も生れた。

 チカラさんは薪をけずってコマを作ってくれた。すると近所の子もせがみだしたので、しまいには手にまめが出来る程だった。原っぱにポツリポツリと寒さをかこっていた雑木で竹馬を作ることを教えてくれたのもチカラさんだった。それは釘を打つので折れやすかったが、僕等は柔毛を房々とのぞかせる防寒帽で寒さを忘れて跳ねまわった。ドブ川もクリークも氷を張って、僕等に置いてきたスケート靴を思い出させた。それでも僕等は運動靴のままドブ川の氷に飛び乗った。よくころんだが面白かった。鉄条網をくぐって、クリークの広い氷の上を滑りたかったのだが、それは許されなかった。


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資料編 第8回(メルマガ2008年9月25日号分)

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写真1:『従軍カメラマンの戦争』写真・小柳次一 文/構成 石川保昌 新潮社 平成5(1993)年8月5日 223頁より引用 写真説明:20年の元旦は長沙付近の小学校で迎える。ルーズベルトをつく餅つき。(ルーズベルト=アメリカ合衆国32代大統領)

写真2:『昭和の戦争 ジャーナリストの証言 1 日中戦争』責任編集 松本重治 講談社 昭和61(1986)年4月25日 51頁より引用 写真説明:クリークを利用した軍用物資の輸送(上海近郊で)
詳しい内容は目次参照(クリックすると別ページが開きます。7引揚げも併せて記載)

文章・図版5:『大連 空白の六百日 ―戦後、そこで何が起ったか』富永孝子 新評論 1986年7月30日
(本文523頁、口絵写真6頁の克明な記録です)

●「はじめに」2~3頁を引用
(前略) 国・共内戦の激化で交通は杜絶、陸の孤島と化した大連、二つの中国の間で動揺する市民、高騰する物価、食糧危機。八○パーセント失業状態となった邦人たちの必死の生存作戦。満洲から移入した同胞難民の窮状。力尽き、矢折れる寸前、やっと引揚開始-。
 大連は満洲奥地の麻山(まざん)事件に象徴されるような、極限の恐怖にさらされた日々ばかりではない。まだ、考えて行動するだけの余裕はあった。
 だが、すでに異国となった土地で、異民族の支配のもとに過ごす敗戦国民の一年半の不安は、かつて体験したことのない試練であった。
 先の見えないトンネルに押しこまれ、扉を閉じられたような日々であった。
当時十四歳。女学校二年の私は、秘かに戦争を批判しながらも、表向きは学校長という職に在る父、そして母と弟妹の家族とともに、この大連で歴史の転換を体得した。それは後の私の四十年にも匹敵する、きびしく、重い明け暮れであった。
しかし、世間知らずの娘が、複雑多岐なその頃の社会状況を理解できるはずもない。
 なぜああなったのか、どうしてこうした結果に終わったのか、私の青春のスタート地点となった大連の戦後は、私に疑問と謎だけを残したままであった。
 なんとかあの未知の部分と、記憶の空白を埋めておきたい、私は切望しつつ時を重ねた。
個人の体験を記したものはあった。が、新聞もラジオもないあの一年半の大連の全貌を正確に記した著作はなかった。
 外務省外交資料館に、旧・満州各都市、新京、ハルビン、奉天などの終焉は、各領事館からの報告として残されている。しかし、大連に関しては、昭和二十二年一月、大連からの引揚船永禄丸にロシア語通訳として乗船していた外務省通訳生岡崎慶興の「同船上において蒐集した情報・大連事情」と題した書類のみであった。その表紙には「取扱注意」の印が押してあった。これが四十数年日本統治下にあった関東州大連の終幕にかかわる唯一の公的資料とは-。
 昭和五十五年、父・徳重伍介の三十三回忌の折、偶然当時の父の日記の一部が遺されているのを知った。それは私に決意を促した。
 私は当時のおとなを次々に尋ね歩いた。そして得た結論は「おとなたちは書けなかった」ということである。引揚後もおとなたちには生活との戦いがあった。無一物になった引揚者にとって祖国の風は冷たかった。当時の記録など残す余裕もないまま、おとなたちは世を去った。もうひとつ、渦中に在って活躍したおとなたちには「書くわけにはいかない事情」が多くあった。そのために「書かなかった」という。
(後略)

●著者紹介より
富永孝子(とみなが・たかこ)
昭和6年山口市生まれ。昭和18年から同22年まで大連市に住む。同市光明台小学校を経て芙蓉高等女学校に学び、昭和30年早稲田大学第一文学部国文科卒業。雑誌社を経て昭和33年日本教育テレビ(現・テレビ朝日)入社。同37年より同局を中心にフリーライター、プランナー。


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