重い扉をバラバラと叩くつぶての音が敗戦の知らせであった
あの日、古びた重い鋲打ちの木の扉をバラバラと叩くつぶての音が、僕にとっての敗戦の知らせであった。その小石を投げていたのが、顔見知りの朝鮮人の子供であったことは僕を悲しい静かな怒りで満たしはしたが、僕はそれを誰に向ければいいのかは知らなかった。彼等の甲高い日本語の罵声、ぼんやりと、しかしなぜか、心の中ではっきりと意味が掴めたと思えるあの奇妙な、そして僕等の喧嘩のルールに外れた言葉、その激しい響きが最初から僕をうちのめしていた。
「お前等、アメリカ兵が恐くて外に出られないんだろう。」
僕はそれまでにアメリカ兵なんて見たこともなかったけど、そう言われて、何も言い返せなかったのだ。僕の手は、手垢で黒光りした鉄の把手をカタリと落としていた。
あの時僕は、大きな門の蔭の静まりの中に、中国人の門番の子と二人っきりだった。言葉の通じないその子とはかくれんぼと石けりしか一緒に出来なかったが、それでも仲良しだった。でもあの時は、黙って顔を見合わせていただけなのに、僕等は話していたのだ。あの子は僕に、これもかくれんぼだよ、と言っていた。だから僕は静かに身を固くしていた。そしてつぶての音が止んでしまっても、僕はあそこに立ちつくしていなければならなかったのだ。
時々覗き窓を開けて様子を見ていた胡同も、門の屋根の下と同じ暗さに包まれ始めた頃になって、チカラさんが帰って来た。
「今日は喧嘩しなかったようだな、中隊長。」
僕の頭を撫でながら言った。その言葉はいつものようだったけれど、その眼には優しい笑いがこもっていなかった。それをじっと見守っている内に、僕の視界はそれまでこらえていた涙でぼやけてくるのだった。
「どうした中隊長、元気がないぞ。」
いつもなら僕が泣きべそをかくと、どやしつけるチカラさんが、それだけ言うと僕を肩に乗せて、母屋に向って歩き出した。
チカラさんばかりでなく家族の皆が僕のことを中隊長というのは、こういう訳だ。僕等の国民学校では、朝礼や観閲式の時に、級長が小隊長、それから交代で中隊長、最上級の六年生の場合には大隊長が出来るということになっていた。僕は初めて中隊長になる時に、敬礼する手の甲をきれいにしようと軽石でこすり過ぎて、結局赤チンだらけにしてしまった。その時ついたのが、赤チン中隊長というアダ名だった。それを言われるたびに当然、僕がカンカンになって怒るので、中隊長の方だけ残したのだ。
チカラさんはその時こういった。
「中隊長や、小隊長は先頭に立って突撃するんだぞ。勇敢な男じゃなけりゃいかん。アダ名にしても中隊長と呼ばれるからにゃ、それくらいの度胸をそなえとかんと笑い者にされるぞ。ええか、中隊長。」
だが僕はあの時、門を開けることさえ出来なかったのだ。僕はあの朝鮮人の子供達に始めから負けていたのだ。
あの日が何月の何日であったか、僕には分らない。だけど僕はあの日を鮮やかに思い出すことが出来る。万寿山の池でエビを掬っている時に落としたので、かわりに新しく買ったばかりだった戦闘帽をいじりながら聞いた雑音ばかりの天皇陛下の放送や、夕焼けの校庭で沢山の紙を燃やしたり何かをこわしては力いっぱいにプールの水に投げ込んでいた先生達の見馴れぬ表情などと結びついて、あの日の出来事が思い出せるのだ。そしてチカラさんの肩にまたがって見た母屋の構えを最后にして、あの日は終った。そのあとには僕の北京は残っていない。僕が北京を去ったのは、だから、あの日に違いないのだ。