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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』4-1

街の子供達は見覚えのない旗を振っていた

 街の狭い通りをトラックは走り続けた。僕が感じていたよりも街は拡がっていて、家並みが途切れたと思うと、また同じようにごみごみした石や土の姿を現わした。そのうち、学校のように大きな建物の前でトラックの群は止った。父と運転手は他の大人達と一緒に建物の中に入っていった。僕は飛び降りると運転台に駆けつけた。母はまだ眠っているように思えたが、そうではなく、

「中隊長殿、お元気ですか。」

といつもの声で言った。

「お母さんは大丈夫なの。」

「お母さんは平気よ。心配しないでいいの。」

 僕は母の身体の具合が気になって急いで降りて来たのに、お元気ですか、などと逆に聞かれて、子ども扱いされるいまいましさを覚えたが、母が意外に元気な声を出したので安心もした。そこへ父が戻ってくると、「此処で昼食だ。」と言って、母を抱くようにして降ろした。ふだん見かけたことのないやり方だから、やはり母は弱っていたのだ。

 昼御飯がすんでトラックに乗りこんで見ると、いつの間にか道の両側に旗を持った子供達が列をなしていた。日の丸と見覚えのない旗をみんな両手に握っているのだ。お祭りのようだったが、万国旗を張りめぐらしているのでもなかった。チカラさんにきくと、返事がなかった。むっつりしていて、無理にきいてはいけないような気がした。

 チカラさんはトラックが動き出すと、旗を振る子供達に向って、手を振り始めた。僕もわけは分らなかったが、その中国の子供達に手を振った。みんなニコニコしているので、僕もつられて笑顔になっていた。だがチカラさんは笑ってはいなかった。子供達が見えなくなるまで手を振っていたが、チカラさんの横顔は怒っているように思えた。僕の方を見ようとしなかったから、泣き出しそうな顔だったのかもしれない。僕にはなんとなくそう感じられたのだ。あの日以来、僕はチカラさんが、祖父の葬式の時のように、オイオイ泣き出すのではないかと感じ続けていたのだ。


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資料編 第5回(メルマガ2008年9月4日号分)

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写真1:『母と子でみる 51 20世紀の戦争I』写真・共同通信社 草の根出版会 2001年3月5日 90-91頁より引用 写真説明:市民が日章旗を振る中、保定に入場する日本軍=1937年10月18日(International News Photo)

写真2:同 92頁より引用 写真説明:日本軍に占領された中国北部の町で日章旗を掲げて出迎える現地の老人。町の身体壮健な男子はすでに町から脱出している=1937年10月10日(AP)

文章・図版4:『赤い夕日の満州で -少年の日の引揚手記』谷島清郎・文 ちばてつや・さしえマンガ 新興出版社 1997年8月15日

●144頁から引用
「あとがき」  谷島清郎
昭和二〇年(一九四五)の八月一五日に第二次世界大戦が終了したとき、私は小学校の五年生でした。学校は閉鎖され、翌二一年秋に日本へ帰ってきたので(引揚げと言った)、一年ほどの間があいたまま六年生になったわけです。あくる年は中学校(旧制五年間)の入学試験があるというので、そのための勉強をしなければならないと言われましたが、学校制度が六・三・三制に変わって義務教育になりました。この手記を書きはじめたのは、ちょうどそのころです。
したがって、書きはじめた理由は二つあったと思います。一つは、中学校への入学試験の準備がなくなったことです。他の人とはちがって、五年生の二学期から六年生の一学期までの間、ほとんど一年間学校へ行っていなかったので、何かをしなければという気持ちが強かったと思います。もう一つは、兄弟姉妹が多かったことです。特に上は姉だけで、あとはみんな自分より小さかったので、この引揚げの体験を妹、弟たちに残しておこうと思ったからです。すなわち、一ヵ月もかけて、両親が七人全員を連れて無事日本へ帰ってきた体験を記録しておかねばと思いました。
(後略)

●142~143頁 宮本康二氏の推薦文を引用
「タニシキョロリン」   宮本康二
往時茫々夢幻の如し。「昭和二十年四月八日通化東昌校五年生 藤井先生入営記念」と母の手で書かれた一枚のセピア色に褪せた写真が私の手許にあります。若い先生と三十六名の子供達が緊張した面持で黙ってこちらを見詰めています。
「懐かしいなあ、青パンツ、タダノッポ、シミズチョロコ、オーイ何とか云ってくれ」。すると、タニシキョロリンが沈黙を破って語りかけてきました。あの頃のことを、十一歳の少年の声で、少年の言葉で。それが、谷島清郎著『赤い夕日の満州で-少年の日の引揚手記』です。
著者の住んでいた通化市は満州には珍しく山紫水明の地でした。冬はスキーやスケートに、春はわらび採り、夏はギッギッと大きな声で鳴く鬼キリギリスに息をひそめて近付き、秋は草原に咲き乱れる桔梗の美しさに魅せられるのでした。
一転して、昭和二十年八月ソ連軍の満州侵攻、そして敗戦。日本兵のシベリア送り、奥地からの日本人難民流入、共産党統治下の生活、二十一年二月三日の通化事件、九月引揚開始、十月内地上陸と、それはそれは混乱と困難と不安の連続した時期でした。
引揚後も大人は生活に必死で、子供達もまた大変でしたので、満州の出来事を記録する心のゆとりはありませんでした。そんな中に谷島さんが小学六年から中学にかけて、このような記録を残しておられたということに畏敬の念を覚えます。これは、私たちが今は失ってしまった少年の心と目で書かれた貴重な記録です。
ご両親、年長者に対する言葉遣いの良さ、弟さんに対する気配り……、文中の随所にかつての日本人が持っていた一種なんとも云えぬ清々しさを感じます。ご一読頂ければ、二度と還らぬものへの愛惜の念にキット共感いただけるものと思い、本書を推薦申し上げるものです。
(通化・東昌小学校同級生 元婦人画報サービス総務部長)

●挿絵担当のちばてつや氏は、中国引揚げ漫画家の会のメンバーです。後の回で紹介予定の『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』他にも関わっています。


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