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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』1

僕等は侵略者の子供達だった

『時代の始まり』

 僕は東京行の汽車に乗っていた。それは敗戦の混乱が最早、無秩序の故の生気さえも失って、大人達の眼の中には絶望か、さもなくば、薄汚い欲望しか見出せなくなっていた時期であった。ごたごたしたホームを一生懸命に走って、やっと見つけた座席は、後から乗り込んだ復員服の若者に割りこまれて、肘掛けに胸を押しつけねばならぬ狭さになった。だがこれは、僕が小さかったのだから仕方がない。離れて坐っていた母も、妹をあやしながら、そうなのですよ、と頷いていたのだった。

 しかし、その小さな僕が傍目もふらずに読みふけっていた本に眼を止める大人達の虚ろな表情はどうだっただろう。もしその中の誰か一人でも、あの本について、それとも僕の熱心さについて、一言でも口を開いてくれたなら、僕は昂然と頭を上げて何かを答えたに違いない。それがもし、大人達の興味を引かなかったとしても。

 その本は三国志だった。そして僕にとっては、チカラさんの遺品でもあった。

「中隊長、大きくなったらこの本をやるからな。これを何度も読んで三国志の英雄達に負けない立派な大人になるんだぞ、ええか。」

 チカラさんはこう言って僕の頭を撫で、自らもその英雄の一人であるかのように雄々しく胸を張り、太い眉を上げるのだった。

 そのチカラさんは死んでしまった。だが僕は何巻もの重い本を持ち帰ったのだ。

* * *

 新中国の首都、北京、人民公園のある都。――僕が毎日のように訪れ、スケートをし、魚を掬った、あの湖のように馬鹿でかい池のあった公園も、それより少し小さいけれど、街の真中にでんと坐って、棗が沢山とれる丘を抱えこんだ公園、それに休日にはみんなでボートや遊覧船に乗りに行った万寿山公園も、それらは全て離宮として作られ、庶民を拒んでいたものだった。

 その離宮の跡に僕等がいた。僕等は、万寿山の本当に底の砂粒まで透き通って見える水に戯れる侵略者の子供達だった。その時、北京は僕等のものだった。

 今の、何もかも変ってしまったように思える新しい北京は、僕等のものではあり得ないのだ。

 僕の北京はあの日に終ってしまった。

 だだっ広い大通りも、迷路のようにまがりくねった細い胡同も、赤と緑のけばけばしい模様がまるでそのために家や門が作られてでもいるかのように所狭しと交錯していたあの大小の家々も、たちまちに消え去ってしまったのだ。そして今では、僕の北京はあの最后に住んでいた胡同の大きな家の記憶としてのみ鮮やかに残っているのだ。

 北京でも幾度か引っ越したが、僕はあの大きな家で日本が負けたことを知った。日本が戦争をしている、何者かと戦っているということは、僕等にとっては、時々高空に描き出される飛行機雲によって、それも教えられて初めてはっきりと形が与えられて、そうと知るだけだった。

 それなのに、僕はあの日に、確かに敗れたのだ。その事実だけが、今となっては、僕が北京にいたことを確かにさせてくれるのだ。

※胡同・・・狭い道、路地


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資料編 第1回(メルマガ2008年8月7日号)

写真1:『百度百科 頤和園』より
「頤和園」(Summer Palace)
http://imgsrc.baidu.com/ baike/pic/item/ f99dcf00e6d49e02728b65ad.jpg
http://baike.baidu.com/ view/7379.htm(現在不明)

写真2:『中国古代建筑?(囗+冬)例 自藕香?(木+射)望万寿山和佛香閤』
http://www.artcn.org/ images/gdjz28.jpeg(現在不明)
http://www.artcn.org/ gdjzhu/ylin3.htm(現在不明)

写真3:『敗戦・引揚げの慟哭』より「ホームに座り込んだ引揚者」
『敗戦・引揚げの慟哭 遥かなる中国大陸写真集3』飯山達雄、国書刊行会、昭和54年(1970)10月5日、136頁を引用。
写真説明:117.プラットホームで 博多駅へ来てもう2時間もたった。ホームに座り込んだ引揚げ者たちの話題は、これからの生活の青写真。

文章:『北京旅行 北京観光スポット』より「頤和園」
http://www.arachina.com/ attrations/beijing.htm

頤和園は北京城から約10キロ離れた西郊外にある、中国の古典庭園であり、世界の有名な庭園の一つでもある。頤和園は初めは金貞元年(1153年)に建造された帝王の行宮であったが、1888年に西太后慈禧が海軍の経費を流用して再建し、完工後はいまの名称に改めた。頤和園は万寿山と昆明湖からなり、面 積は290ヘクタール、そのうち、昆明湖は全園面積の約四分の三を占めている。

文章:『感動大陸』より万寿山(まんじゅさん)
http://www.kando-tairiku.com/dest/06id000088.html
万寿山/WanShouShan/ワンショウシャン

万寿山は地質的には燕山山脈の一部に属し、高さは約60m。老人が山中で石の甕を作ったという言い伝えから、古くは甕山と呼ばれていた。

1494年(明の弘治7年)孝宗の乳母である助聖夫人羅氏が園静寺を造営したのがこの地域の開発の始まりで、その後清朝に至り、この一帯は宮廷馬の放牧地として利用されていた。本格的な造営が始まったのは1750年(清の乾隆15年)からで、乾隆帝が皇太后60歳の誕生日を記念するために、園静寺の跡地に大報恩延寿寺を建立し、その際山名も万寿山に改められた。その後昆明湖の拡張で出た土砂を用い、万寿山の稜線が左右対称になるように積み上げられ、今日の頤和園の原型が完成することになる。

山中の主要な建造物は山の麓から頂上に向かって段々に築かれているが、現存する建物は1860年に英仏連合軍によって焼き払われた後に西太后によって再建されたものだ。

昆明湖を望む南側の斜面には、山麓の排雲門から二宮門、排雲殿、徳輝殿、仏香閣と頂上の智慧海までの中央線上に主要な建物が立ち並び、背面にあたる北側斜面にはチベット仏教の寺院である四大部洲と五彩の瑠璃煉瓦で築かれた多宝塔などが建てられている。南斜面の仏香閣からは昆明湖の全体を俯瞰することが出来る。


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