杉花粉被害放置政策に猛然反撃の独立反乱!
“杉林焼き払い放火作戦”開始宣言!
「21世紀ニッポン杉花粉症研究基礎データ」の処遇
2000.5
2000.4.25. 1965年を100とする増減比率の数字が間違っていたことを読者から指摘され、急遽、計算し直し。間違いの原因は不明。教訓:急いては事を為損じる。特に、重要なことは素面で行え。
今回も「論より証拠」。数字を先に示す。以下は、前回紹介した国立相模原病院の調査による「空中スギ花粉数」と、東京都の調査の内から相模原市に隣接する町田市の「スギ・ヒノキ花粉数」を連続の一覧表にしたものである。
1965~1984年が相模原、1985~2000年が町田である。相模原の数字は、グラフからの読み取りである。出典の『日本花粉学会誌』は東京都中央図書館所蔵であるが、武蔵野市中央図書館では取り寄せできないので、花粉悲惨の「悲惨」期間終了後に地下鉄日比谷線の広尾駅近くの東京都中央図書館まで出掛けて、正確な数字をいれ直す予定である。
( )内は、1965年を100とした増減比率である(小数点以下は4捨5入)。
[ ]内は、1966~1970年までの5年毎の通算を100とし、以後、5年毎の通算の増減比率である。
2-4月花粉総数 5か年毎の積算
1965年 2,175(100)
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1966年 825(38)
1967年 1,900(87)
1968年 1,900(87)
1969年 845(39)
1970年 1,625(75) [7,095(100)]
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1971年 1,325( 61)
1972年 3,375(155)
1973年 2,625(121)
1974年 3,675(169)
1975年 1,925(89) [12,925(182)]
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1976年 6,300(290)
1977年 875 (40)
1978年 3,575(164)
1979年 8,300(382)
1980年 2,450(113) [21,500(303)]
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1981年 1,225(56)
1982年 8,475(390)
1983年 825(38)
1984年 4,550(209)
1985年 3,461.3(159) [18,536.3(261)]
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1986年 1,860.3(86)
1987年 898.4(41)
1988年 4,636.0(213)
1989年 215.2(10)
1990年 4,851.0( 223) [15,430.9(217)]
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1991年 3,442.0(158)
1992年 849.9(39)
1993年 3,707(170)
1994年 224(10)
1995年 8,492.2(390) [16,715.1(236)]
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1996年 935(42)
1997年 1,612.9(74)
1998年 1,871.9(86)
1999年 594.9(27)
2000年 9,843.3(453) [14,858.0(209)]
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2000年の数字は4.21までの分。
さる2000.4.21.前回紹介した日本で始めての杉花粉症発見者、斉藤洋三と、電話による交信に成功した。質疑応答の具体的内容につていは、次回に記すが、斉藤は、「東京都花粉症対策検討委員会」の座長を勤め、「疫学調査」(『花粉症の科学』P.9)を行っていた。その斉藤は、上記の相模原、および東京都の花粉調査を、「21世紀ニッポンの杉花粉症研究の基礎データ」との主旨で、「非常に貴重な調査記録」と評価していた。
問題は、なぜ、このような貴重な「疫学調査」の記録を、厚生省の担当と称する「エイズ疾病対策課」も、斉藤に「東京都花粉症対策検討委員会」の座長を依頼したこともある東京都の衛生局すらも、手元に持たず、いわんや、ホームページ公開などは、なすべくもない状況にあるのか、ということである。さわやかな1187(いいはな)アナウンスの裏には、ポッカリとデータの大穴が開いているのである。
以上で(その12)終わり。(その13)に続く。