『電波メディアの神話』(9-9)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.15

終章 送信者へのコペルニクス的展開の道 9

奴隷制反対の筆をふるったペインの葬列に二人の黒人

 一八〇九年、ペインの葬列にしたがったのはたったの六、七人だったが、その列のなかには二人の黒人がいた。もう二、三人がまわりにいたという説もある。奴隷制が公認されていた時代になぜ黒人たちが「裏切り者」の葬列にしたがう危険をおかしたのか。ペインは独立戦争以前から奴隷制反対のためにも、するどい筆をふるいつづけていたのだ。

 孤高の晩年にも発行し続けたパンフレット『アメリカ人への手紙』第四号には「ペインの面目躍如たる一節」(同訳注)がある。

 「公的な問題を論ずるとき、私は自分の意見が人々に支持されるか支持されないかを考慮に入れることは、かつて一度もなかったし、これからも決してないであろう。私が考慮に入れるのは、それが正しいか誤っているか、だけである。正しければいつかは必ず人々に支持される。必要なのは、意見を公然と主張する勇気である。直線が、つねに最大の近道なのである」(同訳注)

 『市民トム・ペイン』は第二次世界大戦中の一九四三年に発表され、英語圏でベストセラーになった。同書では『理性の時代』の思想について「理神論」という表現をさけているが、その理由はおそらく理神論が当時もいまも非公然を建前とする組織、フリーメイソンとふかくかかわっているからだろう。フリーメイソンとアメリカ独立革命との関係は、いまではだれも否定しない。となれば、その仲間だったはずのペインがフランスで獄中にあるのを知ったフリーメイソンの組織のメンバーたちは、いかなる活動をしたのだろうか。歴史の奥深いひだには、まだまだ数多くの秘話がかくれているような気がする。

 たとえば、アメリカの独立は一七九一年であるが、その一四年も前、独立戦争中の一七七七年にはヴァーモント地方が独立を宣言し、黒人奴隷を禁じる憲法を制定していた。ヴァーモント地方は独立後のアメリカ合衆国の一州となり、一四年前からの独自の憲法を放棄した。獄中のペインを見すてたアメリカ合衆国が、奴隷制を法的に廃止するのはそれから半世紀以上ものちのことだし、現在も実質的な差別支配はつづいている。

 もちろんいまではイギリスでもアメリカでも、ペインは再評価されている。しかしそのことが一般市民に十分につたわっているわけではない。その逆に日本などでは「少年時代に桜の木を切ったことを正直に告白した」というワシントンのにせの伝説がいまだに訂正されておらず、奴隷制の大農園主だったことは教えられていない。東西冷戦構造が崩壊したのちの思想的混乱の中でいままた、民衆の側にたちつづけたジャーナリストの原点として、ペインに学ぶべき点は多々あるだろう。

 ペインの雑誌、パンフレットの内容に比較しうるものが、日本の電波メディアで伝達されているだろうか。数千部、数万部のパンフレットと、最先端技術を駆使し、数千万、いや数億の視聴者に一挙にとどく速報性メディアとでは、どちらがメディアとして優れているといえるのだろうか。問題はメディアの技術的な特性よりも、その政治的な特性にある。ひるがえって考えればまた、それを民衆の側の武器として活用しようとするジャーナリスト、市民の側の思想の程度にもあるといえる。


(10)人間と市民の権利宣言の基本に立ちもどる議論展開を