『電波メディアの神話』(9-4)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.15

終章 送信者へのコペルニクス的展開の道 4

印刷・活字をふくむ「公共性」メディア全体解放の視点

 さて、以上ではもっぱら電波メディア、それも地上波の放送を中心に論じてきた。

「電波メディア主権」を自覚した市民が組織をつくり、その人数におうじた放送時間の分割を要求するのが、まず最初のたたかいだ。NHKの場合は受信料の支払いとひきかえにできるから、民放よりもやりやすいだろう。NHKはまず第一の突破口だ。放送時間が獲得できたら、自分たちがつくった番組を放送してもいいが、NHK内部のスタッフにも協力をもとめるべきだろう。そうでないと対抗関係になってしまう。むしろ協力をもとめることによって、内部のスタッフの表現の自由を拡大していくという視点にたつ方が将来性があっていい。

 だがこの「電波メディア主権」という考え方は、活字メディアにも応用すべきなのである。しかも、面白いことには、本書ですでに紹介した電波メディアに関しての神話的「学説公害」の中に、活字メディア解放にむけて逆手にとれる「天動説」があったのだ。それはすでに第二部第五章で紹介した清水英夫の学説の流れの説明のなかにも登場していた。「パブリック・ドメイン・セオリー」(公有、または公共性理論)と「インパクト・セオリー」(影響力理論)である。

「公共性」だの社会的な「影響力」だのは、電波メディアよりもむしろ大手新聞社が常日頃、威丈高に自称し、税金をまぬかれたり、国有地を社屋の敷地を格安でせしめるなどしてきた最大の根拠ではなかったか。しかも、大手新聞社の商品の主要な材料は、官庁と共犯関係の日本式閉鎖型記者クラブによる独占たれ流し情報だったのだ。だから当然、大手の活字メディアについても、市民は主権を主張し、その解放を要求する権利がある。

 具体的には、新聞や雑誌の場合には「放送時間の分割」とおなじように「紙面の分割」を要求すればいい。新聞や雑誌の読者も、民放が相手の場合とちがって購読者の立場だから、NHKが相手の場合のように料金支払いとひきかえにできる。内部のスタッフとの関係も同様 に考えればいい。

 大手の活字メディアを市民の手にとりもどすことは、いわゆるグーテンベルク以来の印刷術の歴史のなかから、民衆の立場にたっていた側面をいきかえらせることでもある。そこで最後に、さきには批判の対象とした「ジャーナリズム性善説」および「アメション・ザアマス型理論」の原点を、むしろさらに正確に追及しなおしてみよう。


(5)民衆の側にたつプレスマン(印刷兼著述業)の伝統