『電波メディアの神話』(6-9)

第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.7

第五章 「打って返し」をくう「公平原則」信奉者 9

規制緩和を推進したFCCの実態に重大な疑問

 椿舌禍事件以後、「日本にもFCCのような独立行政委員会を」という声がたかまっているが、その実態にもおおいに疑問がある。

 中村皓一氏は前出の論文で、FCCの裏側にも注意をむけている。大統領は、定員の半数をこえる与党委員にくわえて、「野党の中から自己の政策の支持者を選んで委員に任命することができ」、「委員長には例外なく大統領の腹心が選ばれ」、「相当数のFCC委員や事務局の幹部が、被規制業界(注=放送界)に、重役として、あるいは顧問弁護士として天下っている」。

 レーガン氏が委員長に任命したファウラーは、規制緩和を積極的に推進したのも道理で、「放送業界とも関係の深かったワシントンの弁護士」(文研月報81・7)だった。しかも最初の仕事は、公共放送への連邦予算カットだった。NHKにとってもよそごとではない。中村皓一は合計二九ページの論文を連載(同82・4~6)している。

 アメリカの公共放送法は一九六七年に成立した。FCC委員長のミノー(当時)は、一九六一年の全米放送事業者連盟大会で、商業放送の番組内容が低俗化しているありさまを「一望の荒野」として批判した。この有名な演説が公共放送法に結実したのだが、レーガンの就任直後にファウラーを委員長とするFCCが提案して成立した「一九八一年修正法」は主財源の「連邦の資金」を「企業資金その他」にかえた。連邦予算を削減された公共放送は、資金提供企業名を告知する方式で商業放送にちかより、評判のわるい石油会社などのクリーンイメージづくりをてつだわされている。

 おなじ組織でも、委員長がミノーのときとファウラーのときとでは、政策が一八〇度ちがう。その原因を糾明せずにものまねすれば、日本ではもっとひどい、とりかえしのつかない結果をまねくかもしれない。

 FCCのしくみにも欠陥があるが、決定的な条件は市民の参加と監視の有無である。

 ミノーが商業放送を「一望の荒野」と批判したのは、放送にたいする市民の関心と運動が盛りあがっていたからである。その前段には「八百長クイズ」などの数々の事件があったし、上院の青少年非行調査委員会によるテレヴィ・ドラマの暴力シーンの調査もおこなわれていた。

 レーガン政権は、このような放送と市民の関係に関しても極端な反動政権であった。規制緩和」政策は、さきにも指摘したように「規制への市民参加の抑制」(文研月報81・2)の面をあわせもっていた。「レーガン政権の一つの目標」(同)には、「ワシントンへの旅費、調査費、法律専門家を雇うための費用などを市民団体に提供する」(同)という一九六〇年代以降に確立した制度への「制限」があった。一九八〇年の「共和党綱領」には「特定の人々だけからなる″自称消費者代表″にだけ、国民から集まった税金を渡すわけにはいかない」(同)と明記されていたのである。

 このようなアメリカのFCCをめぐる権力支配の抗争を考慮にいれると、「ワシントンへの旅費」を必要とするような市民のヴォランティア的な運動には、限界があるといわざるをえない。むしろこの際、参考にすべきなのはアメリカのFCCよりも、たとえばカナダの制度と市民運動ではないだろうか。カナダの放送をめぐる状況は、FCT(市民のテレビの会)が訳した『メディア・リテラシー/マスメディアを読み解く』によって、日本にも具体的に紹介されはじめた。同書の原著は「カナダ・オンタリオ州教育省」の編集である。カナダはアメリカと国境を接しており、否応なしにアメリカの電波がふりそそぐという特殊な事情がある。フランス語を使用する住民もおおいが、英語を使用する市民にとってはアメリカの商業放送の悪影響から子供をまもることは重大な教育上の問題なのである。教育省と市民参加の教育委員会の関係も、日本とはおおちがいのようだし、とくに重要なのは「州」という地方分権的な足場ではないのだろうか。地方別の放送に関する分権が確立していれば「ワシントンへの旅費」がなくても日常的に多数の市民が運動に参加できる。


(10)「市場の魔術」によるドンデンがえしの結果を予測か