第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業
電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6
第五章 「打って返し」をくう「公平原則」信奉者 4
「多元化神話」にひそむ電波主権要求ガスぬきの罠
ペイパー・タイガーのような、アメリカで実現しているケーブルテレヴィへの市民参加は、おおいに勇気づけられる経験であり、日本でもみならうべき教訓にみちている。だが同時に、そこにいたる経過と現状をみると、実際には、既存の地上波の「放送時間枠をよこせ」という要求にたいしての、非常に視聴率のひくい「ガスぬき」という側面がある。本当の表現の自由かどうかという疑問をも提出しておくべきだろう。
権力の守護神はわるがしこい。あたらしい神話は、ひとむかし前には「ニューメディア」、いまは「多メディア」または「メディアの多元化」、私にいわせれば「多元化神話」 である。この神話にひめられた真のねらいは、もっともやすく利用できて視聴率がたかい地上波の電波メディアを、既存の体制が確保しつづけることである。「多元化神話」に関しては、二十年以上も前に「アクセス権」が論じられた時期以来、私は、すでに指摘したとおりの研究者や放送評論家の腰のよわさを痛感している。メディアの多元化がイコール、てばなしの「民主化」だというような、階級社会の実態を無視した説は論外であるが、 そうではない主張にも腰がひけたよわさがある。
椿舌禍事件以後にも、東京大学社会情報研究所教授の桂敬一が『エコノミスト』(93・11・30)によせた「“公正”と“自由”をいかに両立させうるか/テレビ朝日問題に学ぶ」のなかで、つぎのように主張している。
「政党にも、パソコン、衛星放送などの利用を、助成策を講じてでも促すべきだろう。(中略)これらの諸方策を通じて社会情報媒体の多メディア化が進展すれば、メディアごと の放送の公正の追及も、確実に自由度を増すことになる」
桂には、新聞を中心にして民放も加盟する業者団体、新聞協会の出身だが、やはり、すでにくわしく紹介したような「象牙の塔」の住人としての限界がある。だから、ないものねだりの無理な注文になることは承知のうえだが、椿舌禍事件に関連する発言である以上、やはり、理論的な問題点の指摘をはぶくわけにはいかない。
桂の電波メディア論のなかには、まず、オランダの実例のような既存の地上波の時間的な分割使用の可能性が欠落している。また、桂がここでとく放送の「自由」の概念には、庶民の自由を圧殺する「資本の自由」への批判、または警戒心がみうけられない。
「自由」という漢語の古さをきらってか、最近ではカタカナ語の「リベラル」がはやっている。語源はラテン語で、「リベロー」は「自由にする」「解放する」であり、奴隷の身分から解放された自由人を「リベルトゥス」(女性は「リベルタ」)などとよんでいた。だが、近代のイギリスで「奴隷貿易の自由化」を要求した商人たちも「リベラル」で、「自由党」につながったのだ。
自由は自由でも、だれが、なにを、なにから、なんのために自由にするのかによって、決定的なちがいがうまれる。所有関係の認識と批判が欠落した議論では、本質的には反対の結果をうみかねない。日本の自由民主党のネーミングとえらぶところがなくなる。
実践的な問題点としては、「パソコン、衛星放送など」のミニ・メディア以前に、本丸のNHKや民放の地上波の解放をねらうという戦略の基本の欠如を。要するに、階級的な対決姿勢をかいているし、実戦むきではない。敵の本陣をつくかまえを最初からすてた戦略では、ガスぬきの対象にすらなりえない。逆に、「多メディア」=「民主化」合唱のヴォランティア・コーラス団員にくみこまれ、リップ・サーヴィスの手伝いをさせられかねない。いや、敵もサルもの、ひっかくものという。過剰生産で在庫があふれているパソコンと衛星放送用のお皿を貧乏人にも売りつけるというたくらみに、まんまとひっかかることになってしまう。この点は、のちにみるマルチメディア問題とも共通するが、既存の地上波放送が一番やすくつくのである。なぜ貧乏人がやすく利用できるメディアに送り手として参入できず、たかくつくし、さらには受け手に仲間の貧乏人がすくないメディアにおいはらわれなければならないのか。いささかきびしい戦略的な議論が必要であろう。