『電波メディアの神話』(5-2)

第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第五章 「打って返し」をくう「公平原則」信奉者 2

法学的な抽象用語だけで議論する世界の限界

 清水はさらに憲法や放送法について法学的な見地からの発言をつづけ、新聞とは「異なった特性を持つメディア」としてのテレヴィについて、つぎのような説明をする。少し長くなるが、なかなか考えぬかれた典型的な発言だと感じるので、主要部分をそのまま引用する。

「テレビには、なぜ新聞にない制約が必要なのか。これは、通説的にテレビは公共の財産である電波を使っているという、いわゆるパブリック・ドメイン・セオリー、それから有限性というか希少性、スケアシティーのセオリー及びインパクト・セオリーの三つの観点から論じられています。アメリカでは、技術の発達によって、スケアシティーとパブリック・ドメインの議論は影をひそめた。残るのは、インパクト・セオリーですが、このインパクト・セオリーについては、確かに皆さんがおっしゃるように、非常に感情的なメディアであるし、情緒的な影響力が強いですから、やはり、情報の住み分けをきちんとすることが必要であって、ある種のドラマや映画を放送する場合には、時間的にレイティング・システムを導入して警告表示をするような工夫が必要だと思います」

 さて、率直にいうと「通説」の説明がすべて英語、いや米語でなされるという実状に、日本の情報法学の限界を指摘しないわけにはいかない。これは清水個人の責任を追及するという意味ではない。清水は、日本の法学会の習慣にしたがって、できるだけ正確に「通説」の流れを説明したのである。

「パブリック・ドメイン」は米語で「公有地」、つまり「公共の財産」である。この論理はアメリカの一九二七年通信法で明文化されるが、日本ではそれ以前、一九二五年の本放送の許可以前に逓信省の指導方針の中に「公共性」という用語があらわれていた。

「スケアシティー」は英語でも米語でも「希少性」の意味だ。アメリカの一九二七年通信法では、「公共の財産」と「希少性」の両者の論理がくみあわせられており、それが一九四九年の「公平原則」につながっていた。さらにそこから翌年の一九五〇年に制定された日本の現行放送法にはいったのだ。

「インパクト」(影響力)については戦前の日本でも、すでに紹介したように「放送事項の内容は社会の風教上至大の影響があるから、これが監督につき、慎重に考慮を必要とする」としていた。

 日米それぞれに、これらの「セオリー」「理論」または「理屈」「口実」の成立には、当時の背景事情がある。私の考え方では、それらの現実の背景を無視した「通説」の流れの説明だけで議論をすすめるのは、非常に危険である。つまり、机上の空論におちいりかねないのだ。清水のこの説明では残念ながら、結局のところ、「希少性神話」の矛盾をあばくことなく、「技術の発達」を口実とした「多元化神話」のあたらしい欺瞞を容認し、「公平原則」の廃止への世論誘導をゆるしてしまうことにつながる。

 法学的な用語による議論以前に現実を見なおし、特に民衆の要求の立場から直視すること、そういう視点にたって表面的かつ官僚的な政策の裏にかくされたねらいをみぬくことが、真相糾明のための必須条件である。


(3)無線も有線も「すべてエスタブリッシュメント」