『電波メディアの神話』(3-3)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第三章 内務・警察高級官僚があやつった
日本放送史 3

東京放送局初代総裁・後藤新平は露骨な侵略主義者

 以上、いわば「テレガラーフ・ショック」まで味わいながらも、私の場合、残念ながらまだ、放送に関する真のライフ・ワークにいどむ余裕はない。本書ではとりあえず、旧著の焼きなおしによるけたぐり批判にとどめざるをえない。

 旧著の第五章の最初に「ラジオ前史の陰謀」と題した項の書きだしはこうだ。

「ラジオと正力松太郎をめぐる話も、やはり、みてきたようなウソをいう講談めいている。しかし、資料をたぐっていくと、ウソばかりではなく、意外な陰謀のあとがうかがえるのである。そして、『あの太々しい男が武者振いしておった』といわれる正力の読売新聞のりこみの裏には、この新鋭のマスコミ機関たるラジオ免許の、一大争奪戦がかくされていたという疑いが濃厚なのである」

 もう一人のキーパーソンは後藤新平である。これまでにだされた放送の歴史に関する本では、東京放送局の初代総裁に後藤新平が就任したことが簡単にしるされているだけである。『放送戦後史I』は戦後を中心にしているのだから当然といえば当然だが、そこでも「序説」には、「日本で最初に誕生したラジオ放送局は、社団法人東京放送局(後藤新平総裁)だった」とあるだけだ。

 ところが、正力松太郎の過去をしらべていた私にとっては、この「後藤新平」という四文字は大変に重要な意味をもつキーワードであり、核心的キーパーソンの発見であった。

 当時の後藤の主要な肩書きは「元内務大臣」である。内務省は戦後に解体されたが、戦前には諸官庁のうえにたつ中央官庁だった。悪名高い特高警察を含む警察局を暴力装置としてそなえ、天皇制警察国家日本における支配機構の背骨の役割をはたしていた。

 後藤新平(一八五七~一九二九)は有名な幕末の蘭学者、高野長英の親族にあたる。医師として人生のスタートをきったが、内務省の衛生局に入ってドイツに留学し、ビスマルクの国家建設振りに多大な影響をうけたという。当時のドイツは、プロシャがナポレオン三世のフランスをやぶって、こともあろうにパリの王宮で念願のドイツ帝国の建国を宣言したばかりであるから、いかにも侵略的な風潮にあった。後藤の伝記にはビスマルクから「君は医者というよりも、どうも政治に携わるべき人物に見える」といわれたとある。なにしろあだ名が「大風呂敷」だから、いちいち本人のいうことを信じるわけにもいかないが、帰国後の後藤は事実、近代政治家としての道をあゆむ。しかもその政治的経歴は、台湾総督府民政長官、満鉄総裁にはじまっている。

 つい最近の一九九二年に単行本にまとめられた毎日新聞連載小説『天辺の椅子』には、主人公の児玉源太郎大将の急死の周辺にいた後藤の姿がえがかれている。児玉源太郎は後藤の上司の台湾総督でもあった。日露戦争で勝利した直後、実際の指揮をとった児玉のもとに後藤は現場視察と称してあらわれ、その後、「満州経営概論」をまとめてしめす。凱旋将軍の児玉は満州の露骨な植民地化には反対を表明し、ときの政権主流とも対立していた。後藤の案にも反対だった。後藤は児玉が急死する前夜、三時間も話しあっている。急死の原因としては暗殺説もささやかれた。『天辺の椅子』の描写は後藤のうごきに疑問をなげかけるものである。

 それはともかく後藤は、海外進出を主張し、日本民族優秀説を提唱し、『日本膨脹論』という講演録さえのこしている。後藤はまた、台湾総督府の当時から新聞の操縦を重視していた。満鉄では調査機能の強化に執念をもやし、これを「文装的武備」と称した。一九〇七年に創設され、日本の海外侵略史上に名高い満鉄調査部は、後藤の執念の結実である。一九一九年に欧米視察旅行をおえたのちにも後藤は、「大調査機関設立の議」を書きあげて建白している。

 放送との関係ではまず、逓信省電気試験所で無線電話の実験がはじまった翌年の一九〇八年に逓信大臣兼鉄道院総裁に就任している。外務大臣と内務大臣をへたのち、東京市長となるが、そこで一九二一年には財界から百万円の寄附をえて、電気研究所と付属の電気博物館、電気図書館を建設し、電気研究所にアメリカのジェネラル・エレクトリック社製の「放送機」(『電気研究所四十年史』)を購入して設置した。この「放送機」こそが、社団法人東京放送局の理事会が「臨時借用」方針を決定し、日本最初のラディオ試験放送に使用した「東京市所有の無線電信電話機」(五一年版『日本放送史』)だった。


(4)関東大震災の内務省「虐殺コンビ」が陰の仕掛け人