第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱
電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1
第一章 「天動説」から「地動説」への理論転換 7
検閲ずみ新聞記事の朗読から大本営発表への一本道
さて、逓信省は実際の放送免許にあたっては十年前の無線電信法をいじらず、「放送私設無線電話規則」をつくっただけである。それとも逆に、こういうべきなのかもしれない。世間がさわぐ前に先を見こして、無線電信法を制定した際に無線電話をもぐりこませ、あとは規則だけですむようにしておいたのだと。
逓信省通信局内部で内定した「議案」などがのこっている。「経済の不況によって国家財政は甚だしく逼迫」していたので、「放送事業は、厳重な監督の下に、民間で経営させることが適当であるとの局議が決定した」(一九五一年版『日本放送史』)。つまり、本音は国営放送にあったのだが、予算が立てられなかったのである。そこで事実上、国営放送とおなじ役割をはたす方式が考えられたわけだ。そのためにまず最初から、許可する「施設の数」を「一地域一局」と限定していた。だから、「希少性」の根拠もなにもあったものではない。「施設者」は「新聞社、通信社、無線機器製作業者及び販売業者を網羅したる組合又は会社を適当とす」だった。結果としてラディオ放送は一九二五年に民間の社団法人として、東京、大阪、名古屋で当局の内定方針通りに一局づつ発足したが、翌年には全国的にNHKの前身の公益法人日本放送協会に一体化され、国営放送にかぎりなく接近した。
先の逓信省通信局「議案」の「放送事項」は、「気象、時刻、新聞、講演、音曲、音楽に限る。広告は許さず」となっていた。
「新聞、講演」はいずれも検閲ずみのものという意味であり、戦後になっても競争相手の民間放送ができるまでのNHKには報道記者はいなかった。ニュウズは当番の新聞社が無料で提供することになったが、「放送局は、毎回当該社に特使を差遣し資料を受領す」などというものものしい「覚書」(『NHK報道の五十年』)がかわされた。NHKの方ではアナウンサーがそのまま読みあげるだけだったのだ。この方式は新聞社と通信社の側が、ラディオの「競争的立場」(『放送五十年史』資料編)を制約するために申しいれたものであり、戦後までつづいた。途中からは国策通信社の同盟(戦後に現在の共同通信と時事通信に分割)からニュウズが配信されるようになった。有名な大本営発表による戦局のごまかしは、この方式によっていた。
「広告は許さず」には、もうけにならなければ「一地域一局」への出願統合が容易になり、言論統制がしやすいというねらいがこめられていた。予算がないための苦しまぎれの「民間で経営」の方針と、「広告は許さず」の方針とは、当時から日本の「あちら」だったアメリカの実情ともことなり、最初から矛盾をはらんでいた。
このあたりが、広告および複数の放送局並立による競争をゆるしたアメリカの自由放任政策と、日本の厳重監督主義との決定的な相違である。その副産物だということもできようが、結果として日本は、通信技術の発達に関してアメリカにおくれをとった。通信技術の差が太平洋戦争における敗北につながったとする見方もある。そうだとすれば、その遠因は放送の出発点における言論統制の意図にまでさかのぼる。言論統制の過重とはすなわち、資本主義的生産様式および支配構造の未熟さのあらわれでもある。
戦前の一九四〇(昭和十五)年に発行された『逓信事業史』では、「放送無線電話施設を数限りなく許可することは出来ない」理由の第三が、つぎのようになっていた。
「放送事項の内容如何は社会の風教上至大の影響があるから、これが監督につき、慎重に考慮を必要とする」
なによりも決定的なのは、こうした歴史的事実経過である。当局は、最初から一本化して統制する方針でのぞんだ。数本どころか、たとえ何百本の周波数配分が可能だったとしても、かならずそうしたであろう。たとえ何百本あろうとも、「風教上至大の影響があるから」、たとえば「平民社」などに放送免許をくだす気は、さらさらなかったのだ。