『電波メディアの神話』(03-4)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス 4

椿舌禍事件の複雑な構造の裏に隠れた真の狙い

「テレビ朝日の椿発言問題ってのは、何だかよくわからなかったね」というボヤキを発する友人知人が非常におおい。ジャーナリズム関係者にしてからが、ほとんどそういった状態だ。

 とくに事件展開の終盤には、メディア論よりも、国会喚問の是非をめぐる政治主義的な論議が中心になってしまった。言論の自由を守ろうとする立場では一致するおおくのジャーナリストが不幸にも、一番重要なメディア論を深める以前に、どの既存政党の方針を支持するかというような党派的立場の明確化をせまられ、意見がわれたまま、またはおたがいに沈黙したままの気まずい状態になったりして、事件そのものに関する議論は未消化におわっている。

 椿舌禍事件をひとつの転換点としてとらえ、これからの論議をすすめるためには、大筋の問題点を明確化しておく必要があるだろう。複雑な問題ではあっても「事件」としてとらえ、典型的な犯罪の刑事事件なみに問題点を整理すると、すこしはわかりやすくなるものである。

 まずは犯罪の種類、被害者と被害状況、犯人と犯行動機や手口などが確定されなければならない。ところが椿舌禍事件の場合、録音テープまで公開されているわりには、「犯罪」とか「被害」とか「犯人」という事件の基本的な要素が、意外にもはっきりしないのである。

 第一は、椿発言が放送法に違反するという理由で、椿を犯人として追及する立場からの見方であろう。

 この場合、犯罪事実をどこで判断するのかということが基本的な問題になる。

 さきに紹介したように郵政省放送行政局長の江川は、「放送法第三条に違反するおそれがある」と発言した。放送法(巻末資料3参照)の該当箇所を限定すると、「第三条の二(1)」である。とくに「政治的に公平であること」が問題となるのだが、それは前段の「国内放送の編集に当たって」という限定のもとでの義務である。ではこの「編集」が「公平」になされたか否かをどこで判断するのかといえば、それは放送された番組の内容によるほかはない。放送法第二条では、「放送」を「公衆によって直接受信される無線通信の送信」とし、「国内放送」を「国内で受信されることを目的とする放送」と規定している。つまり、放送法のうえでは「受信」を目的とする「送信」の結果しか問題にできないのである。制作者が「送信」以前に、どのような思想や意図をもって「編集」に当たったかどうかは、放送法が規制すべき問題ではないのだ。

 だから第一の立場であっても、椿を「放送法違反」の犯人として告発するためには、椿が会議、しかも本来は非公開の会議の席上で発言した内容を問題にするだけでは不十分だし、むしろ見当ちがいですらある。ところが、かんじんの実際に放送された番組の内容の検証は、まったくなされていない。たしかにテレビ朝日の経営陣は、それ以前にぶざまな全面降伏をした。しかし、本当に「犯罪」がおこなわれたのだとすれば、真の被害者は「受信者」または主権者の市民個々人なのだから、テレビ朝日が郵政省に「あやまればすむものではない」はずだ。雲のうえの内々の取り引きにおわり、かんじんの犯罪そのものの証拠は検証されないままに放置されることになる。これはどういうことなのだろうか。「ごめんですむなら警察はいらない」ともいう。監督官庁が法を厳正に執行しないのは背任行為である。

 放送法違反の放送がおこなわれたと主張するのであれば、郵政省は放送法にもとづく番組審議会などの制度を総動員して事実認定をはっきりし、「一罰百戒」の教訓を後世にのこすべきなのである。また、たとえ郵政省がみのがした場合でも、みずからが被害者であるかのように主張した自民党などは、テレビ朝日だけでなく郵政省をも相手どる訴訟をおこしてしかるべきなのだ。それをあえてしなかったのは、なぜであろうか。こたえは一つしかない。「犯罪」として認定できるほどの材料は存在しなかったのである。

 そこで第二の私の立場となるが、いささか刺激的だが一番わかりやすい例を引くと、犯罪が存在しない以上、椿に対する産経・読売・自民党のタッグ・マッチのふるまいは、リンチに類するつるしあげにほかならない。または、ヤクザが「このやろう、ガンつけやがったな!」一椿発言の場合は「国内放送」とは別の場所で、自民党批判の放送を指示したと放言したこと)とばかりに「インネン」をつけたようなものである。

「ガンつけ」とは「顔を見てにらんだ」とか「せせらわらった」とかいうようなことだが、にらんだりわらったりすること自体は刑罰の対象にも損害賠償請求の根拠にもならない。しかし、街の実力者をにらんだりわらったりするのは不届き至極ということで、ヤクザにとっては「インネン」をつける絶好のきっかけになるし、その不法な、ごりおしのおどしに屈した側は実質的に「オトシマエ」をはらわされるのである。

 私の考えでは、椿舌禍事件の本当の犯人は、「ガンつけ」に「インネン」をつけたヤクザ(産経・読売.自民党、郵政省など)であり、その犯罪は「恐喝行為」に類する。「ガンつけ」という行為の判定のあいまいさの程度は、「公平原則」またはそれへの違反という概念のあいまいさの程度と似たようなものだ。「公平原則」の「あいまいさ」の問題点については、のちにくわしく論ずるが、椿舌禍事件の「犯人」は街のヤクザではないのだから、単純に、被害者は「ガンつけ」の相手にえらばれたテレビ朝日だけと考えるわけにはいかない。やはり、基本的な被害者は「受信者」または主権者の市民個々人である。

 放送評論家の志賀信夫は「椿発言は論外」として批判しながら、「メディア論を深められなかったのは、真に残念でなりません」(『放送批評』94・2)という。私もその点は同感であるが、「残念」な事態の基本的な原因として、そもそも「放送法違反」をいいたてて密告までした犯人の本当の意図が、メディア論とか放送論とかを深め、言論の自由を守るところにはなかったのだという点を強調しておきたい。

 以上の論点は、椿舌禍事件以後の経過によって、さらに決定的に論証できる。

 まず第一には、椿発言を自民党に密告した犯人が、いまだに明らかにはなっていない。犯人自身が正しいことをしたのだと胸をはることができるのなら、重罪を覚悟のうえで軍事機密文書をメディアに流したアメリカの公務員のエルズバーグあたりにみならって、この際、堂々となのりでるべきではないだろうか。椿発言暴露の「犯人」は、「あの」ゼネコン汚職政党の自民党に密告したことから判断しても、相当にうしろぐらいところがあるにちがいない。

 第二には、実質的に強制された録音テープ提出の問題であるが、当時の民放連放送番組調査委員会の外部委員は提出に抗議して総辞職したし、新しくえらばれた外部委員をくわえて新発足した同委員会は最初の会議で「今後はテープ録音はしない」という方針を決定し、それを内外に発表した。この決定に対しては、だれも異議をとなえていない。「同委員会の会合には公的性格があるからテープ録音の提出は当然」という趣旨の主張をした人々、または組織は、なぜ沈黙しているのだろうか。筋をとおす気があるのなら、テープ録音とその公開の義務づけ、または会合の傍聴許可制度などを要求すべきではないのだろうか。それができずに沈黙しているのは、当時の録音テープ提出要求そのものに「言論の白由を侵害する」(総辞職した外部委員の抗議声明)という問題点があったと暗に認めることにほかならない。

 さて、最後の問題は、犯人が「オトシマエ」としてなにをねらったのかという疑問であるが、それは、おどされた側のテレビ朝日、または朝日新聞グループ、さらには大手メディア全体のその後の論調を追いつづけてみると、次第に浮かびあがってくるにちがいないのである。「被害」はむしろ、これからの放送行政のありかた全体にかかわる長期的な問題なのだ。


(03-5)「公平原則」撤廃へむけての世論誘導のたくらみ