電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言
電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1
序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス 2
自民・産経・読売の反動トリオ・タッグマッチ
さて、以上にしるしたような放送中止事件の数々にかかわってきた私にとって、椿舌禍事件は決してひとごとではない。まず最初に、椿舌禍事件の経過を時間的系列で追いつつ、主要な特徴を洗いだしてみよう。
本書では「椿発言」を、「政治とテレビ」というテーマで行われた日本民間放送連盟(以下、民放連)の第六回放送番組調査会における椿貞良・テレビ朝日取締役報道局長(当時)の報告と質疑応答の総称としてとりあつかう。
発言の日時は昨年(九三年)九月二十一日、場所は千代田放送会館であった。
放送番組調査会委員長の清水英夫は外部委員である。当日の会場ではじめて椿が出席することを知った。椿の出席と発言をセットしたのは内部委員で、テレビ朝日編成局長の古川吉彦であった。清水は『放送批評』(94・1)の座談会で、次のような微妙な発言をしている。
「一ヵ月に一回調査会は開かれます。テーマは事務局と私が相談して決めてまいりました。(中略)通常は、内部委員か外部委員が報告して、それを叩き台に議論を進めるのですが、その回は見慣れない人が真中に座っていて、その人がテレビ朝日の報道局長だと紹介されました。その点でも異例でした」
どうやら椿の出席自体が異例のことで、しかもなぜか事前に委員長の了解をえていなかったらしい。椿発言のテープ起こしを読むと、椿はきっと選挙以後の宴席などで同様な発言をくりかえしていたに違いないと思える。となると最初から、椿はいけにえに選ばれていたのではないかとさえうたがいたくなるのだ。
それはともかく、翌月の十月十三日になって産経新聞が一面左トップに「非自民政権誕生を意図し報道」という六段の大見出しで報じ、以後、椿舌禍事件というべき状況になった。
椿発言を報じる産經新聞(93・10・13)
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この産経記事を受けて同日午後、郵政省放送行政局長の江川晃正義は記者会見で「放送法大三条に違反するおそれがある」と発言した。
翌日の十月十五日には読売が「総選挙/55年体制崩す方向で報道/民放連会合/テレビ朝日局長発言」という五段見出しで産経をおいかけ、公正報道に重大な疑念」と解説した。
テレビ朝日は十月十四日付で椿を「報道局長・開設委員長」から「社長付」とする人事を発令した。椿は同十八日に辞任の意志を表明した。同十九日、テレビ朝日の常務会は、椿の辞表を受理し、社長の伊藤邦男を「監督不行届き」で六カ月の二〇パーセント減給処分、椿発言の際に内部委員として同席していた取締役編成局長の古川吉彦を三カ月の五パーセント減給処分とすることを決定した。
十月二十日には、民放連会長の桑田一郎(テレビ朝日前社長、当時は取締役相談役)が記者会見し、翌年三月の任期終了をまたずに会長を辞任すると表明した。
十月二十二日には、民放連の事務局が椿発言がおこなわれた会合の録音テープに議事録全文をそえて、郵政省に提出した。各紙とも翌二十三日に議事録のほぼ全文を報道した(巻末資料1参照)。
十月二十五日には、衆議院の政治改革調査委員会が椿を証人として喚問し、尋問した(巻末資料2)参照)。
清水英夫委員長をはじめとする民放連放送番組調査委員会の外部委員五名は、全員一致して十月二十二日の録音テープおよび議事録全文の提出に反対した。国会による証人喚問にいたった経過をふくめて「報道の自由を侵害する」との抗議声明を発表したのち、十月二十六日に全員が一斉に辞任した。
清水英夫は、「非常に早い段階で椿発言が外に漏れている」(『月刊 Asahi』94・1)という風評を肯定的にみとめている。元共同通信記者で現東京女子大教授の新井直之は、「産経新聞への不信」(『放送批評』94・2)と題する短文の中で次のように指摘する。
「自民党内には早くからA4版二枚の椿発言についてのワープロのメモ(その全文は、時事通信社が一〇月一四日に配信している)が出回っていた。つまり各社の自民党担当は、椿発言を知っていた。しかしそれを記事化することにためらいがあった。ただ、『産経』だけが一〇月一三日付朝刊に派手に報じたのである」
新井は別件の大昭和製紙副社長人違い取材のミスとあわせて、「どうも『産経』は、確認をとるとか、これはどう扱うべきかとかを考えることが苦手らしい」と評している。
だが私は、産経とそのあとを追った読売によるテレビ朝日・バッシングを単なる「ミス」だとは思わない。日頃の謀略的体質の表面化だと判断する。両紙は自民党とタッグマッチをくんだのだ。
産経と読売は新聞界の最右翼だが、この両紙を論評するのは時間の無駄だ。だがほかの大手メディアも、産経や読売の報道姿勢を直接批判してはいない。とくにお粗末なのは大手新聞の紙面である。威丈高にテレヴィを批判するものの、自分の足下を見忘れていた。「放送法を知らない新聞記者たち」とか、「新聞とテレビが違うというのなら、新聞によるテレビ支配の問題――資本や人事を含めた系列の問題は、避けて通れない。この問題を取り上げた記事が見当たらないのは、どういうわけか」(『放送批評』94・2)と痛烈な皮肉をとばされている。まさにインクとパルプの無駄使い、環境破壊の一助でしかなかった。
私自身は『マスコミ大戦争/読売vsTBS』で、読売が佐川急便に高額で土地を売った経過に関するTBSの「疑惑」報道と、それを読売が訴えた件を批判的に書いた。読売にも直接取材に出向き、ナベツネを名指しで批判したこの拙著を「公開質問状」として突きつけた。だから、胸をはってこういえるのだが、どだい、ナベツネごときゴロツキをさけて通るような新聞界のエセ紳士集団に、まともな社会批評ができるはずがない。得意になってテレヴィ批判をするその前に、さきの『放送批評』にこたえて、自民党の実力者と郵政当局にゴマをすりまくって系列放送局を確保してきた自社の批判をすべきだろう。民放テレヴィが俗悪化した基本的原因の一つは、新聞が派遣した新聞記者上がりのゴロツキたちによる野蛮な植民地支配にあるのだから。
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