電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言
電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1
序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス 13
メディアと言論の根底にひそむ人権と人類史の深淵
科学的にかんがえるための基本的姿勢とは、相手がいかなる権威であろうとも、まず、すべてをうたぐってかかることにある。とくに当局発表は徹底的にうたがうこと。建前よりも本音を追及すること。時代背景をたしかめること。だれの仕事か。どういう人脈がうごいたか。だれが利益をえたか、などなどの調査の初歩的原則は、いわゆる犯罪捜査の基本とおなじである。
椿舌禍事件に際しては、もっともっと現在の権力の意図をあばく必要があった。いわゆる技術革新、メディアの多元化という事態の中で、新しい危険がうまれていることも指摘すべきであった。さらには、この機会をとらえて、放送、メディア、言論、そしてその根本にひそむ人権のありかたについて、人類史の深みにいどむべきでもあった。だが残念ながら、そこまでせまる意欲を感じさせる論評に接することはできなかった。
椿発言がおこわれたのは、「学説公害」の黒雲がたれこめるなかである。
政界とメディア界における仲間割れ的な暴露合戦は、はしなくも国会喚問という中央政界の大事件にまで発展した。メディア批判の渦は、いわゆるジャーナリズム業界の領域をこえて一般市民層にまでひろがった。私は、成熟した社会人の市民層なら当然いだくはずの疑問の数々が、世間知らずのアカデミズムが守護してきた「学説公害」の黒雲をふきとばす暴風雨にまで発展するのではないかと期待した。だが年が明けると、おりからの(あのインチキなカッコつき)「政治改革」法案さわぎやら(おなじく)「国民福祉税」詐欺の失敗やらにまぎれて、一部の雑誌以外では論評もされなくなった。非常に残念だった。
ひところしきりにテレヴィを「一過性」とか「一時的で表面的」とみくだしては得意がる活字メディア人種がみうけられたが、いまではほとんどの大手の活字メディアも「一過性」の傾向におちいっている。そんな活字メディアをふくめた「のどもとすぎればあつさをわすれる」習性は、結局のところ体制迎合におちいってしまう。やはり、じっくりと問題点をにつめて論じなければ、おなじなげきを何度もくりかえすことになるだろう。そこでまたしても私は、湾岸戦争、佐川疑獄、カンプチアPKOの度かさなる経験にもこりずに、事件跡追いの愚直な作業にとりかかる決意をしたのである。
ただし、「問題点をにつめる」とか「愚直な作業」とかいってみても、ことばだけが先ばしっていたのではしかたがあるまい。
まずは「問題」の範囲を大胆に「人権」とか「人類史」とかの深淵にまでひろげておく必要があるだろう。電波メディアを中心課題としてとりあげるのは当然だが、メディア全体をも視野にいれる必要がある。電波だとか活字だとか印刷だとかの分類はあるにしても、その機能は結局、メディア(媒体)であるにすぎない。それをつうじて市民個々人、または人間、人類、ホモ・サピエンス、はだかのサル、そのほかなんとよぼうとかまわないが、この動物が情報をつたえあうことにこそ真の意義がある。メディアは、こえ、みぶり、めくばせ、さわりあう行為などの延長である。人間が集団生活をするための手段の延長である。さらにそれをうらがえせば、個々人が集団のなかで自己主張をする手段の延長でもある。この相互関係の必要性こそが、人類史の発端において声帯の発達をうながし、ついでは異常なまでの新皮質の発達を刺激した。ところが現在、民主主義とか人権の尊重とかが表面上こわだかにかたられているにもかかわらず、人類のみが所有するメディアの機能は決して個々人に平等に配分されておらず、その不平等状態を告発する運動はほとんどみあたらない。
終章でその歴史的意義を指摘するが、一七八九年のフランス革命における「人間と市民の権利の宣言」にはこうしるされていた。
「思想および主義主張の自由な伝達は、人間のもっとも貴重な権利の一つである」
以後、二百余年、この「もっとも貴重な権利」は、いかにもそまつにとりあつかわれてきた。電波メディアの発達は、ますますその傾向を加速した。ジョージ・オーウェルが警世と予言の書にえがいた年限の『一九八四年』をすでに一〇年もこえた現在、不気味な暴走をつづける電波およびエレクトロニクス技術のメディア状況を直視しながら、人類史の発端と、またはもしかすると終末の底なしの深淵とを、同時にのぞきこんでみたいものである。
以上、この序章で基本的な問題点を要約して提出した。以下の第一部、第二部、第三部、さらには終章で、個別の論証をふかめることとしたい。論理展開の都合上、くりかえしがおおくなるので、その点、さきにおゆるしをねがう。